埃が窓から射し込む光を受けて、チラチラと舞っている。
 跳び箱、マット、バスケットボールやサッカーボールの入ったカゴ、バット、グローブ、点数表、大綱、縄跳び、etc……。何故かスキー板があるのが校内七不思議の一つである、体育倉庫で二人の男が竜虎相打つといわんばかりに対峙していた。

 片や、紺のスーツに身を包んだ一級建築士、藤林正樹。
 片や、赤茶の髪をした私服の古河パン店主、古河秋生。

 青と赤、双極を象徴するような二人だった。
 一瞬の攻防の後、奇妙な沈黙が続く。口を開いたのは、正樹からだった。

「ふん、何の目的で校内に侵入したかは知らんが、私に会ったのが運の尽きだ。おとなしく成敗されるがいい」

 この男が捕まれば、必然的に正樹への警戒も解かれる。
 正樹は構えを取り、にじり寄るように摺り足で間合いを詰めていく。
 すると、男がすっと手の平をこちらに向ける。

「待った。何か勘違いしてねぇか? 俺は別に疚しいことしに来たわけじゃねぇぞ?」
「私服で体育倉庫に篭った男が、何を戯けたことを」
「じゃあ、スーツ姿で体育倉庫に窓から入って来た挙句、今ファイティングポーズ取ってるてめぇは、怪しくねぇってのか?」
「……ぬぅ」

 秋生の言葉に一瞬、正樹のノドが詰まる。

「俺と同じ不審者じゃないってんなら何だってんだ?」
「教員だ」
「嘘だろ」

 即答。ゼロコンマで見破られた。血筋の成せる技である。

「まぁまぁ、同じ不審者同士仲良くしようぜ」
「ふん、そんな道理など――」

 ニカっと笑う秋生に拒否の言葉を突きつけようとした瞬間、

「あぁーもうっ! 何で俺一人で片付けなきゃいけないんだよ! ったくぅ」

 生徒の声。続いて、体育倉庫の扉が開く。
 男子生徒が両腕に大量に抱えたドッジボールを零さないように注意しながら、体育倉庫に入ってくる。抱えてたボールで視界が悪いのか、オタつきながら前進。カゴまで近づくとボロボロと海がめの産卵のようにボールを落とす。「よしっ、終了」と呟くと再び体育倉庫の扉を閉じた。

「…………おい、行ったか?」
「いんや、分からねぇ」
「貴様の方が近いだろう」
「こっから、外が見えるわけねぇだろが!」

 男子生徒が訪れた瞬間、二人は共に四十過ぎとは思えぬ、軽やか、且つ、滑らかな身のこなしで、跳び箱の中に姿を隠したのだった。共に跳び箱の取っ手の隙間から外を窺うが、著しく遮られた視界からは得られる情報は少ない。第三者から見ると、跳び箱が意思を持ち初めたかのようにも見える。さながら、手足を引っ込めた亀かヤドカリと言った風采である。

「……ところで、先程疚しいことしに来たわけではないと言っていたが、では、貴様は一体何しに学校に忍び込んだのだ?」

 跳び箱の中から正樹が問う。
 もはや、正樹に戦闘する意思はない。突然の来訪者で気勢が削がれてしまった。

「ああ、今日ってさ。バレンタインデーだろ? でよ、娘の奴がチョコ作ったんだよな」
「な、まさか、貴様も……!?」
「あん? 何だアンタも娘が心配で来ちまったタチか?」

 奇妙な共通点を見つけ、急速に親近感を寄せる両者。

「何であんな小僧のためにチョコなんぞ、作ってるんだか。俺様の方が百倍カッコイイじゃねぇか」
「いや、全くだ。高々、十七、八のクソガキなどに娘を任せられるわけがない」

 秋生の愚痴にしみじみと相槌を打つ正樹。二人の間に漂う雰囲気はもはや、居酒屋のそれである。

「まぁ、お互い娘のチョコを貰う不届き者を始末できるよう、励もうではないか」
「おぅ。――って、ちょっと待て! 誰がんな物騒な真似するために侵入したっつったよ!?」
「何? 違うのか?」

 てっきり、最終目的まで一致しているものだと正樹は思っていたが、そうでないらしい。では、一体何のためだ、と正樹が問いかけると秋生は言った。



「俺はな。そいつに娘のチョコだけを食わせるために来たんだよ」



 食わせる? 食わせるとは娘のチョコのことか? いやしかし、それでは……。
 秋生の言葉が一瞬、理解できず、言った言葉の意味を噛み砕いて飲み込んだが、どうにも腑に落ちず……と昨晩の杏の発言同様のことを繰り返し、正樹はようやく受け入れた。

「しかし、いいのか? 娘のチョコが何処の馬の骨とも知れん男の元に渡ることになるではないか。貴様の娘への愛情とは、所詮その程度のものなのか?」
「確かにブータレちまう所はある。お父さん、寂しいぞってなモンさ。でも、嬉しそうに言うんだよな。『今日、バレンタインです』ってさ。台所に立って、俺の嫁と一緒に楽しそうにチョコ作ってんだよ。そんな姿見てたらさ、私心を殺してでも、チョコを渡させてやりてぇじゃねぇか」

 跳び箱から漏れる声は、優しい父の声だった。

「渡させる、とはどういうことだ? 放っておいても、娘はチョコを渡すのではないのか?」
「ウチの娘は体があんまし強く無くってさ。学校には来れないんだよ」
「……貴様が代わりに届けに来ればよかったのでは?」
「いんや、俺もそう言ったんだけどよ。『直接渡さないと意味ないです』だとさ」
「ますます、解せん。結局、貴様は何しに学校に来たのだ?」

 眉を顰める正樹。

「だから言っただろうが、娘のチョコだけを食わせるためだってよ。考えてもみろ、もしも、ウチの娘だけじゃなく、他の娘からも貰ったら、無意識でもそれと比べちまうだろうが。下手して他の娘のチョコの方が美味かったら、ウチの娘が傷ついちまう。ウチの娘はそゆとこに敏感なんでな。実際、娘も言ってたよ。『朋也くん、カッコイイのでいっぱいチョコ貰うと思います。私なんかのチョコ貰って喜んでくれるかどうか……』ってチョープリチーな声でな。だから、決意したんだよ。小僧如きが、そんなにチョコ貰えるたぁ思えねぇが、万が一のために、俺が他の娘のチョコを全て排除してやろうってよ」

 多少心が痛むがな、と秋生は付け加えた。

「む? ちょっと待て、今、トモヤと言ったか? まさか、その男の名は“岡崎朋也”か……?」
「あん? 何だアンタ小僧の知り合いだったのかい?」
「いや、今しがた知ったというか、判明したというか……」
「判明?」
「こちらの話だ。気にしないでくれ」

 正樹は少々不覚に思った。
 まさか、これから始末しようとする人間と関係のある者と接触してしまうとは。些か心に迷いが生じる。しかし、それも一時のこと。よくよく考えてみれば、杏という美少女から思いを寄せられておきながら、てめぇは既に彼女持ちということになる。許されん。杏ほどの美少女を差し置いて、他の娘と付き合っているなど……いや、だからといって、元々容易く交際を認めてやるつもりなどサラサラないわけだが。
 親心とは、乙女心に負けぬ程、複雑怪奇なものなのである。
 ともかく、岡崎朋也はちょっと痛い目に遭った方がいいだろう。この世に女の子からチョコを貰えぬ敗北者が何万人いると思っているんだ。春原だってその一人だ。そうだ。もはや、これは“ヤサぐれた父親のやつ当たり”などではない。言わば、自分はモテない男全ての代弁者なのだ。
 そう、これは――“聖戦”。
 此度の戦、局所的な戦いに非ず。“本命チョコを幾つも貰えるモテ男と義理すら一つも貰えぬ不モテ男”との雌雄を決する、大局的、且つ、象徴的な闘争なのだ。それはおそらく、かつて冷戦中の共産主義と資本主義、二つのイデオロギーの対立に匹敵するだろう。自分だけの戦いでないのなら、負けることは許されない。

「(世のモテない男たちよ、任せてくれ。――モテる男ともやは私が討つ)」

 正樹は全く見事なぐらい曲解し、己を自己正当化するのだった。

「つか、何でこんなマジ話を跳び箱の中でしなけりゃならねぇんだ? 狭苦しいったらありゃしねぇじゃねぇか」

 ガゴっと跳び箱の口が裂けるように持ち上がり、秋生が出て行く。正樹も同感だったので、追従するように続く。

「しっかし、ここは埃っぽいねぇ。さっさと元の場所に戻るとっすか」

 コキコキと首の骨を鳴らす秋生。

「元の場所?」
「ん? おー、そうだ。アンタも来るか? ここよか遥かに快適だぜ? これまた潜伏先には持って来いなんだ」

 どうせ、寄るべく所など無い身。正樹は秋生の誘いを受けることにした。


  ◆    ◆    ◆


 そして、中庭。
 まだ風の冷たい二月に、外で昼食を食べようとするような酔狂な輩はいない。新校舎と旧校舎、その両方の廊下ではチラホラ人影が見える。生徒であることがほとんどが、教師の姿も見えなくはない。もしかすると、まだ不審者……即ち、秋生を探しているのかもしれない。
 二人して、茂みの中に姿を隠すよう上体を屈めている。秋生が周囲に目を配るのを見て、正樹がその肩を掴む。

「おい、まさか中庭を突っ切る気か?」
「あん? そうだけど? あそこに用があるんだよ」

 秋生の指差す先には旧校舎。よく見ると、一階の中庭に面した一箇所だけが開いている。

「だったら、外周を回っていくべきではないのか? その方が危険が……」
「はっ、んなスットロいことやってられっかよ!」

 言うなり、秋生は上体を屈めたまま、走り出した。走りにくい姿勢のはずなのにも関わらず、異様に素早い。常に植木の影に入ることで、新校舎と旧校舎の廊下から死角を突くように移動している。正樹の知る所ではなかったが、ゾリオンでは、敵に見つからぬように走るなど基礎中の基礎だった。

「あ、おい! ちょっと待て、貴様!」

 あんな器用というべきか、奇抜というべきか。ほぼ特殊技能に近い歩法など正樹ができるわけがない。にも関わらず、渡り切り、既に窓枠を越えた秋生がこいこいと手招きしている。

「(えぇい、ままよ!)」

 廊下の人影が無くなった瞬間を見計らって、正樹は走り出した。のっけから全速力である。見つからないように走ることは無理でも、要は見つかる前に走り終えてしまえばいいのだ。ぐんぐん、窓が近づいていく。そして、程好い距離で、正樹はハードルを越える要領で飛び、中に入る。
 と、ほぼ同時に秋生が窓を閉める。奇妙な所で連携が取れていた。

「いらっしゃいませ〜」
「…………何?」

 正樹の思考が硬直した。何故か、少女の歓待の声を受けていた。
 そこは旧校舎一階、過去、図書室として設けられながらも、現在は形骸化し、こう呼ばれている。

 ――“資料室”と。


  ◆    ◆    ◆


「ちぃ〜っす、また来たぜ」
「古河さん、タバコは見つかりましたか?」
「あぁ、流石に校内はねぇから、わざわざ坂下る羽目になっちまった。腹いせに一箱分、まとめてくわえて吸ってやったぜ」
「あんまり、吸われると体に毒ですよ」
「かっ、冗談に決まってらぁ。食後の一本だけだよ。ま、その後再侵入したら見つかっちまって、体育倉庫にちょっとばかし、ほとぼりが冷めるまで居たんだけどな」

 何やら既に親しげである。
 座る場所など決まっているのか、少女に対する形で秋生が座る。今来た中庭を見る方向だ。正樹もとりあえず、秋生にならって、少女と対するようにパイプ椅子に座る。

「な、何なんだ。ここは? というか、君は何だね? ここの係りか何かかね?」
「ここは資料室です。初めましての方ですね、私は宮沢有紀寧と申します。有紀寧は有終の美の有に、20世紀の紀、それに丁寧の寧で、有紀寧です。特に係りというわけではありませんけど、ここを愛用させて頂いてる者です」

 有紀寧は律儀に正樹の質問全てに答える。

「ああ、これはご親切にどうも。私は藤林正樹。正樹は正しい樹木と書いて、正樹と読む。娘のチョコを食らう不届き者を始末しに来た」
「はい?」
「ああ、いえ、最後のは忘れて貰って結構」

 有紀寧の纏う雰囲気に釣られてか、ぽろっと本音が漏れてしまった。

「それにしても、お二人とも、とても元気ですね」
「ま、まさか見ていたのか?」
「はい、見てました。足が速くてびっくりしました」
「おぅ、ハッスルパパさんズだぜ?」
「ズを付けるな、頼むから、ズを付けるな」

 四十を越えた男が、生娘に全力疾走を見られたのである。かなり恥ずかしかった。
 しかし、泣きっ面に蜂とばかりに、

    グゥゥ

 正樹の腹が鳴る。しかも、かなり大きい。
 思えば、カロリーメイト以外口にしていないのにも関らず、体育倉庫の窓から入ったり、秋生と一瞬の攻防を繰り広げたり、跳び箱に隠れたり、中庭を全力疾走したり、と大ハッスルしてしまったのである。当然と言えば、当然だった。

「よろしければ、何か作りましょうか?」
「何?」
「と言っても、冷凍ピラフか冷凍チャーハンぐらいしか無いんですけど」
「ピラフ? チャーハン? いや、一体何を言ってるんだ?」
「いいから、注文訊いてんだから、ウダウダ言わずに注文しときゃあいいんだよ」

 秋生の茶々が入る。

「で、では、チャーハンを」
「コーヒーと紅茶と緑茶がありますけど、どれがよろしいですか?」
「緑茶で」

 有紀寧の慣れた対応の仕方に、思わず、喫茶店に入った時のような簡素な注文をしてしまう。
 よく見れば、少女の背後には、携帯コンロや冷凍食品が入っていると思しきクーラーボックスがある。真っ白なポットの隣にはソーサーなどが入ったティーセットまでもがあったりもする。クーラーの代わりにヒーターが煌々と灯り、資料室を暖めている。

「(資料室……なのか? 教師の宿直室と間違えているのではないのか?)」

 だが、周りを見れば、棚も数多く立ち並んでいて、やはり資料室と言える。思いっきり、私物化されている空間だったが、匿って貰っている身である正樹に何が言えるわけでもなかった。ただ眼前で料理する有紀寧の背姿を見続け、次第に漂い始める香ばしい匂いを嗅ぐ。ふと、目を横にしてみれば、

「うぉっ、ドラゴンボール三巻かよ!? えれぇモン見つけちまったぜ! ハッハッハ、懐かしいねぇ」

 秋生が棚を漁り、古美術品でも発掘したかのように単行本を捲っていた。
 どうやら、資料室には過去、没収された単行本や資料としてあまり価値の無い、雑誌などが納められているらしい。

「(な、何だこの空間は……)」

 異様に快適だった。しかし、いいのだろうか。“朋也、死すべし”という崇高な目的のために校内に侵入したというのに、こんな場所でくつろいでいて。いや、勿論、快適であるに越したことはない。しかし、もっとこう……精神が刃のように研ぎ澄まされるような静謐せいひつ、且つ、殺伐とした空気に晒されていないとダメなのではないのだろうか。こう、人一人消し去ろうと画策する者が潜伏するには、あまりにもムードが和み過ぎているというか。

「はい、どうぞ」

 正樹が懊悩を抱え込んでいる間に、料理が出来上がっていた。香ばしい臭いが鼻腔に満ちると、自然と唾液が分泌される。

「(まぁ、構わんか。腹が減っては戦はできぬとも云うし)」

 頂きますと言うと、正樹はチャーハンにレンゲを突っ込ませた。
 味の方はというと、実の所、絶賛するほどのこともなく、食が進むなという程度のものだった。だが、これが本来の有紀寧の実力ではないのだろう。惜しむらくは、携帯コンロや冷凍食品と言った低スペックさにこそある。本格的な調理器具や具材があれば、思わず、舌鼓を打ちたくなるような腕前に違いない。少なくとも、そういった可能性を感じさせる美味さだった。

「いや、馳走になった。少ないが、取っておいてくれ」

 サッと千円を取り出し、長机の上を滑らせる。

「いえいえ、そんなお金を頂くようなことはできません」

 少し困り顔で、正樹の滑らせる手をそっと押さえる有紀寧。

「いや、しかし……食った分は払うのが道理というものだろう」
「つーか、人の好意を金で返礼するのは、道理に叶ってるのかねぇ」

 隣にパイプ椅子に座る秋生が言う。
 正樹が睨み付けても、何処吹く風だった。何やら、発掘したドラゴンボール三巻に夢中で「この頃はヤムチャもガンバってたのによ、後が分かってると切ないねぇ」などと言っている。しかし、人を以って言を廃せずとも云う。正樹も今回は秋生の方が正しい気がしたので、おとなしく引き下がった。

「ふむ、そうだな。君が将来、結婚でもして家を建てる日でもくれば、私を頼りなさい。丈夫で美しい家を設計してあげよう」

 言いながら、名刺を差し出す。返礼&宣伝という高等テクニックだった。

「しかし、確かにここは快適だが、見つかったらどうするんだ?」
「それに関しては大丈夫だ。俺にちと考えがある」

 秋生は二人に指示を出す。
 と言っても、大それたことは何一つなく、ただ座る位置を変えただけである。

「ホントにこんなことでいいのか?」

 正樹がそう問いかけてしまうほど単純な策だった。

「まぁまぁ、ここは俺様を信用しろって」
「いや、信用できんから問うておるんだろうが」
「何だとてめぇ! チ○コちょん切るぞ!」
「貴様っ、婦女子の前で何と言う破廉恥なこと言っておるんだ!?」

 そんな騒ぎ声が廊下に響いたのか。

「誰だ! 資料室を使っている奴は!」

 威喝ともにピシャンとドアがスライドした。しかし、教師が見たものは、『教師と思しき一人のスーツ姿の男と、それに対する形で座っている私服の成人男性と女生徒』。教師はすぐさま状況を察して、

「あ、三者面談中でしたか。これは失礼致しました」

 ヘコヘコと低姿勢で去っていった。

「何故だ!? 何故、あの教師は気付かなかったんだ!? 色々とおかしいだろうが!? 今や受験シーズン真っ只中なんだぞ!? 今さら、三者面談などしているわけがないだろうが!?」
「あの……わたしが二年生だったので、勘違いされたのでは?」
「あ……」

 そう言えば、ゴタゴタして洞察力を欠いてしまっていたが、目の前に座る女生徒の胸にあるワッペンは赤、つまり、二年生を意味していた。

「な、こうしてりゃ、少なくとも昼休みが終わるまでは安泰ってなもんさ――って、あぁぁん!?」
「何だ、貴様。急に大声を出すんじゃない」

 正樹の不平も耳に入らず、秋生は立ち上がり、自分の体中をまさぐっていた。必死に何かを探している様子だ。ズボンの前ポケット、後ろポケットを叩いて確かめ、見つからないのか、パイプ椅子の床周りをジロジロと見回している。

「おい、てめぇ! 俺のグラサン知らねぇか!?」
「いや、知らんが」

 ズズーと緑茶を啜って答える正樹。うむ、渋みが美味い。

「てんめぇ、暢気に茶なんぞ啜ってんじゃねぇよ! このままじゃ、『カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気ですか? それよりも僕と踊りませんか? 夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いませんか、フフッフーン♪』ってな具合になっちまうぞコラァァァーっ!」

 何故、井○陽水なんだと心の中でだけ、ツッコミを入れておく。

「頭の上にでも、あるんじゃないのか?」
「おっと、こりゃ失礼。いやぁ、いかんなぁ。年を取ると物覚えが――って、俺が、んな波平みてぇな物忘れするわけねぇだろがぁぁぁーっ!」

 焦っていてもノリツッコミはするらしい。

「ぐわっ、そうだ。きっと体育倉庫だ」
「体育倉庫?」
「そうだよ。そん時まで付けてた。間違いねぇ。多分、てめぇの攻撃を躱した時に落としちまったんだ!」
「……あぁ、そう言えば、裏拳を放った後、何かカシャンと落ちたような音が聞こえた気がしたな」
「何でそれを早く言わねぇんだよ、てめぇはよぉぉぉーっ!」
「暗がりで貴様がグラサンを掛けていることなど知らなかったんだ。許せ」
「よしっ、てめぇが今から行って、取って来い」
「何ぃ? 何故、私が貴様のグラサンなど取りに行かねばならないんだ?」
「てめぇが攻撃してこなけりゃ、俺はグラサンを落とさなかった。だから、てめぇが取りに行く。どうだ? 何が間違ってるか、おい?」
「間違ってるな。そもそも、貴様があそこにいなければ、私は貴様に攻撃していなかった。故に全て、貴様の自己責任だ」
「かっ、もういい! てめぇみてぇな頭カッチン野郎なんか相手してる暇あったら、さっさと自分で取りに行った方が早ぇぜ!」

 今にも矢となって、駆け出そうとする秋生を、

「あ、ちょっと待ってください」

 有紀寧が穏やかな声で制止する。ゴソゴソと傍にあるカバンを弄り、一冊の本を取り出した。

「つい先程おまじないの本を見てたら、“校内で誰にも見つからない、かくれんぼのおまじない”というものを見つけまして……これを使って見てはいかがでしょうか?」
「へぇ、そいつぁ、一体どうすんだ?」

 案外、こういうオカルトチックなモノが秋生は好きだった。こう見えて、毎月、ダークプリンセス今日子という占い師の月間占いは欠かさず見ていたりする。曰く、「不思議とよく当るんだ、これが」とのことである。

「まず、ダンボール箱に入ってですね。“そりっどそりっどめたるぎあ〜”と三回唱えますと、誰にも見つからなくなるそうです」
「えー? ホントにそんなんで効いちまうのか?」
「そんなに疑わしいのなら、さっさと己が身で試せばいいではないか」
「かっ、言われなくても分かってんだよ。ダンボール、ダンボール……。おっ、あそこに丁度いいデカさのダンボール箱があるじゃねぇか」

 秋生の視線の先には、雑誌類が並ぶ棚の前にあるダンボール。
 同じようにダンボール箱の中には雑誌類が詰め込まれているが、秋生はダンボール箱を真っ逆さまにして、中身を全部出す。続いて、被るようにして中に入り、言われたとおり「そりっどそりっどめたるぎあ〜」などと唱えている。

「(……まさか、本当にやるとは。こいつ、真性のアホだ)」

 正樹は勿論、半眼となって「うわ〜、この人本当にやっちゃってるよ〜、ヤバイ人だよ〜」という感じの可哀想なモノを見る目で見ているわけである。俗説では、娘は父に似るそうだが、まさにバカやった春原を見る杏の目つきそのものである。元々不審者なわけだが、こうなっては本当に骨の髄まで不審者だ。

「じゃあ、行ってくるぜ」

 ダンボール箱の取っ手のために空いた楕円の隙間から、やんちゃにギラつく瞳が覗いている。

「いってらっしゃいませ〜」
「ああ、逝ってらっしゃい」

 正樹は誤字なく、正しく見送った。

「(くく、馬鹿めが。あんなピンポイントなお呪いが本当に効くわけがないだろう。そのまま、あっさりと教師に見つかってしまうがいい。そうすれば、不審者は発見されたということで、私への警戒も同時に無くなる。貴様の犠牲は忘れんよ。はて、名前は何だったかな? おっと、そういえば、訊いてなかったではないか。これじゃあ、覚えようがないな。くっくっく)」

 同じ父であっても、何処か腹黒い正樹だった。
 娘を守ることが全てある正樹にとっては、多少の倫理観など全くどうでもいいのであった。


  ◆    ◆    ◆


 そして、数分後。

「ああ、そうだ。有紀寧くん、君は五時限目になれば、出て行くのだろう?」
「はい、そうですが?」
「少々無理な頼みと承知の上で頼みたいのだが、資料室の鍵などあれば、貸して貰えないだろうか?」
「あ、それなら大丈夫ですよ。ここは大した資料も置いてませんから、いつも開放されてるんです」

 そうなのか、と正樹が言った時だった。

「よぉ、こりゃマジでスゲェぜ……」
「ぬわっ!? 曲者がぁぁーっ!!」

 至近距離から声を掛けられ、思わず、声の方向に向かって突き蹴りを放つ正樹。

「うぉっ、危ね!? いきなり何しやがんだこの野郎っ!」

 またもや秋生は間一髪の所で躱す。どうやら、人の三倍、勘が鋭いというのは伊達でないらしい。

「き、貴様、一体いつの間に忍び寄っていた!?」

 正樹はまるで気配が掴めていなかったことに脅威を覚えた。
 確かに肉食動物を見かけた草食動物のように全神経を動員して、警戒に当っていたわけではない。それでも、最低限の労力による警戒ぐらいはしている。しかし、先程の秋生はその警戒をあっさり越えていた。声を掛けられるまで、まるで気付かなかった。

「いや、だから、さっきのおまじないの効果だろ? ついさっきやめたんだよ」

 指差す先には、秋生をすっぽり覆う程大きなダンボール箱があった。

「な……ま、まさか、本当に効いたのか……?」

 正樹は愕然とした面差しで秋生を見ていた。
 いや、勿論、そうでなければ、今目の前に秋生がいるわけがないのだが、まさかダンボールに隠れただけで見つからないなどという非科学的なことを、はいそうですか、と信じられるわけもない。

「いやさ、俺も最初は半信半疑で人のいねぇトコを通ってたんだけどよ。ほら、ダンボールの中って、見えにくいし、動きにくいだろ? あっさり、後ろから生徒に追い抜かれちまったんだよな。勿論、「やべっ!」って思ったさ。でも、よくよく考えてみたら、普通に追い抜かれたんだよな、俺。こりゃもしかして、って期待しちまうのが人情ってなモンだろ? だからさ、体育倉庫のグラサン回収した後、食堂に行ってみた。そうさ、腹を空かしたガキどもで溢れた食堂さ。ところがどっこい、全く気付かれないんだよ。皆して、“避けるのが当然”ってな感じで避けていきやがる。あんまり、気付かれないんで、つい食堂で売ってるパン覗いて、敵情視察なんて真似までしちまったぜ。いや、マジでこりゃスゲェ。未来の石ころ帽子、先かぶりってな気分だったぜ」

 これがもし、テレビで流れている通販の“体験者の声”という奴ならば、正樹もそんなわけがないと一笑に付している所だが、今目の前で実践され、しかも自分も気付かなかったとあっては、信じずには入られない。

 ――世界には物理法則を超越したパワーがある、ということを。

「ゆ、有紀寧君。少々訊ねてもいいかね?」
「はい? 何でしょう?」
「“バレンタインに本命チョコを貰う男が絶命するおまじない”というのは無いだろうか?」
「いえ、流石に人命にかかわることはちょっと……」
「つか、そりゃもう、おまじないじゃないくて、呪いじゃねぇか」
「そうか……いや、無いなら、いいのだ」

 がっくりと肩を落とす正樹。
 あまりにピンポイントなおまじないがあるので、ふと期待してみたのだが、無いのならしょうがない。実際にあれば、どれほど手間が省けることだろうか。最も面倒なのは、事後処理だ。所詮、岡崎朋也など一介の高校生に過ぎない。ヤること自体は然程難しくないだろう。しかし、目撃者がいたり、後、発覚してしまっては意味がない。正樹が目指すべきは暗殺なのだから。

「せめて、人気の無い所で特定の人物と二人っきりになるようなモノがあればいいのだが……」
「あ、似たようなおまじないなら、確かあったと思います」
「何ぃぃっ、あるのかぁぁぁー!? ぜ、是非ともそれを教えて貰えないだろうか!?」

 おまじないがどのように悪用されるかも知らず、有紀寧は純粋な善意から、おまじないの本をペラペラと捲り、心当たりのあるページを探し当てる。

「あ、ありました。“閉ざされた体育倉庫に二人きり。果たして二人は無事脱出できるか!?”というおまじないですね」
「こらまた、ピンポイントなおまじないだなぁ。そんなんばっかしかよ」

 秋生が茶々入れてくるが、正樹は別のことを考えていた。体育倉庫、人気もないし、邪魔も入らないだろう。しかも、閉じ込められるということは逃げられないということだ。ますます丁度いい。

「(尤も、脱出するのは私一人だろうがな……くっくっく)」

 心の中でほくそ笑み、有紀寧に続きを催促する。

「まず、十円玉を二枚用意しましてですね。一枚を立て、更にもう一枚、その上に立ててください」
「……おいおい、えらく高度な技術を要求されるおまじないじゃねぇか。ギザ10でもなけりゃ、普通できねぇんじゃねぇの?」
「はぁ。でも、その代わり効果は絶大だとか……」
「ふん、効果が保障されているならば、必ず成功させてみせる」

 正樹は財布の中から、ギザギザの入った十円玉を探す。奇跡的にあった。おそらく、カロリーメイトと一緒に買った70円のコーヒーの時のお釣りも含まれているだろう。正樹は椅子から降り、床に膝を付け、限りなく視線と机の高低差を無くし、指先に全神経を集中させる。
 先に二枚立たせた状態のまま持ち、同時に机の上に立たせようと試みる。一枚目のギザと二枚目のギザが極僅かだが、歯車のようにかみ合うよう注意する。置いて、指を離そうとすると二枚目が落ちそうになったり、一枚目がズレそうになる様を何度となく繰り返す。

「(くそ、私は一級建築士なんだぞ!? 家を建てる男が十円玉二枚連続、立てられんでどうする!?)」

 家を建てるのと、十円玉を立てることは全く関係の無いが、そうやって己を叱咤激励する。それが功を成したというわけでもないのだろうが……確かな感触を覚える。重心を捉える感触。期待とともに震える指を離す。――十円玉は……崩れない!

「立った! 立ったぞ! 十円玉が立ったぁぁぁーっ!」

 天を仰ぎ、ガッツポーズを決める正樹。もはや、有紀寧や秋生といった衆人環視など無視した喜びようである。何かが立って、これほど嬉しいのはいつ以来だろう? 若かりし頃、初めて、自分が設計した建物が建った日? いや、愛娘二人がハイハイから立った時以来だろう。

「いや、んなクララが立ったみてぇに喜ばれても……」

 案の定、今度は秋生が引いている。

「で、次は何をすればよいのだ!? クマでも倒すのか!? 今の私なら倒せる気がするぞ!」
「いえ、クマを倒す必要はありません。ただそのままの状態で、スピイドノキアヌリイブスノゴトクと三回唱えてください」
「スピイドノキアヌリイブスノゴトクっ! スピイドノキアヌリイブスノゴトクっ! スピイドノキアヌリイブスノゴトクゥゥゥーっ!」
「あ、あの、そんなに力一杯言う必要はありませんよ」
「……あ、いや、すまん。つい、気分が高揚してしまって」

 ようやく、冷静になる正樹。よく考えれば、いい年した中年が、十円玉二枚、縦に立てるのに必死になり、成功の瞬間子供のようにはしゃぎ、意味の分からない呪文を気合全開で言っているのである。かなり恥ずかしい人だ。正樹は、顔面に血が上るのを感じた。

「んんっ! ……で、その次はどうするのかな?」

 一度咳払いして、問いかける。

「それでは、一緒に閉じ込められたい人の名前を頭の中に思い浮かべてください。そうすれば、十円玉が崩れ落ちて、おまじないは完了します」
「(岡崎朋也ぁぁぁ!)」

 迷うことなく、正樹は念じた。

 カチャーンという金属音と共に立てられた十円玉は崩れた。
 グワングワンとステップでも踏むように揺れる。
 そして、やがて、動かなくなった。――そう、十円玉は、動かなくなったのだ。

「(くく、これで我が計画は一気に前倒しされるぞ……くっくっく)」

 堪えきれぬ喜悦に正樹の頬肉が釣りあがる。邪悪な策士の微笑みだった。

「どこの誰だか知んねぇけど、えらい奴に目ぇ付けられちまったなぁ……可哀想に」

 その可哀想な人こそ、娘の恋人なのだが、秋生は知らない。





 朋也のその日の昼は、普段と少し違っていた。
 悪友である春原がどこで入手したのか、一万円などという大金を持っていた。おそらく、道端で拾ったのをそのまま、ネコババでもして手に入れたのだろう。四時間目終了後、春原が言った。

「今、僕ってベリーリッチメンだから、貧しい岡崎くんに、昼飯でも奢ってあげましょうかねぇ? ほら、僕って偉大だし?」
「じゃあ、ファミレスにあるステーキセット頼むな。確か、4000円ぐらいの」

 明確なまでの嫌がらせだった。
 朋也も貧乏学生である。にも関わらず、何故春原だけが(一時的とは言え)、裕福な状態にあるのか。一万円を見せびらかすようにヒラつかせる春原がどうにも癪に触って仕方が無かった。

「……マジっすか?」
「え、お前ステーキセット食わねぇの? リッチな癖にショボイお子様ランチでも食うのか?」
「も、勿論、僕もステーキセット食べるさぁ! ベリーリッチメンだからね!」
「ちなみに複数形になってるのは間違いだからな」

 その後、朋也と春原は校外のファミレスに赴き、本当に二人ともステーキセットを頼んだ。肉汁が鉄板の上で蒸発した香ばしい香りと柔らかな食感に春原は、それを自分が払うことも忘れ、大喜びだったが、デザートにイチゴパフェを食べ、クリームメロンソーダを飲み干した辺りでようやく、思い出す。

「あれ? もう1000円ぐらいしか残らなくないっすかコレ? おかしい、僕ベリーリッチメンだったはずなのに……何故? Where?」
「いや、お前注文し過ぎただけだから。後、Whereじゃなくて、Whyな」

 所詮、正樹から授けられた仮初の称号だった。

「お、岡崎っ! やっぱ、これ割り勘――う゛ぅっ!?」

 春原が何事か提案しようとした瞬間、腹がゴロゴロピーと鳴る。

「あん? どうした?」
「あ、いやね。熱いモン食べたすぐ後に冷たいパフェとか食ったせいかな? 何か無性にトイレに行きたくなってきて……はぅぅ!?」

 震えた声で春原が呻く。
 それもあるだろうが、大腸反射によるものも含まれていた。春原も夜型人間なのである。十二分に起こりえることだった。しかし、二人は知らない。
 その頃、丁度、正樹が“閉ざされた体育倉庫に二人きり。果たして二人は無事脱出できるか!?”というおまじないを成功させたことを……。

 俺はこのターンに魔法カード『ゆきねぇのおまじない』を発動!
 敵対象モンスター一体と自軍モンスター一体を強制戦闘させる! といった所である。
 ちなみに、何故、遊○王風なのかというのは、謎である。

「あ、あのっ、ト、トト、トイレ貸して貰えません? 僕、今にもここで自爆式バイオテロしそうっす!」

 尻を押さえ、カッと目を見開きながら、そんなことを言われた日には、店側も貸さざるを得ない。

「じゃあ、俺先に帰ってるな」

 朋也は春原の背に呼びかける。
 机にある伝票をそのままにし、皿を下げに来たウエイトレスに春原が払うことを告げると、店を出た。


    ◆    ◆    ◆


 しかし、その後、朋也は追われる身となっていた。

 学校の校則では、昼休みに外食してはならない、と定められているのである。
 不良である二人が守るわけもなく、金銭的に余裕がある時は度々、外食していた。
 だが、何故かその日は運悪く・・・・・・・・・・、教師たちが数多く、昼休みの校内を見回っていたので、外から帰り、玄関口の下駄箱で靴を履き替えようとした所、体育教師に目撃されてしまった。
 何故だか分からないが・・・・・・・・・・、その時、体育教師は酷く機嫌が悪そうだった。生徒指導室へ連れ込まれれば、長々と意味も無い八つ当たりのような説教をされることは目に見えていた。当初は朋也も「ただ校庭で遊んでいただけだ」と言い訳したものの、朋也の制服に纏わり付いていたステーキの香ばしい、しかし、しつこい残り香までは誤魔化せず、一瞬の隙を突いて、逃亡を図ったのだった。

 まず人気の無い旧校舎内を逃げ回り、何度も角を折れる。
 そうすることで姿が消えるように見える。体育教師は勿論、また角を曲がって姿が消える前にその背だけでも見ようとする。そうやって、建物の中を逃げ回っていると十分思い込ませた後、外へ隠れ、ほとぼりが冷めるのを待つ。

 そして、朋也が最終的に向かった先は――“体育倉庫”だった。
 バタンと体育倉庫の扉を閉める。この時、朋也はもしかすると運命の扉まで閉めてしまったのかもしれない。


「――待ってたぞ、岡崎朋也。私は神の存在を信じてしまいそうだよ。いや、この場合、悪魔かな?」


 聞き覚えのない男の声に、朋也の肩が震えた。即座に振り向き、扉に背を張り付かせる。
 そこには人の形をした影。腕を組んで、壁にもたれていることは分かるが、顔は暗くてよく分からない。

「正直、あまりにもハプニングとアクシデントが続出するものだから、不安で堪らなかったが……やはり、運命は私に味方してくれているようだな、くっくっく」

 人影が口元を手で覆い、肩を揺らす。邪悪な笑みだった。
 その笑みに込められた殺気が、朋也の元まで漂う。生存本能が刺激され、ドアノブを握るが、ガチャガチャと空回るばかりで、押しても引いても開かない。おかしい。たった今、開けて入ったばかりのはずなのに。外から鍵が掛けられてしまったのだろうか?

「くく、無駄だ無駄だ。おまじないの効果で貴様は既に脱出不可能な状況にある」

 朋也は再度振り返り、口を開こうとして、言葉が思いつかなかった。
 何で、出られねぇんだ? 何で、俺の名前を知ってんだ? 待ってたって、一体どういう意味なんだ? おまじないって、何のことだ? 何で、殺気立ってんだ? そもそも、アンタは一体誰なんだ?
 聞きたいことは山とあったが、あまりに多過ぎて何から訊ねれば良いのか分からない。

 人影が壁から背を離し、ゆっくりと腕を上げ、歩幅を広げる。何か拳法の構えのように見えた。


「私の“今日”と言う日は! 岡崎朋也! 貴様の死を以って、完結するのだぁぁぁっ!」


 ――こうして、朋也は命を狙われる運びとなった。





 今、念願の仇が目の前にいる。
 薄闇で、人気もない空間。――千載一遇のチャンスだ。
 正樹にとっては、もう迷うことなど何一つない。後は、全力で標的を叩き潰すだけだ。

「死に晒せぇぇぇーっ! 岡崎朋也ぁぁぁーっ!」

 セリフは三下だったが、気合は幹部級の正樹が駆ける。
 怨念、執念、罵詈雑言。ありとあらゆる負の感情が込められた拳を、その戦々恐々としている朋也の顔目掛けて、左フック。

「うぉわっ!」

 屈んで躱され、代わりに体育用具の並べられた棚を叩く。朋也が正樹の開いた体の脇を転がるように逃げる。つまづいたのか、四足歩行になり、体を正樹に向けて尻餅を着く。朋也が躱せたのは、完全なまぐれだった。一瞬、左手の薬指にある結婚指輪が光るのを見て、左フックの軌道を予見(というよりも、予感)しただけだった。

「な、何で俺が殺されなけりゃならないんだ!?」
「ふん! 己が胸に問うてみろ!」
「いや、心当たりが全くねぇから、聞いてんだけど!?」
「……何と罪深い奴。故に貴様はこの私に処されるのだ!」

 しかし、再度、朋也に攻撃を仕掛けようとした瞬間、

    グラッ

「む?」

 何かが大きく揺れた。――それは正樹が叩いた棚。
 体育用具が並べられた棚が、正樹目掛けて、倒れ掛かる。

「う、うおぉぉぉぉ!?」

 気付いたときには既に手遅れで、物々しい体育用具が零れる音と共に、正樹は棚の下敷きとなってしまった。

「……え〜と、何かよく分からんが、俺もしかして助かったのか?」

 ポリポリと頭を掻く朋也。
 未だに状況を正確に把握できていないが、助かったという事実だけは認識できた。

 俺はこの瞬間を待ってたぜ! 場に伏せた魔法・トラップカードを一枚オープン!
 カウンターマジック『ゆきねぇのおまじないの副作用』を発動!
 敵対象モンスター一体を、3ターン攻撃することを禁止するぜ! といった所である。
 ちなみのちなみに、何故、遊○王風なのかというのは、謎である。

「(ちぃぃ! 何のこれしきのこと! 跳ね返してくれるわ!)」

 腕立て伏せでもするように、身を起こそうとした時、気付く。――体が……動かない!

「(ぬぉぉぉっ! う、動けん!? 腕一本動かん!? 縄跳びか何かが体に絡みついて全く身動きが取れん! な、何だこの呪縛は!? このような効力など、話に聞いていないぞ!? )」

 正樹が知らぬ真実がある。
 “閉ざされた体育倉庫に二人きり。果たして二人は無事脱出できるか!?”というおまじないは、かけた本人が拘束されてしまうのだった。おそらく、これは単独で事態が解決できないよう、そのように設定されているのだ。しかも、対象者たちの実力によって、その拘束力も強弱するという、無駄に高性能なおまじないだった。

「(四万八千円もするリスト・ルージュ製の高級スーツが埃まみれではないか! リスト・ルージュがどこのブランドか知っているのか!? おフランスだぞ!? おフランスの小洒落たオーダーメイドスーツなんだぞ!? なのに、こんなにしてしまって! 妻に何と言えばいいんだ! 明日から一体何を着ていけばいいんだ!? まさか、この私に青山やら量販店で売っている千円ぽっちの安物スーツを着ていけというのか!? お、おのれ、おのれぇぇぇぇ! 私がこんな目に遭うのも全て、岡崎朋也! 貴様のせいだぁぁぁぁっ!)」

 正樹はギリギリと歯軋りを鳴らし、地面に臥したまま、朋也を睨め上げる。
 何度試みても、口以外に動く所がない。ならば、最大級の呪詛を吐き出してやろう。
 この世界には物理法則を超えた力がある。有紀寧のおまじないにより、そのことを悟った正樹は、「もしかすると、想いだけでも人を殺せるのかもしれない」と考えた。

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇ!」
「うぉぉぉっ、超怖ぇぇぇっ! 一人アンリ・マンユかよっ!」

 地の底から響く魔王のような怨嗟に朋也は後退る。
 生まれてこの方、これほど強烈な人の恨みを受けたことはなかった。

「くそっ! 何か良く分かんねぇけど、ムザムザ殺されてたまるか!」

 朋也は、正樹が動けぬ間に近場にあった金属バットを手に取る。
 それで正樹を攻撃すると云う案が脳裏を過ぎったが、流石にそれは不味い。傷害沙汰など、停学どころか、退学になってしまう。朋也の向かった先は窓だった。走りながら、大きくバットを振りかぶる。

「はっ! 窓を割って脱出するつもりか! 無駄だ! その程度で、このおまじないは解けん!」
「何ワケ分かんねぇこと言ってんだ! うらぁっ!!!」

 朋也は当然、聞く耳持たず、金属バットを振り下ろした。
 正樹の予想では、それこそ防犯ガラスを殴りつけたように、ひびが入ろうとも、決して割れないはずだった。有紀寧のおまじないは、それほどまでに絶大なのである。しかし、

   ガチャンッ!

「な、何ぃぃぃっ!?」

 窓ガラスはあっさり割れた。

「(ば、馬鹿な!? おまじないで、脱出不可能なのではなかったのか!?)」

 正樹が知らぬ真実は、更にもう一つある。
 “閉ざされた体育倉庫に二人きり。果たして二人は無事脱出できるか!?”というおまじないは、本来男女専用のおまじないなのである。元々の効果目的は“男女が共に緊急時に陥ることで、吊り橋効果を発生させ、恋心を芽生えさせる”ことだ。二人が閉じ込められるのは言わば、副次的な効果に過ぎず、また組み合わせが男女でない場合は、その効力も本来のモノと比べると著しく低下するのだった。(※原作にて秋生が相手である場合、秋生は火薬を用いることで解呪せずとも脱出している)

「(い、いかん! このままでは奴に逃げられてしまう! 千載一遇のチャンスを逃してしまう!)」

 朋也はさらにガラスを割り、次に窓枠に金属バットをあてがって長方形を描く。脱出時にガラス破片で怪我をしないように完全に取り除いている所だった。

「ふんぬるわあぁぁぁぁぁぁーっ!」

 正樹が全力を振り絞る。あまりの叫び声に朋也も振り返る。
 ビニール製の縄跳びが細く伸び、引き千切れそうになるが中々千切れない。それでも一気に可動域が広がった腕で上半身を起こし、続いて、浮いた空間に膝を割り込ませるように立たせる。

「どけぇぇぇっ!!」

 そして、片足だけで起き上がり、倒れた棚を押し返した。
 相当疲弊したのか、膝に両手を当て、肩で息を切らす正樹。

「(頼むから、こんなに力を出したのは生まれて初めてだ、とか言って、前のめりに倒れてくんねぇかな?)」

 朋也は期待したが、

「お、岡崎朋也ぁぁぁ〜……! 絶対に、絶対に逃がさん……!」

 空しい願いだった。
 細く長くなってしまったものの、未だに拘束し続ける縄跳びを今度こそ完全に引き千切ろうと手首付近の縄跳びを掴んで、引っ張っている。

「(や、やべぇ! さっさと逃げねぇと!)」

 呆然と見てしまっていたが、そんな余裕が無いことをようやく思い出す。
 振り返り、窓から脱出をしようとして――。

「(しまっ――!?)」

 失念していたことを思い出す。
 窓は少々高い所にある。あそこから出るためには、自分の体重を持ち上げる必要がある。常人なら、両腕を伸ばして、よじ登れば良いが……――朋也は左腕が上がらない。かと言って、片腕懸垂が一回できる程度の筋力の持ち主である朋也には、右腕一本での脱出は不可能だった。

「(台! 何か、踏み台になるようなモンは!?)」

 素早く辺りを見回す朋也。
 平均台。動かし辛いし、低過ぎる。跳び箱。高さはいいが、動かし辛い。パイプ椅子。軽いが、低過ぎる。そして、四番目に朋也の目に入ったのは、サッカーボールの入ったカゴだった。

「(これだ!)」

 カゴといっても公園のゴミ箱のようなコップ状の物ではなく、小動物の檻を彷彿とさせる長方体のカゴだ。あれならば、車輪キャスターが付いているので移動もさせやすいし、高さも相当稼げる。朋也は柵の一部を掴み、強引に引っ張る。

 ――動かない。

 いや、動かないのではなく、酷く動き辛い。ボールの分重いからか? いや、違う。そのワケは……。

「(車輪キャスターのどれかが壊れてやがるのか!? ちゃんと買い換えろよな、サッカー部っ!)」

 朋也の知る所ではなかったが、サッカー部は春原が起こした不祥事で大会出場停止となって以来、部としての立場が低くなっている。当然、それは部費にも影響を及ぼしている。流石に消耗品であるサッカーボールを買う部費もないというわけではないものの、ボールを入れるカゴまで買い換える余裕などないのであった。

   バツンッ!

 何か強いゴムが切れるような、あえて言えば、アキレス腱が切れるような音が響く。朋也が正樹に目をやる。――片腕が自由になっていた。

「後、一本……」

 言うや否や、正樹は既にもう片方の腕の解放に取り掛かっている。

「(やばいやばいやばいやばいやばい!)」

 もう選り好みしている余裕などない。朋也はサッカーボールの入ったカゴを全力で引っ張る。ガチャンガチャンとカゴがロデオの牛のように揺れ、中のボールが跳ね回る。何かをこれほど引っ張るのは何時以来だろうか、朋也は一瞬考える。
 そう、それはおそらく……小学校低学年の時分、運動会の綱引き以来だ。確か父兄同伴で教師たちと対決するというプログラムだった。思えば、あの頃はまだ父、直幸との仲も良かった。そして、直幸もまた、父としての威厳に満ちていた。「絶対勝とうな、朋也」と、そう言った直幸の力強い笑みに朋也も無邪気に「うん」と頷き返していた。

 ――もう、あの頃には戻れないんだな。

 郷愁感が朋也の胸に募る。

「(って、やっべぇよ! 今の、もしかして、走馬灯かよ!?)」

 ハッと現実に戻り、再度カゴを引っ張り始める。ほぼ壁に密着させるような位置にカゴを持ってくると、頭を天井にぶつけないように注意を払いながら、その上に乗る。丁度、胸辺りに窓。これなら、出られる。割った窓に体を通す。しかし、枠の分だけ狭く、スッと出られない。何とか通そうともがいていた時。

   バツンッ!

 二回目の破裂音。既に胴辺りまで出ていた朋也に確認する術はなかったが。

「逃がさんぞぉぉぉっ!」

 その怒号で、正樹が完全に解放されたと分かるには十分過ぎた。

「う、うぉぉおおおぉ!」

 足でも掴まれたら終わりだ。朋也はそのまま地を、いや、カゴを蹴った。
 もしも、直線状に向かって来てくれているのであれば、車輪キャスターの付いたカゴが邪魔してくれるはずだ。それと同時に朋也は、壁に手を押し付け、自分自身を引っこ抜く。まるでトコロテンのように押し出され、朋也は脱出した。
 安全な着地など念頭に入れてなかったので、顔面から地面に落ちそうになる。朋也は咄嗟に頭を抱えるように身を丸めた。首の付け根辺りに衝撃。そのまま何度か前転する。
 顔だけ窓に振り返って、

「ひぃぃっ!」

 高校生活どころか、生まれて初めて春原のようなヘタレな悲鳴を上げてしまった。
 かつて、呪いビデオを小道具に一世を風靡したホラームービーで、怨霊の女がテレビから這い出てくる名シーンがある。今の正樹の状態がまさにそれだった。片腕だけだらりと窓から出し、頭を垂れている。ガタガタと体を揺さぶって窓枠を揺らし、潮干狩りのように壁を引っ掻いている。ただ映画と一つ違う所は、その目はちゃんと見える所か。睨め上げるような目だったが。

「岡崎朋也ぁぁ〜……」

 もはや、夢にまで出てきそうな呼び声に、尻餅ついたまま朋也は後退さる。本当に、どうあっても、この世から消してしまいたいらしい。膝が震えそうになったが……様子がおかしいことに朋也は気付いた。いつまで経っても、正樹は窓から出てこない。ガタガタと窓枠を揺らしているだけだ。

「も、もしかして、アンタ出られないのか?」
「…………」

 正樹は何も言わず、変わらずガタガタと窓枠を揺らしている。無言の肯定だった。正樹の体格は秋生と同程度。つまり、朋也よりも大きい。その朋也がギリギリ出られた窓を正樹が通れるわけがなかった。広い肩幅がかえって、つっかえてしまっているのだった。

「ははっ! 何だよ、出られないのかよ!」

 安堵から、笑みが出る。
 ひとしきり笑った後、朋也はゆっくり身を起こす。尻の砂を払い、太ももを払い、脛を払い、肩を払い、もう一度、正樹の間の抜けた姿を拝見しようとして……。

「――っ!?」

 いなかった。正樹の姿が無い。

   ザザッ!

 体育倉庫の陰から、現れた何かが、砂煙を巻き起こす。はっとして音へ振り返る。

「逃がさん、と……私はそう言ったよなぁ、岡崎朋也」
「……な、何でだ? だって、外から鍵がかかってたじゃないか?」
「貴様が脱出したことで、おまじないの効力が切れたようでな。普通にドアから出てこれたのだよ」
「そりゃ、一体どんなおまじないなんだ!?」

 体育倉庫は中から鍵がかけられない。
 そのことが朋也を安心させていた。正樹のおまじない云々など信用しているわけがなかった。

「もうバレるだとかバレないだとか、そんなことはどうでもいい……。貴様の鼻っ柱に我が拳をブチ込まなければ、私の気が治まらん!」
「……逃がしてくれ」
「貴様はRPGゲームをやったことがないのか? ――ボスキャラは主人公を逃がさない」

 その言葉に、かつて、やったことのある名RPGのワンシーンが浮かぶ。


『トモヤは逃げ出した。しかし、背後に回り込まれてしまった。この戦闘からは逃げられない。』


『この戦闘からは逃げられない。』

『この戦闘からは逃げられない。』

『この戦闘からは逃げられない。』


「い、嫌だぁぁぁーっ! 俺は生き延びてみせる! な、渚! 俺に力をぉぉぉーっ!」
「ふはははっ! 馬鹿め! こういう時に女の名を呼ぶ奴は、死すべき定めにあるのだぁぁぁーっ!」

 逃げ出した朋也を追う正樹の笑みは、獰猛な猛禽類のそれだった。
 正樹と朋也の追走劇は、まだ終わらない。
 




 その日の昼、坂上智代は朋也にチョコを渡すために三年の教室を訪れた。
 思い立ったら、即行動というのが、決断力に富んだ彼女の選択である。だが、訪れて見たものの、朋也の姿が無い。(後、春原も)近場のクラスメートに問いかけてみると、「春原と二人でステーキセットがどうこう言ってたら、外食でもしてるんじゃない?」と言われた。それを聞いた智代は、

「全く、しょうがない二人だな」

 と呆れ顔で溜息を吐いた。
 しかし、そういう破天荒な所が気に入っているので、本気に責める気にはならない。この進学校では、肩肘を張らずに付き合える数少ない人種だった。

「もうすぐ、卒業間際だと言うのに……立つ鳥跡を濁さず、という言葉を知らないのか? 一度、きつく言ってやらないとな」

 彼女らしい義務感に突き動かされ、チョコを片手に智代は校門まで向かう。
 智代としては、朋也も春原も友人だと思っている。でなければ、バスケット部と朋也たちとの試合に協力などするわけがない。そして、友人なればこそ、時にはきつく言ってやるべきだ。
 春原と朋也が具体的にどこへ行ったのか分からないため、必ず通らねばならない校門まで行けば、会えるだろうと足を向ける。しかし、玄関口で外履に履き替え、校門を目指す道中で、朋也の姿を見かける。

「(何を急いでいるんだ?)」

 朋也はこちらに向かって走っていた。しかも、小走りというレベルではなく、全力疾走だ。ふと、朋也と視線があったような気がした。下を向いた朋也の速度が更に高まる。下を向いたままで……走るだけに全集中力を注いでしまっているようだった。流石に目の前ぐらいまでくれば、減速するだろうと甘く考えていたが、

「え、あ、おい! 岡崎!」

 朋也は減速せず、智代と追突する。朋也に押し倒されるような形で倒れこむ二人。

「おい、岡崎! 走るなとは言わないが、せめて、前くらい見ながら走れ!」

 智代が少し憤慨しながら言うが、当の朋也には聞こえてなかった。

「はぁっ……はぁっ……と、智代! はぁっ……はぁっ……」
「な!? 押し倒した挙句、胸に顔を埋めて、息荒くするとはどういう了見だ!? ま、まさか、私に乗り換える気なのか!? そ、そんなことはダメだ! お前には古河渚という列記とした恋人がいるだろう! もし、こんなことがバレたら……って、これじゃ、まるで私が不倫を望んでいるようじゃないか!」

 一方的に想像の翼を広げ、頬を赤らめる智代。

「と、智代……助けてくれ。へ、変質者に命狙われてるんだ……」
「変質者?」

 その言葉に疑問符を浮かべる智代だったが、

「待てぇぇぇいっ! 岡崎朋也ぁぁぁーっ!」

 砂煙を上げ、鬼のような形相で疾走してくる中年男性が目に入る。効果音を付けるとしたら、“ドドドっ”というもの以外付かないような、そんな疾走。

「う、うおぉぉっ! もう追いつきやがったっ! ありえねぇ、あのオッサン!」

 朋也は智代から退くと立ち上がり、すぐさま再び遁走するために背を向けようとしたが、

「事情は良く分からないが、本当に追われてるんだな」

 その袖を智代が掴む。言葉の代わりに朋也が何度も頷く。

「そうか、なら私に任せておけ」
「いや、でもあのオッサン、すげぇ凶暴でその上メチャクチャ強いぞ? 何か拳法やってる感じだった」
「朋也、私は生徒会長だぞ。校内の平和を乱す変質者を許すわけにはいかない。それに腕には自信がある」

 確かに、智代の実力は折り紙付きである。
 何せ、彼女は夜な夜な人様に迷惑をかける不良を狩って回っていた過去がある。

「分かった。じゃあ、俺が先公呼んで来るまで、時間稼ぎ頼むな」
「ああ、時間を稼ぐのも構わないが――別に、アレを倒してしまっても構わないんだろう?」

 恐ろしく頼もしい一言だった。

「ああ、やっちまえ! でも、無理すんな! 先公連れて、絶対戻ってくるからな!」

 それを受け、朋也が走り出す。丁度、その時、正樹が追いつく。

「待てぃ、岡崎朋也!」
「待つのはそっちだ。ここから先は通さない」

 正樹は朋也との間に立ちはだかる少女を、一瞬、訝しげむ。何か妨害しようとしているようだが、できるわけがない。一見すれば、智代は単なる少女なのである。歯牙にもかけず、その脇を走り抜けようとした瞬間――

「通さないと言ったはずだ!」

 風裂り音を鳴らし、蹴撃が迫る。

「――がっ!?」

 まともに腹に喰らい、後ろにすっ飛ぶ。
 しかし、無様に地を転がることはなく、靴底を地面ですり減らしながら、すぐさま体勢を整える。

「……君は、一体何者だ」
「ただの通りすがりの生徒会長だ」
「ただの生徒会長が、私を吹っ飛ばしただと……?」

 信じられない話だった。
 しかし、腹部に走る鈍痛は紛れも無い現実。今日は何と云う日なのだろう。パン屋に攻撃を悉く躱されたと思えば、今度は生徒会長に不覚を取ってしまった。この町は一体どうなっているのか。

「(……町とは広い、な)」

 苦笑いとも、愉悦とも取れない笑みを浮かべる正樹。

「どうあっても、ここを通してはくれんかね?」
「ああ、生徒会長として変質者を見逃すわけにはいかない」
「そうか……ならば、是非も無い」

 スッと構えを取る正樹、対して智代はほぼ棒立ち。しかし、その立ち姿に隙は無い。

「(これは容易ではないかもしれん……)」

 智代の隙の無い立ち姿を見て、正樹が内心焦る。
 あれは無防備に突っ立っているのではなく、もしや、武術で言うところの“無形むぎょうくらい”なのではないのだろうか? だとすれば、今の彼女はどの方向、どんな攻撃にも対処可能だろう。誰にでもできる構えではない。相当な修羅場を……おそらく、一対多の戦いを幾度と無く経験して来た結果、あの構えに至ったのではないだろうか?

「(ちっ、あまりこのような手段は好きではないのだが……)」

 正樹は一計を案じた。

「君……確か、智代くんと言ったか。失礼ながら、君はヒステリー持ちかね?」
「……何?」
「例えば、だ。君が溺れて、見知らぬ男性に人工呼吸をされた時。熱中症を起こして、体を冷やす必要ために服を脱がされた時……そういった、のっぴきならない緊急事態の時でさえ、セクハラを訴えるような女性なのかね?」
「……そんなわけがないだろう。感謝こそすれ、訴えるなど筋違いもいいところだ」
「そうか。いや、そうなら構わないんだ。私も少々触ったぐらいで、セクハラを訴えられてはかなわんのでね」

 ク、クと正樹は笑みを零す。

「そう言えば、先ほど生徒会長として、と言っていたが……本当にそれだけかね?」
「当たり前だ。私は生徒会長として――」
「岡崎朋也の好意を得ようという下心が無い、と言えるかね?」

 その言葉に割り込む正樹。
 智代の肩が一瞬、震える。正樹はその挙動を見逃すことは無かった。

「(――勝てるっ! この戦い、勝てるっ!)」

 正樹は勝利を確信した。

「ち、違うっ! 私は本当にただ生徒会長としてだな――」
「ああ、もういいんだ。別段、生徒会長の義務であれ、男の好意を得るためであれ、私の行く手を阻むことには変わりないのだからな。ところで、だ……」

 勿体つけるような言い様で……



「――君は大事な物を忘れちゃおらんかね?」



 言った。
 智代はハッとして、片手にあるはずの物を――チョコを見た。無い。先ほどまで手に持っていたはずのチョコがなかった。朋也に渡すはずのチョコが!
 まさかと思い、正樹を見る。

「お、お前! その手! 何を隠しているんだ!」
「ん〜? もしかすると、これのことかね?」

 正樹はゆっくりと内側に丸めていた手首を伸ばす。
 前腕で隠れていた物が……智代のチョコが姿を現した。

「やぁ、すまんすまん。先ほど、蹴りを見舞われた時に掠め取ったのを忘れていたよ」

 ク、クと正樹が頬肉を吊り上げる。確信犯の笑みだった。

「これはもしや、本命チョコなのかな? 包装の小奇麗さからして、とても美味そうじゃあないか……」

 見せ付けるようにチョコを持ち上げ、

「――どぉれ、私が味見をしてあげよう……」

 ペリっとセロハンテープが剥れる音を耳にした瞬間、智代の中で何かが弾けた。

「それ以上、私のチョコに触るなぁぁぁーっ!」

 智代が駆け、蹴りを放つ。
 恐ろしいほど唸りを上げて、側頭部に迫るそれ。しかし、正樹は慌てることなく、手で受けようとする。――チョコを持った手で。

「――っ!?」

 チョコに当たる瞬間、寸止めする智代。片足立ちの完全無防備だった。

「隙有りぃぃぃーっ!」

 滑るような歩法で、間合いを詰め、智代の胸――否、胸骨よりやや左。心臓の位置に手を置く。腰の捻転、広背筋との連動、腕の伸縮、それら全てを“瞬発力”として束ね、心臓に送り込む!

「――かはっ!」

 息無き息を漏らし、智代の意識が遠ざかる。

「安心したまえ。峰打ちだ」

 正樹は、横倒しになろうとする智代の肩を支えた。

「孫子曰く、“ノ愛スル所ヲ奪ワバ、すなわカン”。相手の執着しているモノを、まず奪えば、敵をこちらの意のままに動かすことができる、という兵法だ。君は“攻撃した”のではなく、私に“攻撃させられた”のだ。そして、“攻撃を止めた”のではなく、“攻撃を止めさせられた”のだ。君がまず、守るべきは岡崎朋也の背ではなく、自分のチョコだったのだ。後学のために覚えておき給え。――これが、真なる戦闘巧者というものだよ」

 気を失った智代に、その声が聞こえるわけもなかった。
 さて、この少女をどうしようか、と思案し、ひとまず、保健室まで連れて行こうと背負おうとしていた所、男子生徒一人と出くわす。

「君、ちょっといいかね?」
「はい? ――って、うわぁぁ、会長!? ど、どうしたんですか!?」
「実は先ほど不審者に出くわしてな。私と智代くんで撃退しようとしたのだが……奴は恐ろしく手強く、智代くんが負傷してしまった」

 口から出任せに言ったものの、正樹の態度が紳士的だったため、まさか、その正樹が不審者そのものだとは男子生徒は思わなかった。

「そ、そんな会長が負けるだなんて……」
「気をつけ給え。赤毛でグラサンを付けた私服姿の男だった」

 何気なく、秋生に罪を被せる正樹。

「会長は!? 怪我とかしてないんですか!?」
「安心したまえ。どうやら、気絶しているだけのようだ」

 正樹の使った技は、相手を無力化するだけで外傷を負わせないものだ。弱点があるとすれば、相手の胸に手を置くため、女性相手だとセクハラで訴えかねられない、という所だろうか。

「すまんが、智代くんを保健室まで運んでくれないだろうか。何、数時間すれば目を覚ますだろう」
「あの、先生は……?」
「私は奴を追う。――生徒を守るのが、教師というモノだからな……」
「先生……」

 白々しい一言だったが、何やら男子生徒は感銘を受けている様子だった。
 智代の身柄を男子生徒に預け、朋也が教師を連れて来る前に、正樹は資料室へ退却しようと踵を返す。

「ああ、そうだ。目覚めたら、智代くんに伝えておいてくれ。“色々とすまなかった。ただ私も必死だったのだ。許して欲しい”と」

 それだけを言い残すと正樹は、歩いて去っていった。
 通路の角を曲がり、男子生徒から見えなくなると、痩せ我慢もそこまでで、その場に片膝を付く。

「(この私が、よもや蹴り技一発でここまで深手で負うとは……後、もう少し長引けば、地を舐めていたのは私の方だったやも知れん……)」

 一見すれば、正樹が智代に完勝したかに見えるが、実際は辛勝だった。
 朋也に教師を呼びに行かれた時点で、正樹は早々に決着を付けざるを得なかった。故に姑息な手段を用い、智代を挑発し、更に初っ端から最大の攻撃(実は藤林家に伝わる奥義の一つ)を繰り出ざるを得なかったのだ。
 もはや、走ることもできない。この状態で朋也を討てるとも思えない。

「(ひとまず、資料室へ退却せねば……)」

 壁伝いに身を引き摺りながら、正樹は資料室へ向かった。


    ◆    ◆    ◆


「よぉ、遅かったな。で、首尾はどうだったんだ?」

 資料室へ着くと秋生が暢気に聞いてくる。有紀寧は居ない。
 ここに帰ってくる途中、五時限目のチャイムが鳴った。おそらく、教室に戻ったのだろう。

「……失敗した」

 苦々しく正樹が呟く。

「そうか。まっ、気にしなさんな。物事が上手くいかねぇなんざ、人生よくあることさ」

 今にして思えば、秋生の浸入目的は“娘のチョコだけを食わせる”ことなのだ。ならば、智代と対するべきは秋生だったはずだ。にも関わらず、秋生は暢気に漫画読んで過ごしている。何だか、異様に不公平な気がしてならなかった。





 六時限目終了後のLHR。
 担任の言葉も当然聞き流しながら、杏は担任がいつも述べる最後の一言、「じゃ、藤林」という言葉と共に、「起立、礼!」と言って、LHRを締める。
 杏のクラス、E組の担任はLHRにおいて、淡々と注意事項だけを述べることで、好評な担任だ。微妙に評価される点が違う気がするが、生徒とは己の時間を束縛してこない教師を好く傾向がある。
 隣、朋也のいるD組のLHRはまだ終わっていないだろう。杏はそれが終わるまでクラスメートと雑談し、時間を潰していた。

「(それにすぐ行っても……ねぇ)」

 向こうのLHRが終わり次第、隣のD組に行って、チョコを渡し、朋也に告白したい所だが……LHR終了直後は案外、人がいるものだ。まだ大学受験を受ける者は、図書室に向かうか、帰宅して勉強するのか、早々と教室を出て行ってくれるが、杏のように既に大学入学を決めた者は、放課後も気楽に駄弁っていることも多い。まさか、「あたしチョコ渡して告白するから、アンタら出て行きなさいよ」などと言えるわけもない。
 ひとまず、向こうのLHRが終わり、人気が無くなった頃を見計らって、隣の教室に顔を覗かせるつもりだったが。

「あ、お姉ちゃん! 大変ですっ」
「椋?」

 椋が姿を現す。
 急いで来たのだろう。隣のD組のLHRが終わり、ガタガタと大人数で椅子を引く音が響いて、程なくしての登場だった。

「岡――っ! あ、えと、そ、そのぉ……」

 その一言で朋也に関する情報だと分かった。
 杏の周りにクラスメートが居るのを見て、言うか言わざるかを迷っているのだろう。杏はクラスメートとの雑談を切り上げ、帰り支度をして、廊下に出る。

「で、朋也がどうかしたの?」

 椋を廊下に連れ出し、問いかける。

「大変です! 岡崎君、もういませんっ!」
「え、それ、どういうこと!?」
「六時間目の体育が終わって、着替えが済んだ時にはもう岡崎君いなくて……」

 体育の時間は2クラス合同で行い、それぞれの教室を男女に分かれて、着替える。この日はD組とC組が合同で、D組は男子が、C組は女子が使用した。椋がC組から帰ってきた時にはいなかったということは……。

「朋也、LHRフケちゃったってこと!?」
「は、はい、そういうことです。春原くんに聞きましたから、多分間違いないです」

 杏は急いで、D組を覗く。
 椋を信用していないわけではないが、自分の目で確かめたかった。

「あん? 何、急いじゃってんの、杏?」

 春原がいた。

「ちょっと陽平! 朋也はどうしたのよ!」
「え、岡崎? あいつなら、体育終わったらすぐに――」
「そんなこと分かってんのよ! 何で引き止めておかないのよ、この役立たず!」
「へぶっ!」

 有無を言わさず、苛立ち混じりの辞書アタック。

「椋、ゴメン! 先帰るわ!」

 廊下に居る椋に、それだけ言い残すと杏は颯爽と走り出した。

「イマ……ボク、ドコモ、ワルクナカッタヨネ?」

 教室で春原が呻く。
 人は時として、理不尽な暴力に涙するのだった。





 智代に背を任せた後、朋也は約束どおり教師を連れて戻った。
 が、朋也が戻ってきた頃には既に両者ともにいなかった。そのことで連れてきた教師に真偽の程を疑われたが、そこを通りがかった男子生徒が告げる。「会長なら、保健室にいますよ」、と。

 保健室のベッドで智代は横たわっていた。
 思いの他、安らかな寝顔にホッと一息吐いたが、すぐにサッと血の気が引く。偶然であれ、何であれ、智代を負かす程の人間に命を狙われているのだ。しかも、理由も分からず。堪ったもんじゃない。

 何度も、男子生徒が言う紺のスーツを着た教師が不審者であり、自分が襲われ、智代まで襲われたのだと、真実を告げたが信用して貰えなかった。生徒会長の智代が言えば信用もしただろうが、朋也が言った所で所詮、不良の言葉……という態度が目に見えて取れた。それどころか、外食した件を蒸し返され、放課後、生徒指導室に来るように申し渡された。朋也は智代の寝顔を見ながら、守る気の無い口約束のように首肯だけしておいた。

 朋也は五時限目の間、智代に付き添っていたが、流石に六時限目になると保健の千石先生に追い出され、授業を受けた。体育だった。しかし、気が気ではなかった。他の生徒もいる上、視界の広いグラウンドで襲われるとは思えないが、警戒心が常に働いてしまう。無意識に体育倉庫の方面をチラチラ窺ってしまうのも仕方が無いことだった。

 LHRはフケた。
 生徒が下校する様を見れば、あの男はそれを察して、また付け狙ってくるだろう。わざわざ、あちらの都合に合わせる必要などない。家まで尾けられたら……などと考え始めると寒気が走る。最悪、警察に任せた方が良いのではないだろうかという気さえしてくる。

「(渚に会いに行こう……)」

 自分のつま先を見ながら思った。
 たとえ、こんな沈んだ気分でも渚に会えば、それだけで吹き飛んでしまうに違いない。今日のことも、渚との話題の種になるのなら、悪くない。
 朋也の足取りは自然と早くなった。


    ◆    ◆    ◆


 その朋也の背後の電柱にて。

「お、あの野郎。急に早足で歩き始めやがった」
「こちらも、追うスピードを上げよう」

 二人の男が朋也を尾行していた。

「しっかし、いいのか? こっちの付き添いなんかしてて?」
「袖触れ合うも多少の縁というだろう。最後まで付き合ってやる。ところで、奴は本当にまだチョコを貰っていないんだな?」
「ああ、この目で確かめたからな。間違いねぇよ」
「そうか」

 ならば、杏も未だチョコを渡していないということだ。まだチャンスはある。

 秋生が何時調べたかと言うと、それは六時間目のことである。
 正樹は襲撃失敗後、智代の蹴りのダメージが和らぐのを待っていた。
 ふとそんな時、秋生が六時間目のチャイムと共に資料室を退室。何をしに行くのか、と問いかけると、朋也が他の娘からチョコを貰っていないか確認しに行くのだ、と言う。朋也の六時間目が体育であることは既に調査済みで、無人の教室に忍び込み、朋也の近辺(机や鞄)を調べる算段らしかった。「体育ならば、教室に鍵が掛かっているはずだが、どのように忍び込むのだ?」そう問うと、秋生は「知ってるか? 高層ビルとかじゃ、高い階ほど窓を閉め忘れて、そっから入られちまうらしいぜ」と言い、退室した。何処から用意したのか――その肩にロープを背負って。
 今も、屋上の給水塔には、秋生が回収し忘れた一本のロープが風に靡いている。
 丁度、それは3−Dの真上だったりするのだが……知る者は少ない。

「そういや、おめぇ何で小僧が尾けてたんだ? つか、どうやって知ったんだ?」
「まぁ、色々とな」

 答えになってない答えを述べる正樹。
 正樹が朋也のサボりを感知したのは、六時間目終了直後、春原からの密告を携帯電話で受け取ったからだ。いくつか頼んだうちの一つ、『朋也が帰る素振りを見せたら、密告しろ』と言う命令を忠実に守ったらしい。
 勿論、秋生には知らせず、トイレに行くと偽って、こっそり資料室を退室したのだが……。朋也を尾行している最中、坂の下で秋生と遭遇。何でも「今度はライターが切れちまってよ。これだから、100円ライターは嫌になるぜ。ま、おかげで小僧がフケるの見かけたから良かったけどよ」とのことらしい。……恐ろしく強運な男だった。

「(どうにかして、この男を排除しなければ……)」

 現在、道路の人通りは無い。人影は、前を歩く朋也のみである。――今なら、ヤれる。
 しかし、唯一の弊害として、秋生がいる。自分の標的が朋也だと知れたら、この男は自分を阻止しようとしてくるに違いない。朋也のためでなく、娘のために。なるべく自然にこの男が場から離れる策は無いだろうか。この男の弱点は娘だ。正樹同様、娘のためにここまでする男だ。それをどうにか利用できないだろうか。正樹は考え始める。

「そう言えば、貴様の娘は今どうしているのだ?」
「あん? 多分、今頃小僧に会うために学校目指してるんじゃねぇの? 外で渡したいって言ってたからな」
「この寒空の下、病弱の身で外で、だと?」
「俺も別に帰ってきてからでもいいんじゃねぇかって、言ったんだけどよ。どうしても外で渡したいって言って聞かねぇんだよ」
「ん? 待て。帰ってきてから……とは、どういうことだ? 奴が家に帰って、そして、貴様の娘がそこに居て、チョコを渡し……?」

 秋生の言葉がすぐに理解できない。
 いや、頭では分かっているが、その答えは普通に考えて、ありえないモノだった。

「ま、まさか、奴は貴様の娘と既に同棲でもしているのか!?」
「誰が同棲してるっつったよ!? あの野郎がウチに寄宿してるだけだっつーの!」
「何だ寄宿してるだけか。――って、やはりおかしいではないかっ!?」


    ◆    ◆    ◆


「あん? ……気のせいか」

 一瞬、人の声がした気がしたが、朋也が振り返ってみても誰も居なかった。


    ◆    ◆    ◆


「(てんめぇ、今バレそうだったろうが! 叫ぶんじゃねぇ!)」
「(貴様が信じられんことを言ったからだろうが! 親戚でもない男を一人預かるだとぉ!? それが娘を持つ父親のすることか!?)」
「(うっせぇなぁ! 余所は余所、ウチはウチなんだよ!)」

 両者ともにヒソヒソ声で怒鳴りあうという器用な真似をする。

「ともあれ……いいのか?」
「いいって、何がだよ?」
「病弱な娘がこの寒空の下、一人出歩いているのだろう? 心配ではないのか?」
「お、おぅ……なんかそう言われると心配になってきちまったぜ。おめぇ、携帯電話持ってねぇ?」
「いや、残念ながら。公衆電話なら、さっき通った道で見かけたような気がするが?」
「お、そっかそっか。んじゃ、ちょっくら電話してくらぁ」

 正樹の嘘全開の言葉を信用する秋生。

「(よぉしっ! これで、漸く岡崎朋也が討て……――っ!?)」

 ニタリと策士の笑みを浮かべようとした正樹の目に、信じられないものが飛び込んでくる。

「(――きょ、杏ちゃん!? 何故、ここにぃっ!?)」

 三叉路(Y字路)のカーブミラーに、走る愛娘の姿が映っていた。
 ルートが違うため、こちらの姿は見えていないようだった。しかし、その向かう先は……岡崎朋也。

「(ま、不味い不味いぞ! このままでは奴に杏ちゃんの本命チョコがぁぁぁっ!?)」

 一人焦り始める正樹を横に、

「おっ、何だ電話する必要なかったじゃねぇか」

 秋生が言う。

「何?」

 岡崎朋也の向かう先から、正樹の見知らぬ少女が歩いてきていた。


    ◆    ◆    ◆


「あ、朋也くん。良かったです。すれ違いになりませんでした」

 朋也の前に現れた渚は開口一番そういった。

「渚! 何してんだ!」
「え? 学校に行くところでした」
「そういう意味じゃなくて、こんな時期に外に出るだなんて、何考えてんだ!」

 2月14日といえば、まだまだ油断のならない冷たい風が吹き込んでいる。
 ただでさえ、病弱な渚が外に出ているのは自傷行為に等しい。

「心配かけてごめんなさいです。……でも、どうしても今日、出かけたかったんです今日はバレンタインですから」
「え……?」

 朋也はたった今、気付いた。渚の手には……小奇麗に包装されたチョコがあった。

「それ渡すために、わざわざここまで?」
「そうです。……受け取ってくれますか?」
「あ、ああ……」

 チョコを差し出され、朋也はポケットから手を抜いて、受け取る。
 その時、渚の手に触れる……冷たい手だった。

「お前、手冷たいじゃないか。わざわざそんな外で渡さなくても、家で渡せばよかったんじゃないのか?」

 朋也は、渚の冷え切った手を包み込むように握り締める。

「えと、それはその……」

 渚が俯く。



「――して、みたかったんです」



 もごもごと言い難そうに、口を動かして、出た言葉はそれだけだった。

「え?」
「私、今まで好きな男の子にチョコとか渡したことなかったので……してみたかったんです。それに誕生日のお礼も、まだ何もしてませんでしたから……」
「馬鹿。誕生日の礼とか……そんなのいいんだ。お前を祝ってやるのが、俺の楽しみなんだからな」

 ありがとうございます、と礼を言って、また俯く。

「私も、朋也くんと学校生活過ごしたいです。
 特別なことなんか一つも起こらなくていいです。毎日一緒に登校して、一緒にお昼ご飯を食べて、放課後になったら、校門で待ち合わせて、手を繋いで一緒に帰る。それだけで……良いです。
 ですが、私の体が弱いせいで、どれも叶いません。本当に……ごめんなさいです。
 でも、それでも、してみたかったんです。少しでいいですから、こういう普通っぽい学生のすること……してみたかったんです」

 それが渚の本心だった。

「それに最近、熱っぽくなくなりましたから、ちょっとだけ無理をしてしまいました。えへへっ」
「……やっぱり馬鹿だよ、お前は。もしこれで熱出したら意味ないだろ?」
「はい、ですから、今日だけです。今日は特別ですから」
「本当に今日だけだからな?」
「はい」

 そして、二人して笑い合う。漏れた白い息が空で交わる。

「それよりも、チョコ食べて欲しいです」
「え、今ここでか?」

 頷く渚に、朋也はセロハンテープ一枚ですら、慈しむ様にゆっくり剥がす。
 赤と黄色のツートンカラーの包装紙を剥ぎ取ると、真っ白な箱が現れる。
 中を開ける。

「…………な、渚。何だこれ」
「え? チョコです」
「いや、チョコなのは分かってるんだが……何故に、だんご大家族?」

 コンパスで描いたような大きな円。朋也の開いた手よりも大きそうだった。その円の中心は、竹串か何かで彫ったのか、二つの縦線(多分、目)が引かれていた。想い人からのチョコだ。嬉しくないはずは無いのだが……何故だが、馬鹿でかい五円チョコでも貰ったような気分になる。

「ダメでしょうか、だんご大家族……」

 ハッと顔を上げると渚の目尻に涙が溜まっていた。

「あ、いや、いいと思うぞ! 和と洋のコラボレーションっつーのかな!? 見てくれ何か、食っちまえば一緒なんだしな!」
「それ、だんご大家族だとダメってことなんでしょうか……」

 更に渚の表情が沈みそうになる。
 この形状に関して、何か言ってもフォローし切れない。さっさと食ってしまうに限る。朋也はペキンと小気味良い音を立てて、チョコが割れる。

「どうですか? チョコ作ったの、初めてなのでちょっと自信ありません……」
「お前のが、一番美味いに決まってる」
「え……?」

 朋也はもう一度、はっきりと、口にした。



「今日、俺はお前からしか貰ってないから……。だから、お前のチョコが一番なのは当たり前なんだ」



 最愛の恋人に向かって。

「良かったです。お母さんのアイディアで、本物の団子を入れるべきかどうか、すごく悩みました」
「そりゃ、入れなくて正解だ」

 危なかった。
 もう少しで、恋人のチョコでどう答えるべきか分からなくなるような、微妙なチョコができてしまう所だったらしい。

「よし、じゃあ帰るか」
「え? でも、朋也くん、まだ全部食べてないです」
「こんなデカイの一気に食えるか」

 言いながら、箱の中に戻す。
 形がどうであれ、恋人からのチョコだ。もっと時間をかけ、ゆっくり味わって食べたい。

「お前、さ。手冷たいからさ……繋ごうぜ、手」

 不器用な言葉ともに、朋也が手を差し出す。
 渚も、はい、と頷き、重ねる。

「朋也くんの手、暖かいです。えへへっ」
「手が冷たい人は心が温かいっつーからな。多分、俺はその逆で、心が冷たいから手が暖かいんだ」
「そんなことないですっ。朋也くん、良い人です」

 他愛ない冗談も、渚と一緒ならば、それだけで朋也は楽しくなる。

「今度、ホワイトデーにはさ。クッキー作ってやるよ」
「え? 朋也くん、お菓子作りできましたか?」
「できねぇよ。カップラーメン作るのがせいぜいだ。けど、やる。作ってみせるよ、早苗さんに教えてもらって。渚……お前のためにな」
「朋也くん、今、物凄く恥ずかしいこと言ってます」
「わ、分かってんだよ! わざわざ指摘すんな!」
「でも、すごく嬉しいです。えへへっ」

 そして、恋人たちは家路を目指す。
 手を繋いで、足並みを揃えて、笑顔で。

 二人にとって、この日は喜ばしい日。
 しかし、その裏で、そんな二人を見て、走り出す少女がいたことは……知らなかった。


    ◆    ◆    ◆


「ちっ、ラブラブしやがってよ。見せ付けてくれんじゃねぇか、アァン?」

 悪態吐きながら、何処かしらその語調は嬉しげである。
 そんな秋生の見つつ、正樹はゆっくり立ち上がった。
 踵を返す靴音を聞いてか、秋生が振り向く。

「おー、そうだ。てめぇ、ウチで茶でも飲んでいくか?」
「……いや、遠慮する」

 正樹が背を向けたまま、答える。
 もし、尾いていったら、今度こそ朋也を挽き肉にしてしまいそうだった。

「そっか……――ま、早く行ってやるこったな」
「……気付いていたのか?」
「渚が来た辺りでな。あの子……アンタの娘なんだろう」
「…………」

 正樹は無言の肯定で返した。

「お互い、可愛い娘を持つと苦労するねぇ」
「……全くだな」

 それだけは強く同意できることだった。





 夕陽には月と同じく、魔力があるのだろう。
 陽光を浴びる者全てを懐古主義に仕立てる……そんな魔力が。その証明は杏がしている。でなければ、今、ブランコに腰掛けた杏の後ろ姿が、あんなにも物悲しく見えるわけがないのだから。

「やぁ、杏ちゃん」

 なるべく自然を装って、正樹は近づいた。

「え、父さん!? 何でいんの!?」

 驚く杏。慌てて目尻を拭う。正樹は「今日は早番でね」とだけ言った。完全なる嘘だが、今大切なのはそんなことではなかった。自販機で買って来たミルクティー渡すと、杏の隣のブランコに座る。

「泣いてるようだったが……何か嫌なことでもあったのかな?」

 カコッと小気味いい音と鳴らし、コーヒーを開け、一口呷る正樹。
 全て知っている上での問いかけ。そう、問いかける以外にかける言葉が思いつかなかった。顔は見ない。男のことで泣いている娘の泣き顔など見たくないし、杏もまた見られたく無いだろう。
 正面を向いたまま、ハンカチを横に差し出す。杏は一度鼻を啜らせ、小さく「ありがと」と礼を言って、それで涙を拭う。正樹は何も言わず、ただ杏が話し出すのを待ち続けた。

 車が一台、後ろを通る。
 暗くなり、自動的に街頭がパ、パと灯る。
 小学生がカチャカチャと閉め忘れたランドセルを鳴らして、走り去る。

 ほんの少し、手の中の缶が温くなった頃。

「あたしね、フラれちゃったんだ」

 ぽつり、と杏が呟いた。それに対し正樹は、そうか、と言うに留めた。
 男女の恋愛について、正樹がアドバイスできることなど端から無い。できるのは、話を聞くことだけだ。

「でも……あたし、多分本当は気付いてたの。――今日、フラれちゃうって。
 朋也と居たあの子ね、全然知らない子じゃないんだ。今年の春ぐらいに知り合った子で、古河渚って言うの。あの子ね、今年の春ぐらいに演劇部作るんだって言ってて、それで朋也と頑張ってて、何だかよく分からないけど、バスケ部の連中とバスケとかもやったりして、最後にはちゃんと演劇部復活させて、創立者祭で劇やったの。
 でも、その後、見かけなくなって、二学期になっても相変わらずで……。あたしもその頃から勉強し始めたからさ。二人との接点もあんまりなくて、ただ朋也の奴、ずっと落ち込みっぱなしだから、てっきり、別れちゃったんだって勝手に思い込んで、だから、だからさ……」

 杏はギュッとその手にあるチョコを握り締める。
 ――それは伝え切れなかった杏の想いそのものだった。

 ふと、二人が歩く後ろ姿を思い出す。

 笑っていた。手を繋いで、笑っていた。
 杏は知らない。朋也の……あれ程優しく笑った顔なんて、見たことが無い。

 何度と無く、杏は想像してみたことがある。
 朋也の隣に自分を据えて、寄り添い合う恋人としての図を。その時の自分の顔は、はっきりと想像できる。化粧台で朋也のことを考えている時の顔そのものだから。だが、対する朋也の顔は……いつもピンボケしていた。何となく、こんな感じかな? そんな曖昧に優しい顔しか想像できなかった。

 そんなモノは所詮、想像に過ぎず、実際の朋也の顔は……もっと素敵だった。
 でも、それが向けられるのは杏ではない。古河渚という一存在にしか、その笑顔を見せない。

「悔しいな……」

 それは、渚よりも先に朋也に出会ってたことに対するものではない。ましてや、渚に朋也を取られたことに対することでもない。きっと自分が並ぶよりも、ずっと似合っている二人の姿が悔しかった。

「――世の中には勝利よりも勝ち誇るに値する敗北がある」

 ふと正樹が呟いた。
 振り向く杏に、「モンテーニュさ」と笑みを作る。

「確かに、杏ちゃんは恋に破れてしまったのかもしれないが……心が傷ついてしまうくらい、誰かを好きになれたことは、誇りに思っても良いんじゃないのかな」

 我ながら下手な慰めだな、と正樹は苦笑いを漏らす。
 娘一人慰めるのに、他人の言葉を用いないと叶わない。案外、自分が思っているより良い父親ではないのかもしれない。

「かく言う私も、昔フラれたことがあってね。私の小さい頃の夢が“自分の家を自分の手でデザインする”という夢だったと言った事があるのを、杏ちゃんはまだ覚えているかね?」

 杏は、うん、と首肯する。

「あれは正確には違うんだ。本当はね。“自分の家を自分の手でデザインし、そこで幼馴染の子と結婚して住む”というのが正しいんだ」
「その幼馴染って、母さんのこと?」
「実は違うんだな、これが」

 正樹の苦笑いの苦味が増す。

「その幼馴染とは……大学まで付き合っていたんだが、結局別れてしまった。まぁ、私が悪かったんだろうな、あれは。大学生の頃に海外留学しても関係は続いていた。遠距離恋愛って奴さ。でも、あんまり電話とか手紙とか、そういうことをするとホームシックに罹ってしまって無性に帰りたくなるから、控えたんだ。勿論、向こうにもその考えを伝えた……が、やはりそれがいけなかったんだな。数ヶ月したある日、寮にW別れよう”と書いてあるエアメールが舞い込んできたよ」

 正樹の目は遠くを見ていた。今沈み行く夕陽より、更に向こう側の過去を。

「酷く落ち込んだよ。てっきり、結ばれるものだと信じて疑ってなかったからね。考える暇もないくらい一級建築士になるための勉強に打ち込んだ。それぐらいしか、逃避の手段がなくってね。でもまぁ、そんな時、大学の図書室で今の母さんと出会って、節操無く恋してしまってねぇ。“もう恋なんてしないなんて、言わないよ、絶対”という心境そのままさ。未だにあの歌を聞くと、私は涙が出そうになる」

 ふぅ、と一息吐いて、

「……すまない、杏ちゃん。私は何の話をしていたんだろうか?」
「槇原の曲は良いってことじゃない?」
「うむ、確かにあれは良いミュージシャンだ。人格やモラルは別問題として――って、本当に私はそんな話をしていただろうか? もっといい話をしていた気がするんだが?」
「それこそ、お父さんの気のせいでしょ」

 クス、と杏は笑った。

「そうだ。父さん、これ。食べる?」
「え? いいのかい?」
「うん、話聞いて貰ったお礼」
「やぁ、嬉しいなぁ。娘からチョコを貰える父親なんて、今時そんなにいやしないだろうなぁ」

 ふっふっふ、年頃の娘にチョコを貰えぬ父親どもめ、羨ましかろう? と何処の誰に向けたものか良く分からない自慢をする正樹。

「ホワイトデー、ヴィトンのバッグでいいからね」
「えっ!? ……あ、あぁ、いや、ク、クッキーではダメなのだろうか?」
「冗談だってば、本気にしないでよ。あ、やっぱり半分貰ってもいい? 泣いたら、お腹空いちゃった」
「ああ、勿論。良いとも」

 パキッと二つに割る。
 ハート型のチョコが、真っ二つにひび割れる。
 片方は、作った本人に。もう片方は、その父に分けられた。





むっ、杏ちゃん。このチョコ、少々苦みばしってないか?

うん、ビターチョコ使ってるから。あいつ……朋也ってさ、あんまり甘いの好きそうじゃないから。

そうか……。実は私も甘ったるいのは苦手でね。こりゃ丁度良い。

嘘つき。いっつも、休みの日にイチゴ大福、美味しそうに食べてる癖に。

ん? 今、何か言ったかね、杏ちゃん?

ううん、何も。それより、早く食べないと体温で指にチョコ付くよ、父さん。





その日、一人の少女の恋が静かに終わった。

父と娘、二人して渡し切れなかったチョコを食べる。

甘くて、ほろ苦かった。


END




別のを見る。

 ぴえろの後書き

 30万ヒット記念&バレンタインデー記念に灯哉さんトコへ投稿した作品。詰め込み過ぎて2月14日に間に合わなかったなぁ……。ハッスルパパさんズを描けて、大満足した記憶あり。ギャグっぽいタイトル付けた癖に、何でか最後はシリアスEND。あの時は企画倒れもいい所だったなぁ。

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