生まれ立ての太陽が山からそっと覗かせ始めた早朝。
 叩き起こされ、ブロブロと不機嫌そうな煙を吐きながら進むバスが一台あった。室内の乗客は長身痩躯の少年一人だけで、他に客はいない。腕を組み、眉を顰める姿はバスの遅さに苛立っているようにも見えたが、実際には低血圧なためである。
 少年は一刻も早く、この町を旅立ちたかった。別段、生まれ育った町が嫌いだからというわけではない。好き嫌いかと言われれば……好きだ。だが、この町の何処が好きかと問われれば、返答に少し困る。

 未だに開墾時代まっしぐらなのかと勘違いしたくなるほど多い緑。
 水道管工事などで改修して、ボコボコになったアスファルト。
 店舗数が少ないもんだから、不良どもと鉢合わせることの多かったゲームセンター。
 一時間に一本と云う、ふざけた本数を誇るオンボロなバス停。
 自分のことを鼻で笑う人間ばかりだった高校。

 むしろ、嫌いな点の方が圧倒的に多い。
 それでも、少年はこの町が好きだった。それは、たった一つの要因によるもの。

 ――この町は……あの人が住んでいる。

 それだけ。ただそれだけで、少年はこの町が好きで居続けられた。

 桜が彩る桃色の春。あの人との別れの日。
 その時のことを思い出すと、今でも滑稽だったと少年は苦笑いしてしまう。
 本当に滑稽なほど膝はケタケタと笑っていた。卒業証書の入った筒を握り閉める手はギトギトに汗ばんでいた。噛んだら最悪だ。そう思って、唾を飲み込もうとしたら、口の中がカラカラで、上顎と下顎が引っ付きそうだった。もし、断られたら、どうしようか。いや、だからと言って、自分の選択は変わらない。ただ強い支えが欲しかった。これからの自分は一人だから。卒業しても連絡し合えるような親友も、傍に寄り添ってくれる恋人も、応援してくれる親もいないから。だから、せめて……最高で最強の支えが欲しかった。
 意を決して、少年は告げた。

「絶対にプロになって、有名になるから……そうしたら、俺と付き合ってください」

 返事は早かった。あんまり早かったので、少年は未だ何の実感も持てずにいた。いや、多分、あの人が当然のように迷うことなく、頷いたからだ。本気にされなかったのだろうか? 所詮、世間のイロハも知らないガキの戯言だと思われてしまったのだろうか? ふと少年は疑念を抱いたが、即時に振り払った。たとえ、内実の伴ってない口約束だけでも、今は良かった。
 その返事と。そして、もう一つ。

『ずっと続けていれば、叶うから、諦めないでね』

 あの人の言葉は本当に不思議だ。むしろ、自分よりもよっぽど資質があるようにすら思える。
 高々、一言二言思い出すだけで少年の胸には、気力が止め処なく湧いてきていた。

 そうだ。何だって出来る。俺はきっとなれる。――歌手に。

 勿論、苦労もするだろう。挫折だってするかもしれない。だが、それすら呑み込み、大前提として受け入れた上で、少年は誓ったのだ。他ならぬあの人へ。そして、それは絶対に裏切れない約束。有名な歌手になったら、あの人と付き合える資格が得られる。あの微笑みを自分だけの物にできる。最高だ。最高の報酬じゃないか。そう考えるだけで幾らだって強くなれる気がした。

 ――きっと、想像した以上に騒がしい未来が俺を待ってる。

 まぁ、ロックシンガー目指すんだから、静かなワケがない。少年は思った。
 バスが田舎町独特の曲がりくねった道を行く。バスの揺れに合わせるように少年の体が揺れる。しかし、その決意は小揺るぎもしない。

 これまでの想いを、誓約にして。
 これまでの支えを、目標にして。

 上京し、オーディションを受けんと意気込む少年――芳野祐介は、静かにギターを抱き締めていた。




チェリー

written by ぴえろ




 随分と懐かしい物を見た。
 俺は手に持ったそれをしげしげと眺めていた。よくもまぁ、見つけた……というか、まだあったものだ。すっかり忘れてしまっていた。それを見たのはかなりの割合で、俺の義妹――風子のせいだった。



 そのことを話す前に少し昔話をしよう。



 彼女はつい最近まで、長い眠りについていた。
 本当に長い時間だった。彼女のことを知ったのは俺が電気工となって、熟練とはいかなくとも、仕事のキツさに慣れ始めた頃だった。もう夢破れ、無様な姿を晒したあの頃とは違う。そんな風に多少なりとも、自信が回復した頃だった。俺は、公子――まぁ、当時はまだ公子さんと呼んでいたが――に正式に交際を申し込んだ。返事は『ごめんなさい』だった。少し……いや、結構……いや、かなり鬱になりそうな程、ショックだった。肩を落とし、負け犬のように踵を返す俺に、公子は慌てたように付け加えた。

『私、妹がいるの。名前は風子……風の子って書いて、風子って言うの』

 公子はそう切り出し、俺に風子のことを教えてくれた。
 親戚と海へ行った時、風子が中々、自分を出せなかったこと。それが自分のせいじゃないかと思ったこと。だから、自主性を促すため、あえて厳しく接したこと。入学式の日に頑張って友達を作ると言って、家を出て……交通事故に遭ったこと。昏睡状態で今も眠り続けていること。
 最後に公子は言った。

『だからね。私ひとりだけ……幸せになることなんて、できないから』

 そう言って、正式に交際することすら拒んでいた。
 だが、その優しく穏やかで痛々しい笑みを見た瞬間、俺の中で何かが喚起した。
 彼女は決して……俺の記憶の中ほど、万能ではなかった。一人の弱い人間に過ぎなかった。
 俺はそれを知り、そして、思った。

 ――支えたい、と。

 それが、孤独の辛さから俺を救ってくれた彼女に自分ができることだと信じた。
 俺の考え付くアプローチを全て行い、取れる休日の全てを説得に費やして――端から見れば、熱心に口説いていただけなんだろうが――公子は俺との交際を承諾してくれた。一般的にデートと呼ばれるデートなんてした試しはなかった。デート先はいつも病院。

 そこでの時間は和やかではあったものの、何故か切ない気にさせた。
 公子は笑みを絶やさず、只管、目覚めぬ風子に話しかけていた。
 花瓶の花を変えて、布団を掛け直して、頭を撫でて、風子が好きなパン屋のパンを食べて……。
 そうやって、ただ信じて、俺たちは来る日も来る日も待ち続けた。

 何日も、何十日も、何百日も……俺たちは待ち続けた。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来ても……待ち続けた。
 空が晴れ、曇り雲が広がり、雨が降り、雪が降り、また晴れても……待ち続けた。
 種が出て、若葉が芽吹き、花が咲き、そして、散っても……待ち続けた。

 時間に換算すれば、一体何時間になるのだろうか?
 あまり勉学に励まなかった俺には分からない。
 だが、膨大という言葉でも足りぬ程の時間であったことは間違いない。

 風子のバースデーケーキの蝋燭が増えて……それを風子が吹き消すこともないまま、病院を去る。
 そんな寂しい日の夜、縋ってくれればいいのに……それでも、公子は泣かない。

「今年もふぅちゃんの容態安定してたね」

 そう、無理やり前向きに考える姿が辛かった。

「あぁ、そうだな」

 元歌手の癖に気の利いた言葉が出ず、無愛想にしか返せない自分が情けなかった。
 そうして、俺たちは、また待ち続ける日々に戻っていった。




 俺たちが病院へ赴くようになって、もう何度目になるか分からない夏のある日のこと。
 風子が目覚めた。何の前兆も無く、突然に。その時の公子の喜びようは大したものだった。泣いていた。いつだって、風子の傍では笑みを絶やさなかった公子が。ボロボロと涙を零しながら、ベッドに横たわる風子を力一杯抱きしめていた。

 今までも笑顔だったが、その日から病院へ見舞いに行く公子はやたら上機嫌だった。笑みが零れる、というのは、本当にああいう笑顔を言うのだろう。体に納まり切れない多幸感がクスクスと声となって漏れ出していた。あまり顔に出さない人だから、あからさまにはしゃぐことはなかったが、鼻歌を歌う姿を見たのは初めてだった。

 ちなみに風子が目覚め、公子に抱きしめられながらの第一声はこうだった。

「んーっ、風子いきなり、おねぇちゃんの胸で窒息死しそうですっ!」

 そして、俺への第一声も意外だった。
 俺が、「入学式の日から、公子はずっと君を待ち続けていたんだ。愛されているな……君は」と声をかけた時だった。言ってから、思った。しまった。俺としてはもう何度も顔を見ているから、他人という感覚がないが、風子にとって俺は赤の他人のはずだ。いきなり、こんなことを言ってはただの変な人ではないかと。
 しかし、風子は言った。

「……待ってたの、おねぇちゃんだけじゃないです。ユウスケさんもずっと一緒に待っててくれました。おねぇちゃんの傍にいてくれて、ありがとうございました」

 風子は何故か俺のことを知っていた。
 奇妙には思ったが、追求しようとは思わなかった。俺からすれば、ただ自己紹介が省けたな、という程度だった。

 風子が退院するまでも、かなりの時間が必要だった。
 何年も病院のベッドに横たわっていた風子は、ベッドから身を起こす事すらできなかった。血流が寝た姿勢に完全に適応してしまった結果、心臓のポンプ機能が低下してしまい、身を起こすと頭に血が巡らず気絶してしまうらしい。少しずつ慣らしていくしかない、医者はそう言っていた。それだけじゃない。ずっと点滴で命を永らえていたせいで、胃が萎縮してしまい、普通の食事ができず、まるで赤ん坊に戻ったかのように流動食からやり直すこととなった。全身の筋力も衰えていて、日常生活に戻れるまでリハビリも必要だろうとも。……正直、俺は半ばから耳を塞ぎたくなっていた。
 だが、そんな鬱になる現状を知っても、公子は何故か嬉しげだった。
 当然だ。今までは言ってみれば、『無』だった。何の変化もない。周囲は……例えば、隣の病室の爺さんが亡くなったり、また誰かが入室したり、けれども、三日で退院したり、岡崎のやつに子供ができて、昼休みは大概こっくりこっくり舟をこいだり……渚さんが亡くなったり……岡崎が育児放棄をしたり……再び父親として頑張る決意を固めたり……。
 良いも悪いもひっくるめて、世界は常に変化していた。
 にも関わらず、風子だけは変わってなかった。世界に忘れられたようにずっと変わらなかった。
 そんな状態だったのが、漸く『だが』という接続詞を付ける事ができるようになった。

「これでふぅちゃんも、始められるんだね」

 始められる、公子のその言葉がしばらくの間、頭の片隅に居座っていた。

「あぁ、そうだな」

 そう、この時から、俺たちは漸く始められた。ゼロから、あるいは、マイナスからの始まりだとしても。
 風子が立てるようになったら、拍手をしてやろう。
 歩けるようになったら、小おどりしてやろう。
 退院なんてしたら、もう歌だ。風子のための歌を作ってやろう。
 イイ年した大人になった俺がどの程度まで羽目を外せるか分からないが……派手に祝ってやろう。

 ――ささやかな喜びを潰れるほど抱きしめて。


    ◆    ◆    ◆


 ……で、だ。
 ここで終われるなら、俺もこの上なく、和やかな気分で終われるんだが……現実というものは続いていくものだ。悲しいことや辛いこと、嬉しいことや楽しいこと、どんなことがあっても明日の朝日が昇って、日常が訪れる。

「ユウスケさんっ」

 だが、それは無意味を意味するわけじゃない。流れる川に同じ水が流れているわけでないように。

「ユウスケさんっ、約束覚えてますかっ」

 あるいは……そう、雲だ。雲に同じような形はあっても、全く同じ雲など無い。

「大変です、ユウスケさんが戻ってきません。大の大人が精神的引きこもりですっ。プチ最悪です。こうなれば、最終手段しかありません」

 日常。それは同じようであっても、決して同じ日々などありはしないのだ。
 そんな日常の中を人は生きるしかなく、そして、そんな日常の中で……死んでいくのだ。

「ヒトデライズド突き!」

 ブスっ☆

「がはっ!! な、何故、俺のノドにダメージがっ……!?」
「最近、ヒトデは叩くより、突き刺した方がダメージ大であることを風子大発見しました。どうですか、ユウスケさん? 咳き込んでないで、感想述べて下さい」

 さ、早速、死ぬかと思った。……いや、あんなアホなことで死んでたまるか。
 いいか、風子? 木彫りはそんな風に使うモノじゃない。飾る物なんだ。

「いえ、違います。飾る物じゃありません。木彫りは愛でる物です」

 えらく自信満々に断言された。

「というか、いきなりノドは無いだろう。もし、歌えなくなったらどうするんだ?」
「ユウスケさんのノドなんて知ったこっちゃないです」

 ……いくら可愛い義妹でも、白々しくそっぽを向く仕草に、少々怒りを覚えた。
 ぐっ、いかんいかん。違うんだ。風子はただちょっと人付き合いに慣れてないだけなんだ。耐えろ、俺。これはあれだ。俺と風子の仲がちょっとキツい冗談言っても、壊れないようになった証なんだ。そう思っておこう。

「そんなことよりも、もっと大切なことがあるはずです。約束、覚えてますか?」
「あぁ、覚えてる。歌……だろ?」
「はい。ユウスケさん、風子が退院したら歌を作ってくれるって言ってくれました」
「あぁ、言ったな」
「なので、早速作って貰おうと思います。風子の……――ヒトデ・ラブソングを」

 何て謎なラブソングなんだ。
 あぁ、そうだった。風子がそんなこと言い出すもんだから、不意に詩人になってしまったんだっけか。
 だがなぁ……ヒトデ・ラブソング? 何だそれは?

「風子、大人なのでバラードでも何でもオールオッケーですが、汐ちゃんと歌いたいので、子供向けに作って下さい」

 しかも、曲作りの注文までしてくるときた。我が家の姫君はとんだ我が儘であらせられる。
 俺は腐ってもロックシンガーであって、童謡歌手じゃない。
 ヒトデがテーマなだけでも無理難題なのに、童謡曲なんてどうすればいいんだ?
 ギターは使っていいのか? クラリネットやカスタネットなんかも盛り込まなければいけないのか?
 歌詞は? 漢字を使ってはいけないのか? かえるの歌のような、追走曲でないとダメなのか?
 わ、分からん。分からんことだらけじゃないか。

 ………………。

 悩み。人生に悩みはつきものだ。
 いや、むしろ、人生そのものが悩みでできているといっても過言じゃない。
 それは、鬱蒼とした樹海を掻き分けて行く様に似ている。
 その先にあるものは、甘い愛の果実なのか。
 それとも、現実という獣との狩るか狩られるかの闘争しか無いのか。
 だが、それでも、俺たち人間は人生という森を突き進――

「ヒトデライズド突き・二連!」

 ブスっ☆ ブスっ☆

「うぉぉっ! 今度は目がぁぁぁぁーっ!?」
「いい加減にしてください、ユウスケさん。現実逃避の度に風子の手を煩わされては甚だ迷惑です」

 すまない、風子。あまりに無理難題だったもんで、つい。
 しかし、その木製ヒトデで突くのはホントにやめてくれ。失明するかと思ったぞ……。

「ユウスケさんがてこずるのも無理はありません。ヒトデをテーマにした曲を作るなんて、高尚過ぎて、誰にでもできるわけないです」

 風子の中では、曲作りの難しさは作り手の未熟さにあって、ヒトデのせいではないらしい。

「仕方がありません。風子もちょっと手伝ってあげます。フレーズは任せておいて下さい」
「……あぁ、任せる」

 まぁ、風子のための曲だ。風子自身が考えた方が良いに決まってる。

「……う〜ん、――はっ! ユウスケさん、こんなのはどうですか!」
「どれ、言ってみろ」

 メロディーなんか口ずさんでくれると、色々と助か――。

「ひとでっ♪ ひとでっ♪」

 ――らなかった!

「……風子、『著作権』という言葉を知っているか?」
「勿論、知っています。字だって書けます。馬鹿にしないで下さい」
「それはな、風子。著作権侵害と言うんだ。明け透けに言ったら、盗作だぞ盗作」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいっ。風子のは『だんご大家族』へのオマージュですっ」

 パクる奴は皆そう言うんだ。
 特に他人のギャグをパクったり、モノマネをする芸人とかな。

「兎に角、それはダメだ。他にインスピレーションの湧くようなことを言ってくれ」
「そうですか。実はこんなこともあろうかと、風子、ユウスケさんの曲作りのヒントになりそうな物を家捜してみました」

 だったら、それをまず出して欲しかった。何だ前の会話は? 疲れただけか?

「で、何だ? ヒントになりそうな物って?」
「はい、これです」

 風子はサッと何か紙のような物を取り出した。三つ折にされたそれは……便箋だった。
 便箋? ま、待て風子。かなり嫌な予感がするんだが?

「『拝啓、伊吹公子様。春麗らかな今日この頃、如何お過ごしでしょうか。随分と穏やかな気候となりましたが、私の心境は穏やかではありません。そう、それは太陽よりも眩しく、桜の花よりも尚、艶やかな貴方の笑顔が私の心を――』」
ぬぉぉぉうりゃぁぁぁぁーっ!

 俺はかつてない程の気合で以って、風子の手から便箋を奪いとった!

「風子っ! お前、これを一体どこから見つけてきたっ!?」
「おねぇちゃんの引き出しの中から拝借しました。便箋だけだったので、差出人は分かりませんでしたけど」

 まぁ、封筒の方に書いたからな。って、何で当時、アタックしていた頃のラブレターがまだあるんだ!
 この手紙はすぐにでも捨てて欲しいと言ったのに! くそっ、こっ恥ずかしいにも程がある!

「とても情熱的な文章でした」
「……そ、そうか」

 ちょっと嬉しかった。

「でも、言ってることはサム過ぎでした」
「悪かったなっ!」

 ちょっと傷ついた。

「どうして、ユウスケさんが怒るんですか? 理不尽ですっ」

 幸い、風子はこの差出人が俺だと言うことには気付いていないらしい。
 まさか、何かあった時のための弱味か!? そのためにわざわざ嫁入り道具に!?
 た、確かにこれを突きつけられたら、印籠を見せられた悪代官のように土下座してしまう……。
 そう考えたら、今の内に見つかったのはかえって良かったのかもしれん。

「助かった、風子。感謝する」
「ユウスケさんの言うことは時々、まるで意味が分からないです」

 ああ、いいとも。一生、分からないでいてくれ。

「ヒトデ・ラブソングのインスピレーション、湧きましたか?」
「いや、何とも……」

 ただ猛烈な勢いで疲れただけだ……。

「実はもう一つあります」

 ま、まだあるのか……。今度は何だ?

「これです。今度はユウスケさんの部屋にあったものです」
「え……?」


 ピラリと差し出されたのは、一枚のレポート。

 その紙面には、歌詞が綴られていた。

 昔、何のために歌っているか分からなくなった頃の……そんな狂った歌詞だった。


    ◆    ◆    ◆


 次の休日。
 俺たちはレンタカーを一台借り、今いる町からほんの少し足を伸ばし、緑が多く、アスレチックな遊具の多い自然公園を目指していた。風子はまだそれ程遊び回れる程回復したわけではないので、別に近場の公園でも良かったかも知れないが……つい最近、岡崎の奴にえらい醜態見られたからな。「気にせず、はしゃいでいてくださいよ」と言ったあいつのニヤニヤ顔を思い出すと未だに不覚を取ったと思わされる。これ以上、先輩としての俺のイメージを崩されては、仕事がやり辛い。
 そんな思惑もあって、遠出しようと言い出したのは俺だが、公子も楽しそうに弁当作りしてたし、風子の奴もピクニック気分で上機嫌になっているし、まぁ、いいだろう。

 それは兎も角としてだ。

「あのぉ、良かったんっすか? 俺も付いて行って?」

 その岡崎が、何故この車の後部座席に乗っている?

「岡崎さんはオプションです。遠回しに言えば、汐ちゃんと同行するためのエサです」
「いや、遠回しになってないし。むしろ、より直球になってるからな」

 なるほど、そういうことか。

「岡崎さん、お暇かと思って誘ったんですけど……迷惑でしたか?」
「いえ、そんなことないっすよ。実際、暇でしたし。俺、公子さんの弁当、すんげぇ楽しみにしてますから」
「……岡崎、お前に食わせる弁当はない」
「ちょっ、芳野さん!?」
「冗談だ」

 半分ぐらいは本気だったが。

「汐ちゃん、気分悪くないですか? 乗り物酔いのお薬、ちゃんと飲んでますか?」
「うん、のんだ」
「そうですかっ、なら、いっぱいお話ができますっ。汐ちゃん、風子のお膝の上に乗って下さい♪」

 バックミラー越しにチラっと垣間見ると、風子が岡崎の子、汐さんの両脇に手を差し入れていた。

「おいコラ待て、風子。ただでさえ子供は酔い易いのに、膝に乗せたら余計酔い易いだろ」
「ちょっとぐらい大丈夫です。ね、汐ちゃん?」
「う〜ん……わかんない」
「ほら、汐も分からねぇって言ってるだろ? 酔ったら大変だから、やめとけな」

 後部差席が騒がしくなってきた。

「何ですかっ、岡崎さん! 風子と汐ちゃんの仲を引き裂こうだなんて、貴方一体何様のつもりですかっ!」
「汐のお父様だよっ!」
「はっ、そうでした! お父さん、一生大切にしますから、汐ちゃんを風子に下さい!」
「やらんっ!!! 貴様のような若造に汐は断じて……って、それ以前にお前は女だろ!」
「はっ、言われてみれば、そうでした! 風子、自分の性別をうっかり間違えてしまいました。つまり、それだけ汐ちゃんは可愛いということですっ」
「ああ、それは分かる。俺もうっかり本気で断ってしまったからな。全く汐の可愛さといったら、魔性の可愛さだな」

 岡崎と風子……仲が良いのか悪いのか、よく分からなくなってきた。二人ともうっかりの領分越えてないか?

「汐ちゃんはとんでもなく可愛いです。なので、汐ちゃんは風子の膝に乗せるべきだと思います」
「いや、それ意味不明だからな」
「岡崎さん、馬鹿です。可愛い汐ちゃんに可愛い風子が合わされば、より可愛くなるということです。なので、汐ちゃんは風子の膝に乗せるべきなんです」
「何を言う。娘の汐に父の俺が足されれば、まさに最高の家族絵図。むしろ、汐は俺の膝に乗せるべきだ」

 岡崎、お前さっき、『汐さんが酔うから膝に乗せるな』と言っていなかったか?
 車酔いへの配慮よりも、娘を膝に乗せたいという我欲に負けるとは、まだまだだな。
 ……父親でない俺が言うべきセリフじゃないかもしれないが。

「そんなの、全然最高じゃないですっ! プチ最悪ですっ!」
「つか、今、お前自分のこと可愛いって言わなかったか? そっちの方がプチ最悪だからな」

 二人は延々と、いかに自分の膝の方が座り心地がいいかを主張し合っていた。
 すったもんだの末、汐さんの「今日はふぅちゃんにさそわれたから、こっち」発言により、風子に軍配が上がる。

「反抗期、反抗期なのか!? そうなのか、汐っ!? もう一緒に下着洗ったら怒るお年頃なのかぁぁっ!?」

 こんな発言をする辺り、岡崎の奴も相当親馬鹿に……もとい、父親らしくなったということか。

「風子、実は汐ちゃんのために歌を作ってきたんですっ」
「おうた?」
「はいっ、お歌です。一緒に歌いましょう。きっとすこぶる楽しいですっ」
「うんっ、たのしそう」
「そんなわけですから、ちゃっちゃか、準備して下さい。ユウスケさん」

 汐さんを膝に乗せたまま、ビシっと俺を指差す風子。
 ご丁寧に俺の後頭部へじゃなくて、バックミラー越しに、だ。
 だが、運転している俺としては、片手だけとはいえ、ハンドルから手放すわけにもいかない。
 加えて、下を向いて探し回るわけにも行かないので、助手席の公子に頼む。

「すまん、公子。そこにあるCD取ってくれ」
「はい、どうぞ」

 公子も分かったもので、俺の、ひいては、風子の言う曲のことは分かっていた。

「あ、あの〜、芳野さん? 俺、何か嫌な予感がするんですけど?」

 岡崎、その予感は悲しいことに大正解だ。


   ひとでっ♪  ひとでっ♪


 例のヒトデ・ラブソングが車内に流れる。……結局、これでいくことにしたらしい。
 歌手、作詞は風子、作曲は俺、そして、ジャケットデザイン(星にしか見えないヒトデとかな)は公子が手掛けた。公子は元美術の先生なので、こういうのはお手の物だ。というよりも、言い出したのは風子で、おそらく、作曲活動に加われない公子の寂しさみたいなものを察したのだろう。しかしまぁ、家族でインディーズをやってる家族は早々ないだろう。ちょっとした自慢だ。家族ぐるみで著作権引っかかってるわけでもあるのだが……売るつもりは無いから良いだろう。

「??? だんご大家族とにてる?」

 汐さんも不思議そうに小首を傾げていた。幼児の直感とは鋭いものだ。

「風子、汐ちゃんに悲しい知らせを伝えなければなりません……。実はだんご大家族は、この歌をマネっこした作品なのです……」
「おいっ! 何、嘘教えてんだっ!? 明らかにそっちがパクッてるだろ!?」
「真実なんてどうでもいいです。重要なのは汐ちゃんにこっちが本家だと思わせることです。ひとでっ! ひとでっ!」
「て、てめっ! だんご大家族は渚と汐を繋ぐ唯一の思い出なんだぞ!? それをんな怪しい曲に書き換える気かぁぁぁぁっ!?」
「ご心配なく、その時は風子が汐ちゃんのお母さんになってあげますから! ひとでっ! ひとでっ!」
「うぉっ、こんなことしている間にも、記憶の上書き作業が進んでやがる! 負けてたまるかぁぁぁ! だんごっ! だんごっ!」
「ひとでっ! ひとでっ!」
「だんごっ! だんごっ!」

 ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! 
 だんごっ! ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! だんごっ! 
 ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! 
 だんごっ! ひとでっ! だんごっ! ひとでっ! だんごっ! 

 何だ。この車内で起きている謎の熱唱バトルは?
 星の形をした物と真ん丸い物を想像してたら、不意に『星のカ○ビィ』の姿が脳裏に……。
 後、風子、お前何気なく今、プロポーズみたいなこと言わなかったか? 俺の聞き間違いか?
 ちなみに……

「ヒトンゴ〜っ♪」

 汐さんは謎の合体怪獣ような名を口ずさんでいた。
 二人は、最悪の形で汐さんの記憶が改竄されていってる事実に気づいていない。



 そうして、俺たちは着実に自然公園に向かって進んでいった。
 暗闇のトンネル、緑豊かな山道、広いサービスエリア。急されるように、飛ばされるように、通り過ぎてく。左折の時、自転車やオートバイなどへの巻き込み確認ついでに助手席の公子の横顔を見ると、クスクスと頬を綻ばせていた。俺の視線に気が付いて、公子が口を開く。

「今日はとても賑やかね」
「……やかまし過ぎる気もするがな」

 仏頂面でいようと思ったが、どうも俺も頬の筋肉が弛んでるらしい。

「こんな妹夫婦がいると楽しいわよね」

 ……我が妻の意味深な言葉はスルーした。
 ドライブスルーでスルーする。おっと、するする出てきたわりに中々にしっくりするな。
 フッ、さて、俺は一体何回「する」と言っただろうな?

「祐くん。前、赤信号」
「おっと」

 初めて急ブレーキを踏んでしまった瞬間だった。

「詩人も良いけれど、運転中はやめてね?」
「……おぅ」

 叱られてしまった。
 む? 何だ岡崎? その『尻敷かれてるなぁ〜』という目は?
 お前、先輩に対してそんな態度で接するとは良い度胸だ。大体お前はだな――

「祐くん、青信号」
「……すまん」

 すぐに走らせました。


    ◆    ◆    ◆


「わーいっ!」
「きゃーっ!」

 自然公園の最大の目玉である滑り台を風子と汐さんが滑ってくる。結構なスピードだ。風子の髪は風に靡いているし、汐さんも帽子が飛ばないように手で押さえている。ドップラー効果を起こしている楽しげな歓声を聞くと、連れてきて良かったという気になってくる。
 ここの滑り台は長く、全長200m近くある。ちょっと山の方にある自然公園だからか、鉄の蛇がぐねぐねと体をくねらせて降りてるようなイメージがある。勿論、こんな長い滑り台が、よくあるステンレスのような板なわけはなく、リレーのバトンを並べたようなローラー式だ。摩擦が少ない分、加速したら加速した分速くなる。まぁ、それでも急カーブもなく、傾斜も高くないので、安全だろう。

「到着ですっ!」

 滑り台の高さがほぼ地面と平行なり、減速しつつ、風子と汐さんが戻ってくる。

「楽しかったですかっ?」
「うん、たのしかった!」
「二人だとスピード倍増、楽しさ倍増ですっ」

 風子は抱きかかえてる汐さんを滑り台から降ろす。

「よしっ、次は俺だな」
「岡崎さん、何を言ってるんですか? 次も風子と汐ちゃんのカップルで行くに決まってます。汐ちゃんが飽きるまで、風子とエンドレスリピートです」
「なっ、てめっ! それじゃ、最初のジャンケンは何だったんだよ!?」

 自然公園に着き、いざ滑り台を滑ろうとなった時、案の定、風子と岡崎は喧嘩になった。つまり、どっちが汐さんと一緒に滑るかということだ。こんな議題が論決するわけもなく(車内で経験済み)、二人はジャンケンで決することにした。俺も一応……俗に言う“たった一つの冴えたやり方”という奴を提案したんだがな。

「汐さんの後ろに風子がついて、風子の後ろに岡崎がつけば、三人一緒に滑れるんじゃないのか?」
「そんなのキモいですっ!」

 すまんな、岡崎。ウチの義妹が猛烈な勢いで「キモい」呼ばわりして。

「きっと女気ありまくりの風子に、女日照りな岡崎さんはうっかりムラムラしてしまいます! そして、風子の髪に鼻先埋めて、『ハァハァ、風子、風子ぉぉ……リンスさらさら、リンス萌えぇ〜』と、鼻息荒く言ってくるに違いありません! そんなことをされた日には風子、生きてく気力が根こそぎ無くなってしまいます!」
「てめぇとは天地が崩壊しても、一緒に乗ってたまるかぁぁぁぁっ!」

 火に油を注いでしまった。
 そして、双方、傍目から見るとちょっと引くぐらいの気迫の篭ったジャンケンを繰り広げていた。結果は知っての通り、風子が勝利。何でも、

「ヒトデジャンケンは無敵ですっ」

 と拳を握り締めて風子は言った。いや、グーで勝ったのか、パーで勝ったのかハッキリして欲しい。ヒトデはパーに似てるので、おそらくパーで勝ったんだろう。ともあれ、風子が先に一緒に乗ることを希望し、岡崎はその後で、ということになったはずだった。しかし、一回一緒に乗って、手放すのが惜しくなったのだろう。風子はもう一回汐さんと乗るつもりらしい。

「今度こそ、汐と滑るのは俺だ!」

 ガシッと汐さんを小脇に抱えると、岡崎は猛然と走り出した。

「ああ! 人攫いです! きっとそのまま北朝鮮へ直行です!」
「父親が娘を抱えるのは人攫いじゃない! つか、んなトコ行ってたまるかぁぁっ!」

 岡崎の向かす先は、丸太で作られた階段。つまりは滑り台の入り口だ。
 段飛ばしで、あっと言う間に駆け上がっていく。
 八艘飛びをする義経のような……いや、そんな格好の良いものは岡崎には相応しくないな。
 せいぜい、ウサギかカエルのように跳び回っていると行った所か。

「何してるんですか、ユウスケさん! 追ってください!」
「……は?」
「病み上がりの風子が追いつけるわけないです! なので、ユウスケさんが代走するんです!」
「別にいいだろう。親子が滑るぐらい」
「いいわけないです! このままじゃ折角懐柔するために曲まで作った風子はなんだったんですか!」

 いや、作ったのは俺なんだが。
 というか、ヒトデ・ラブソングは、そんな陰謀のための道具だったのか。

「あのな、風子。俺は普段、肉体労働をしているんだ。できれば、休日ぐらいゆっくりと……」
「ふぅちゃんの代わりに行ってあげてくれない、祐くん?」
「……何?」

 公子、お前まで一体何を……。

「ほら、祐くん。高校の体育祭じゃ、アンカーだったぐらい足速かったじゃない。三人抜きしたの、今でも覚えてるよ? もう一度、見たいな。祐くんの勇姿」
「…………」
「見たいな♪」
「…………」


    ◆    ◆    ◆


 そして、細い丸太でできたスロープ状の階段で。

「ぬぉぉぉぉっ! 待てぇぇぇ、岡崎ぃぃぃっ!」
「えぇっ!? な、何で、芳野さんが追って来てるんすかっ!?」
「それは、一重に愛ゆえにだ!」
「いや、ワケ分かんないっす!」

 俺と岡崎(+汐さん)は、デットヒートを繰り広げていた。
 ああ、我ながら、年甲斐もなくハッスルしてしまっている。あの公園の時のように。
 だが、坂の下からの声援が、俺の背を押す限り、心臓が破けるまで俺は走り続けよう……。



    ◆    ◆    ◆


「はぁっ! はぁっ! はぁっ!」

 すまん、負けた。
 いや、俺が悪いわけじゃない。むしろ、岡崎の肩が掴めそう所まで追いついたんだ。
 だが、俺が「貰ったぁぁっ!」と叫んだ次の瞬間、岡崎は信じられない程加速した。
 一体、奴の何処にそんなエネルギィが残っていたのか。不思議なくらいだった。
 奴はまるで、勝利を見せ付けるように滑り台前で待っていた。

「な、何故だ。足の長さも体力も俺の方が上のはずなのに何故負けたんだ……」
「芳野さん、貴方もいずれ分かりますよ。――親馬鹿は、地上最強のパラメータ補正なんす!」

 ……マジか。
 事の真偽を確かめる前に、岡崎は颯爽と汐さんと風になった。

「ヒャッホーゥッ!」
「わーいっ!」

 ああ、滑られてしまった。下に待ってる二人に何と言うべきか……。

「(いや、俺は最善を尽くした。疚しいことなど何も無い)」

 一人、俺は納得した。
 下へはすぐに滑らなかった。いや、下の二人が怖いわけじゃない。
 ただ、高い所というのは、空気が澄んでいるからな。もう少し味わってからいこうと思っただけだ。

「(さて……っと)」

 踵を返し、歩いていく。
 滑り台の入り口近くは結構高い所で、反対側は展望台のようになっていた。
 端の方まで寄り、手摺に肘を付く。視線を下にやれば、空恐ろしいものを感じる。手摺から先は切り立った崖のようになっていた。見晴らしの良い光景だ。空はどこまでも青いし、山々の緑葉の中に所々、桜の桃色がちらりほらりと見えている。深呼吸するように伸びをすると自分が何処までも広がっていくような開放感を感じる。ふとタバコを吸いたくなって懐をまさぐるが、インディーズ活動をし始めてからは禁煙していることに気が付いた。

 タバコの代わりに出てきたのは……風子が見つけた歌詞だった。

 狂った歌詞、一体何が伝えたいのかさえ汲み取れない。ただ破滅的な印象のみを齎すそれ。
 それは……俺にあの日の虚無感を鮮明に甦らせる記憶媒体だった。

 ――そういや、あの日もこんな春だったっけか……。



    ◆    ◆    ◆


 古びたバスに一人の青年が乗っていた。
 曲がりくねった道に差し掛かる度、その体が揺れる。頭を垂れ背中を丸めたまま、右へ左へふらふらと……。その姿に風に靡く柳や稲穂のような、優雅なしなやかさはなかった。大きく揺れ、ガラス窓にゴンと頭を打ち付けても、何の反応もしない。暗く澱んだ瞳は何も映さない。両肩から、だらんと垂れた腕には、指先に至るまで無力感が詰まっていた。

 ――彼は、生ける屍だった。

 そして、心の死んだ彼は、肉体の死も望み、死地へ向かっていた。
 ボサボサだった髪を整髪し、不精髭を全て剃り、身なりも整えた。これで死んでも多少は見れる死体になれるだろう。だが、死体は誰が引き取ってくれるのだろう。こんな自分の死体を誰が……。青年は考えるのを止めた。もう何かについて悩みたくはなかった。もうどうにもならない、それだけは分かっているのだから。
 もうどうにもならないのなら……せめて、最後くらいは一番楽しかった頃を一瞬だけでも思い出し、それを抱いて消え去りたかった。それが、心が死ぬ前に最後思ったこと。だが、分かっているのだ。あの日に二度と戻れないことは。

 ――どんなに歩いてもたどりつけない。

 あの輝かしい日に戻るには、自分はあまりに薄汚れてしまっていた。



 バスを降りて、町を歩く。
 見知った場所を転々と、生きていた証を求めるように歩く。

 古びた駄菓子屋。まだ悪ガキに過ぎなかった小学生の頃、眠りこけてるお婆さんを余所見に、こっそりラムネやら何やらをくすねていた。ゲームセンター。レーシングゲームでクラッシュしたら、筐体を蹴っていた。ライブハウス。他人のライブに乱入しては、メインボーカルをかっさらったりした。公園。洋楽のコピーをしていたら、いつの間にか夜も更けて、寄って来た数人の不良相手にミニコンサートをした。

 そして、最後に……高校。

 坂の下、微風に桜の花がはらはら散る光景にしばらく立ち尽くす。耳を澄ませば、体育館の方から歌が聞こえる。聞き覚えのあるメロディーは……蛍の光。――卒業式だった。歌っているのは在校生で卒業生に送っているのだろう。青年に何故それが分かったかと言えば、今まさに、卒業生が筒に入った卒業証書を手に校門を潜り、坂を下ってくる姿が見えたからだ。遠目には見えないが、彼らの表情はきっと輝いているのだろう。希望に満ち満ちていた……あの頃の自分のように。

 青年は、光を嫌う地虫のように足早にその場を去った。
 最後に思い出したのは、桜の木の下には死体があるという話は本当なのだろうか、ということだけだった。確かにほんの少しだけ、心の奥底で何か疼くのを感じた。だが、それだけだった。

 そして、ふくらはぎが痛くなる頃、彼は出会ってしまった。

 あの日の女性教師――伊吹公子に。
 彼女は如雨露を手にし、花壇に水を上げていた。

 その横顔が視界に入った瞬間、目を剥いた。これまで感じたことがない程、心臓が強く波打った。拍動の度、干乾びた心が血で潤むのを感じた。指先が、足が、唇が……体のありとあらゆる所が震える。そして、気付いた。
 死んだと思っていた心は、仮死状態に過ぎなかったのだ、と。
 これ以上、傷つきたくなくて。これ以上、感じたくなくて。心を閉ざし、闇の中、膝を抱え込み、余計なモノが入り込んでくるのを拒んでいたのだと。だが、今、閉ざした心がこじ開けられようとしている。開けようとしているのは……自分自身だった。

 彼にとって、彼女は光そのものだった。
 狂おしい程、求めていた光。闇に迷う彼には彼女は何より眩しかった。

 しかし、だからこそ、求めることができない。それは同時に、歪んでしまった己の姿をくっきりと浮かび上がらせてしまうから。仮に、仮にあの頃の約束を覚えていたとしても……それはあの頃の自分だったから頷いてくれたのではないのか? 今、罪を犯し、夢破れ、歪んだ自分を見て、彼女は何と言うのだろう? 何を思うのだろう? 蔑視されるのだろうか? 憐れみをかけられるのだろうか? それとも、既に自分のことなど、忘れ去っているのだろうか? そのどれであっても、心を粉々に打ち砕かれる確信があった。その癖、声をかけたがっている自分がいる。矛盾だった。相反する二つの感情が渦巻き、混ざり合い、打ち消しあう。結局、何をするでもなく、彼はその場で立ち尽くしていた。

 彼女が、はたと気配に気付いたようにこちらを向く。
 向いた瞬間、彼は下を向いた。前髪が容姿を隠す。

 すぐにでも背を向けて逃げ出せば良いものを、膝が震えて動くことができなかった。
 ただ、ギロチンが落ちるのを待つ咎人のように、頭を垂れて突っ立っていた。
 足音が聞こえる。近づいてくる。斬首の言の葉が。それは魂の終焉を意味する。

 だが……それもいい。

 彼の口角が皮肉気につり上がる。
 今日までは生存本能が、中途半端に死を恐れていたから、生きていたに過ぎない。
 今、ここですっぱりと、全て諦められるならそれもいい。
 そもそも、全てはこの人の言葉から始まった夢だ。最期もこの人の言葉で終えるなら、それもいい。

 そう思って、少年から青年になった男は待った。――だが……。

『まだ音楽は続けてる?』

 顔を上げる。彼女は彼の顔を覗き込んでいた。

『ずっと続けていれば、叶うから、諦めないでね』

 彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。――あの頃と何一つ変わらぬ微笑みだった。
 それを見た瞬間、彼は膝から崩れた。泣いた。嗚咽を漏らしながら、子供のように。春を迎え、雪が溶け出すように泣き続けた。

 ……最初から、こうしていれば良かったんだ。
 ……ずっと、この町にいればよかったんだ。
 ……ずっと、この人を好きで居続ければよかったんだ。
 ……そして、ずっと……この人のためだけにラブソングを歌い続けていればよかったんだ。
 ……誰のためでもなく、好きな人のためだけに。

 彼女は何も知らないまま、急に泣き出した彼に慌てだし、手にしたハンカチでそっと拭った。

 ――心の雪で濡れた頬を……。


    ◆    ◆    ◆


 あの頃の俺は神にでもなったつもりでいたのだろうか。
 いや、流石にそこまで烏滸がましい増長などしていなかった。
 ただ、嬉しかったんだ。
 他人のことなんて、考えもしなかった俺だとしても、自分のための歌だったとしても、誰かのためになっているという事実が。それはきっと人間の根本に根ざす感情で……でも、俺が知らない嬉しさだった。

 だから、我武者羅に頑張って、俺は暴走した。

 人生を道に例えた武将がいたな。確か、徳川家康だったか。人生とは重荷を負うて、遠き道を行くが如し、か。気持ちは、まぁ分かる。確かにファンの期待は重たかった。新譜を出す度、受け入れられるか不安だった。でも、その分、一歩一歩の重みも感じられたし、それが人生の歯応えのようにも感じられた。俺は重い荷物を背負うことよりも、むしろ、迷い込むことの方が恐ろしいと思う。

 正しさを求めるあまりに、俺は暴走してしまった。
 正しい道とそうでない道。決して目に見えぬその分岐点は、どうやって見分ければいいのか。

 俺は正直な所、まだ恐ろしかった。俺は……自分で言うのもアレだが、不器用な人間だ。大雑把と言い換えてもいい。……伝票の整理とかも五分でキレるしな。人生は真っ直ぐじゃない、その道のりは曲がりくねっている。それに気付かず、過った方向へ進んだとしても、俺には細やかな軌道修正などできはしない。だから、これを……この詞を捨てることができなかった。
 この詞は戒めだ。何度見ても、我ながら狂っていると思うし、眺める度に恥辱にも似た感情で、体の中からフツフツと熱が燻ってくる。しかし、これを見て過去を思い返せば、それが目印になるんじゃないかと、そう思って、一枚だけ残していた。

 だが、公子と共に風子の目覚めを待ち、風子を応援する日々を重ねていく内に、俺はそんな物があることすら忘れていた。忘れていた、ということは、もう……これは必要無くなったのだろう。

もう、俺は迷わない。こんな物に頼らなくても。

そんな確信があった。

俺は歌詞が綴られたレポート一枚を持ち、ゆっくりと真っ二つに引き裂いていく。


ビリビリ


引き裂く。


ビリビリ


引き裂く。


ビリビリ


引き裂く。







そのまま手を高く掲げる。

風が吹く。俺の過去が、柔らかな風に攫われて行く。

そして、俺は……

――切り裂いた歌を、春の風に舞う花びらに変えた――





END



別のを見る。



 ぴえろの後書き

 どうも、読了ご苦労様です。読者の皆様方。
 このSSはえりくらさんトコのスピッツ企画で投稿した作品です。灯哉さんトコにもあります。
 歌詞を盛り込むのに苦労した記憶あり。風子と朋也は書いてて楽しかったなぁ。


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