俺は悲しい。


ただただ悲しい。


渚と汐がいない日々は、体中に悲しみが蔓延る。


ただただ悲しい。


俺は悲しい。







灰色の悲しみ

written by ぴえろ








今でも、よく渚と汐のことを考える。


特に汐のことを考えるときが、一番悲しい。


汐は死んでしまった。


全て、これからだったのに。


渚の死を乗り越えて、これから、汐のために生きるつもりだったのに。


ずっと傍にいようと決めたのに。


けど、あいつは死んでしまった。


また俺は生きる意味を失った。


もうどうしたらいいのか、何も分からない。


でも、それでも、自暴自棄にだけは俺はなってはならない。


起きて、仕事に出かけ、食べて、寝る……


俺はもう二度と、そんな体が覚えていることだけを繰り返していた日々を過ごしてはならない。


それは俺を想ってくれた……そして、今も想ってくれている人たちへの最大の裏切りだから。


だから、タバコも吸わないし、賭け事だってしていない。


酒は……飲む。時々、二日酔いになるが、酒浸りってワケじゃない。


仕事はまた電気工をしている。


生きるのに金は必要だ。


それに借家の借金もあるし……汐の葬儀代とかもオッサンと早苗さんに返さないといけない。


勿論、オッサンたちは返さなくていいと言った。


でも、俺は返したかった。


普通、娘の葬儀代は親が出すものだと思うから。


俺は再び立ち直るために最大限の努力をしなければならない。


それが……今、渚と汐にしてやれる唯一のことだ。









渚も汐もいなくなった後も、俺は日曜になると古河家に訪れる習慣を止めていない。




「はっはっはっ! またホームランだ! お前ら、球、遅過ぎだからな!」




大概その日はオッサンに誘われ、ガキどもと混じって草野球をしている。


一見すれば、俺は楽しげに見えるはずだ。


だが、俺はこんな時だって、悲しい。


悲しいけど、悲しくても……他人にそんな風に見られたくない。


男やもめで、一粒種の愛娘を失った哀れな夫に見られたくない。


ちっぽけなプライドを庇うため、他人が大勢いる所では努めて明るく振る舞う。




「ガキの球をホームランするたぁ、大人げねぇぞ小僧っ!」




オッサンは馬鹿だが、鋭い男だ。


きっと俺の心情など、とっくに見抜いているだろう。


承知の上だからこそ、俺に何も訊いてこないし、変な気も使ってこない。




「皆さぁ〜ん! 頑張って下さいねぇ〜!」




きっと早苗さんも分かってる。


だから、何も訊いてこないし、変な気も使ってこない。


今はその優しさが嬉しい。


けれど、同時に罪悪感を覚えずにはいられない。


俺はこの二人に"家族ごっこ"をさせている。


こんなに素敵な人たちなのに、俺は何て酷いことをさせているのだろうか。


いつかはまた心から接したいが、今は叶いそうにない。


上っ面だけの満面の笑みを作るのが上手くなるばかりで……それがまた申し訳なくて、悲しい。


俺はアパートに帰る時、二人にいつも心の中だけ謝る。


立ち直ったフリを続けていれば、いつのまにか立ち直っている気がするから。


だから、もう少しこのままで居させてください、と。









悲しみは気まぐれで、ぐにゃぐにゃと変調する。


渚と汐の夢を見てしまった時は、あまりに悲しみが深くて、誰とも会いたくない。


寝返り打つのも、指一本動かすのも、億劫だ。


そんな時は体調が悪いと仮病を使う。


普段が真面目で、月に一回か二回程度の頻度だからだろう。




「まぁ、ゆっくり休んでよ。でも、明日はちゃんと来てくれないと困るよ。岡崎くんは貴重な戦力なんだから」




電話越しの親方は、甘ったれた戯言を許してくれる。


日がな一日、俺は親方の優しさを咀嚼し、何度も何度も反芻し、糧にする。


そして、一人で考え続ける。


その日一日、言葉を発することなく、考え続ける。


でも、それでも腹は減るし、トイレにも行きたくなる。


そんな時は、体の俺と心の俺を分離させて、日常を送る。


身と心を一緒にしていたら、悲しみに体まで侵略される。


布団を干しながら、チャーハンを炒めながら、風呂を沸かしながら。


体をロボットのように自動的にして、頭はひたすら考え続ける。


如何にすれば、この悲しみを乗り越えられるかを。


努力すれば、全ての物事はゆっくりでも、良い方向に進んでいく。


限界だと悟ってしまえば、どこまでも落ちていく。




それが渚の死を乗り越え、親父の人生を知り、汐の父として、俺が学んだこと。




だから、俺は考え続ける。――悲しみを乗り越える術を。


でも、結局、いつだって答えは変わらない。




「このままじゃ、いけないよな」




ただそれだけ。分かるのはそれだけ。具体性の無い答えだけが見つかる。


その日はその一言だけ発して、眠りに落ちる。


明日からまた仕事へ出かける。


一度、電気工を辞めた俺を快く迎えてくれた親方や先輩たちには感謝してもし足りない。


俺は、この人たちも裏切ることは絶対にできない。


そして、事務所に入るとすることはいつも同じ。


内容は違ってもいつも同じ。




「いやぁ、風呂上りに飲んだ牛乳が傷んでて、腹壊したんすよ。はは、やっぱ、ダメっすよね。男の一人暮らしは食品管理できなくて」




作った嘘の不幸を物笑いの種にして、場を和ます。


まるで、大切な人を失った悲しみはもう乗り越えたとばかりに。


そんな時でも、俺は悲しい。


いつも、涙の代わりに結婚指輪が光る。









「でも時々、そんな風に立ち直ったフリすんのが疲れるんす」


誰にも会いたくないときもある。


けど、誰かに何もかも打ち明けたいときもある。


まるで、懺悔のように。


その相手は大方、芳野さんに決まっている。


芳野さんは大人で無口で、聞き上手な人だ。


俺の話をただ頷き、相槌打つ。


余計な意見やチャチャを入れてこない。


話す内容も酒が深くなると決まって、情け無い愚痴になる。


俺が何か悪いことをしたんでしょうか。

渚は本当に幸せだったんでしょうか。

俺は汐の父親に相応しかったんでしょうか。


永遠と壊れたテープレコーダーのように繰り返す。




「お前が悪いわけじゃない」




芳野さんは毎回うんざりすることも無く、そう言う。


その言葉を耳にすると、俺は静かに泣く。


俺は時々、客観的な赦しが欲しかった。


オッサンや早苗さんじゃダメなんだ。


あの人たちは……家族だから。


それにオッサンや早苗さんにそんな役を頼むと二人にとっても、傷を抉ることになる。


芳野さんは渚や汐のことを知っているが、深い知り合いじゃない。


せいぜい、後輩の妻、娘という認識で……その死に対しても、深く同情するくらいだ。


だから、気軽に頼みやすかった。


俺は卑怯者だ。俺は知っている。


芳野さんがけして俺を悪く言わないことを。


いつもぶっきらぼうに優しい言葉をくれることを。


芳野さんは良い人だ。


こんな良い人を伴侶に迎えて、公子さんもきっと幸せだろう。


そして、芳野さんなら公子さんも風子も幸せにできるだろう。……俺とは違って。


ちなみに、まだ俺はドライバーを返して貰ってない。


そのことを話題にすると、芳野さんは決まって、こう言う。




「気に入ったんだ。もう少し貸せ」









芳野さんにも都合がある。


俺が酒を飲みたい時にいつも暇があるわけじゃない。


そんな時、酒の相手は変わる。




「あ、勿論、ここアンタの奢りだから。よろしくねぇ〜♪」




藤林杏。


汐が通っていた幼稚園の先生で、高校時代の知己。


こいつは……いい女だ。


もし、誰かに結婚相手の紹介を求められたら、俺はこいつを勧めるだろう。


性格に多少難があるが、明るく美人で、料理も上手い。


そして、何より……優しい。


時折、俺はこいつの優しさに縋りそうになることがある。


男と女だからだろうか? 酒が入るせいだろうか?



「はぁ……これ、結構度数高いわねぇ……」

頬に朱を散した顔で、一杯の酒を空けて小さく吐息を吐くのを見た時に。


「うわぁ〜……なっさけな。口元、ベトベトじゃないのよ。このハンカチ、ちゃんと洗って返しなさいよ?」

何だかんだ言いながら、道端で戻してしまった俺の背を摩り、ハンカチで口元を拭ってくれる時に。


「あ、そうそう。私もさ、日曜は結構暇だから……奢ってくれるんなら、いつでも付き合うわよ」

閑散とした路地での別れ際、そんな優しい言葉を残された時に。




ふと、こいつが欲しくなる。




こいつが傍にいたら、もう悲しまずに済むんじゃないかと考える。


いや、おそらく今、俺は杏に惹かれているんだろう。


でなければ、別れ際。手を伸ばしかけ、口を開こうとはしないはずだ。


だが、絶対にその先、その言葉を声にしてはならない。



「今夜……ウチに来ないか?」



そう……口にしてはならない。


それは裏切りだ。渚と汐への裏切りだ。


渚と汐を失ってまだ間もないというのに、一体何を考えているのか。


杏に下卑た欲望を抱く時……



俺は誰より、俺が赦せなかった。



でも、あいつらなら……きっと、そんな過ちを犯しても俺を赦すだろう。


いや、それどころか祝福するに違いない。




『おめでとうございますっ。お二人とも、とてもお似合いです』
『おめでと、パパ!』




こんな風に。そのくらいのことは分かる。


俺は二人を心から愛していたから。


今更、誰かと一緒になろうとは思わない。


もう二度と、あれほど深く誰かを愛することはないと思う。



報われなかった時、辛過ぎるから。









昔、渚を失った時、俺は無心でいたかった。


どうやって、悲しみをやり過ごすか。


ただそれだけを考えていた。


けど、今の俺には時間がない。


別に不治の死病を患っているわけじゃない。体はいたって健康だ。


迫っているのは……誰かの吉日だ。


あるいはそれは、杏や春原、智代たちとかの結婚式。

あるいはそれは、芳野さん、公子さんの子供の誕生。


その時までに立ち直っていなければならない。


だって、そうだろ?


俺が悲しみを抱え込んでいたら、誰も素直に喜べない。


俺のことなんか構わず、喜んで欲しいが……きっとそんなことできない。


彼等は皆、優しい人間だからだ。


『あいつはあんなに辛いのに……』


皆、きっとそう思うだろう。


でも、俺にだって、プライドがある。それだけは耐えられない。


皆が己の幸福を素直に喜ぶためにも、俺は早く立ち直らなければならない。



そして、その時は俺も祝福してやりたい。――皆を。



だから、時にはあえて、悲しみに沈み、対話することもある。


悲しみを乗り越える術が、そこにあるかもしれないから。


押入れの中から、アルバムを引っ張り出し、開く。


その中には、オッサンと早苗さんから、譲ってもらった汐の写真がある。



柵のあるベッドで、ベビーメリーを目で追う汐。

世界の全てが物珍しいのだろう。


首が座り、がらがらを手に持つ汐。

掴む行為そのものが楽しいのだろうか。


お座りをし、指をくわえてる汐。

腹が減ってるのだろうか。


ハイハイで廊下を這う汐。

もう、自分の意思で世界を見回ることができるようになった。


掴まり立ちから、一人で立てるようになった汐。

人としての条件を一つ満たした瞬間だ。


早苗さんと手を繋ぎ、犬を指差す汐。

たどたどしく「ワンワン、いる」とでも言っているのだろうか。


幼稚園の入学式、俺が良く知ってる姿より少し幼い汐。

まだちょっと帽子が大きくてズレている。



それはまさにオッサンと早苗さんの勲章であり、汐の歴史だった。



過去の温かさに思わず、頬が緩む。



でも……途中で途切れる。


何も入っていないクリアなシートだけが続く。


どうして、この続きが無いのだろう。


あのまま何も起こらなければあったはずなのに。


幼稚園の運動会。


オッサンと俺がリレーのアンカーでデッドヒートを繰り広げたりとか。

自分の倍近い位置にあるカゴに、一生懸命、球を投げ入れる汐とか。

ビニールシートを広げて、オッサンと早苗さんと俺と汐で昼ごはんを食べたりとか。


もっと、もっと、もっと……。


このアルバムは思い出で埋まっていくはずだったのに。


俺もこの思い出の中の一員となっていたはずなのに。


結局分かるのは、一つ。



俺は父親の役目を、やり終えることができなかった。



ふと、親父のことを思い出す。


親父は全てを失った。


仕事も、信頼も、運も、友も……俺のために失った。


親父なら……俺を育てきった親父なら、この悲しみを乗り越える術を知っているだろうか。


今度、まとまった休みが取れたら、会いに行こう。


そう、思った。









ガタンガタンと列車が揺れる。


特急で行ける所まで行き、最後のローカル線で終点まで乗る。


一駅……二駅……三駅……。


終点に近づけば近づくほど、他の乗客が減っていく。


気付けば、電車の中は俺一人だった。


買った駅弁をもそもそと箸でつつきながら、空けた車窓に頬杖を付く。


季節は移り、もう冷たい風が吹き込んでくる。


秋は過ぎ去った。


もう、冬が訪れていた。――汐を失ったあの季節が。









古ぼけた駅から、あまり見知らぬ土地に降り立つ。


一瞬、ギョッとしてしまった。


夏、来たときとは、そこは別世界だった。


連なる山々に緑葉は無く、朽ち果てた枯れ木しかない。

遠目に見える花畑も一輪の花すら咲いておらず、ただの野原と化していた。

五月蝿い程鳴いていたセミの代わりに、冷たい北風がヒュウヒュウと口笛を耳に囁く。

空には灰色の雲。とても大きくて、何処までも何処までも広がっている。



――終わってしまった世界。



その言葉を思い浮かべた瞬間、俺の体が震えた。


寒さじゃない。


もっと別の何かに俺は震えていた。



嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!



俺は急ぎ足で進んだ。


何故だか分からないが、ここにいてはいけないと思った。


しかし、花畑だった野原の入り口に足を踏み入れ、気付く。


ぽつんと設置してあった販売機に。



「………………」









俺は一体、何をしているのか。


答えは簡単で、何もしていない。


ただ買ったばかりのおしるこを、枯木の下で、座って飲んでいるだけだ。


缶の暖かさとおしるこの甘さを感じると、不思議と落ち着いていた。


落ち着いて、そして、思い出して、考えた。



もう少しここにいよう、と。



親父がいる史乃のお祖母さんの家には、早苗さんから聞いて、連絡してある。


ただ以前は急行を乗り継いで来たが、今回は特急とローカル。


そして、今回は動物園も何処も寄るつもりがなく、目的地は親父と史乃のお祖母さんの所のみ。


そのせいか、酷く時間差ができてしまった。


今行っても、きっと何の準備もできていないだろう。


電話の調子からして、何のもてなしもできなかったら、二人は落ち込むと思う。


適当に時間を潰すべきだが、片田舎なこの地に娯楽施設なんかない。


俺は暇を潰せず、本当にただ待つしかできない。


ちらりと腕時計を見る。まだ五分も経っていなかった。



「ちっ……」



自分の計画性の無さに嫌気がさす。


立ち上がって、もう一度、自販機へ向かって歩き出す。


自販機の傍にあるゴミ箱へ、飲み終わったおしるこの缶を捨てるために。


その短い道中のことだった。



ゴリっ



何か固い物を踏んだ。



「……?」



当然の行動として、俺は足をどけた。


でも、どけるべきじゃなかった。

見るべきじゃなかった。

そもそも、こんな所で時間を潰そうなどと考えるべきじゃなかった。



「――っ!?」



それはロボットだった。

寸胴で、時代錯誤なデザインのロボット。

マニア向けの復刻モデルとしか思えないロボット。



――汐の……ロボット。



嗚呼……こんなのってない。


あの時、あんなに一生懸命探したのに。


あの時、見つからなかったのに。


今になって……今の今になって、見つかるだなんて。


しかも、こんな突然に。


何の前触れも無く見つかるだなんて。









『……あれはひとつだけだから……』

『えらんでくれて……かってくれたものだから』

『……はじめてパパに』









ダメだった。もうダメだった。



「ぐっ……」



こんなにも物悲しい世界で……。


俺を哀れむ人も、心配する人もいなくて……。



「はっ……あぐっ……うぅ」



こんな物が見つかってしまったら……。


世間体も何も気兼ねしないでいいのなら……。


もう、俺はダメだった。



「があ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っ!!!」



叫んだ。


喉が枯れるまで、涙が枯れるまで。


膝から崩れ落ちた俺は汐のロボットを胸に抱き、泣き叫び続けた。











何で、俺だけこの世界に生き残ってるんだろう?


もうずっと……ここで泣き叫んでいたい。


もう俺は歩けない。どこにも行くことなんてできない。









『違います、朋也くん』

『そんなことで足を止めたらダメです』

『がんばれるなら、がんばるべきなんです』

『進めるなら、前に進むべきなんです』

『朋也くんは、進んでください』










あぁ、分かってる。


分かってるよ、渚……。


でも……でもな。


歩いてるのに……走ってさえいるのに……。


渚がいないから……汐がいないから……!











ちっとも前に進まねぇんだよぉっ!









渚と暮らし始めた日々は……白い飛行機雲。


ただ追うだけで、充実していた。


少々の不幸も渚がいれば、スパイスに過ぎなかった。









渚がいなくなった日々は……真っ暗な闇の底。


絶望するのは、楽だった。


目と耳を塞いで、何もせず、ただ堕ちていけばいいだけだった。









今の俺はこの空と同じだ。


晴れるわけじゃなく、しかし、雨が降るわけでもない。


白ではなく、黒でもない。


いっそ壊れたい。でも、俺が壊れたら皆が悲しむ。


皆のために生きたい。でも、この悲しみを乗り越える術が見つからない。


何もかもが中途半端な状態。


そう、そうだ。これこそが、そうなんだ。









これが……"灰色の悲しみ"なんだ。









俺は悲しい。


ただただ悲しい。


渚と汐がいない日々は、体中に悲しみが蔓延る。


ただただ悲しい。


俺は悲しい。









END


別のを見る。

ぴえろの後書き

 灯哉さんトコに20万ヒット記念で投稿した作品。
 ダーク(というよりダウナー)ですけど、結構気に入ってたりします。
 続き書けそうだけど、大変だから書かないだろうなぁ……。
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