騒がし乙女のかく

written by ぴえろ




「大丈夫、葉留佳? やっぱり医者に診てもらった方がいいんじゃないかしら」
「イヤー、いいですヨ。たかが風邪でそんな大袈裟な……」
「でも、風邪は万病の元って言うでしょう?」
「大丈夫大丈夫、風邪薬も飲んだし。一日横になってれば治りますヨ。だから、気にせずお仕事行ってきなよ、お母さん」

 いい加減ウンザリザリザリ、ザリガニ臭ーな気分になってきた私は、ハイこれにて一見落着〜とばかりに目を閉じた。いや、全然落着してないけどさ。更に顔半分を隠すように掛け布団を引き上げる。今日一日、はるちん大人しくしてますヨのポーズだ。このポーズを前にしては流石のお母さんも溜息を一つ吐いて、引き下がった。

「じゃあ、何かあったら私かお父さんに連絡しなさいね」
「ハイハイ、了解しました。いってらっさ〜い」
「ハイは一回でいいの」
「ハーイ」
「間延びもダメ」
「もうウッサイなー。こっちは病人なんだよ、ぶーぶー」

 ガサガサと耳元で音がする。多分、お母さんが枕頭台に置かれている盆を軽く整理してるんだろう。片方だけ目を薄く開いて、横目で窺う。中身の錠剤を取り出され、ひしゃげてしまった銀の包装(2粒分)をゴミ箱に捨て、余った分をパッケージの中に戻す。まだほんの少し水が残っていたコップを呷って飲み干すとお母さんは盆を持って立ち上がった。中皿サイズのわんの中に収まっていたスプーンが、窓から射している朝日を受けて光った。葉留佳、もっと綺麗に食べなさい。おかゆの米、残ってるじゃない。良い? お米一粒の中には七人の神様が……うんたらかんたら〜。うるさいったらありゃしないので、タヌキ寝入りを決め込んで、出ていくのを待った。

 はぁ〜、ホント耳にタコができそうですね〜。
 家ではお母さん、寮や学校ではお姉ちゃん。二人にお説教されて、はるちんの心休まる日々は確実に少なくなっておりますよ、全く。所謂、ちびまる子ちゃんにおけるまる子、サザエさんにおけるカツオ、ドラえもんにおけるのび太、それが現在のはるちんのポジションなわけですヨ。前からそんな感じでしたけど、更に固定キャラと化してしまったようで。ま、今の生活もまんざらでもないですけどネ。
 ……普通の家族ってこういう感じだと思うし。
 ただやっぱり、まだ何かぎこちない。お母さんが急にちょっと口煩くなったのもそうだ。私には何だかそれが世間一般の母親は口煩いものだって言う既成概念に囚われてる感じがしてならない。それとも、私とお姉ちゃんの姉妹関係を参考にしちゃってるのかなー。親が子供から学ぶこともあるんだろうけど、これはアリなのかー? ってなことを考えてると、やっぱり私の家はマットーな家じゃないと再確認してしまう。ま、別に構いませんけどネ。マットーじゃなかった家族がマットーになろうとしたら、どうしてもそういう不自然さは出てきてしまうもんでしょー。噛み合わない歯車を合うようにするには、地道に修正するしかないんだから。
 たまに本当に煩わしくなるけど、お母さんやお姉ちゃんに小言言われること自体はそんなに嫌いじゃない。そこはかとなく、そういった小言の下地に家族ならではのブキッチョな想いやりが隠れてるのを感じられますしネ。むしろ、私はそれをもっと感じたくて、ついつい今まで以上に悪戯に精を出してしまうのかもしれないなァ〜、ってなことをもし言ったら、また怒られそうだから、言うのやめとこ。

「全く、あなたときたら……しょうがない子ね」

 私の様子を見たのか見てないのか、お母さんは溜息をまた一つ零すと部屋を出ていった。パタンと扉の閉められた音を耳にすると私は目を開けた。頭の後ろで手を組んで、ゴロリと寝がえり一つ打って、窓の方へ視線を移す。白く薄いカーテンの向こう側では、雀が数匹、電線の上で一列に並んで、ピーチクパーチクさえずっていた。君たちは仲間と楽しそーにお話してるのに、今の私ときたら、籠の鳥ですヨ、トホホ〜。って、ありゃま、今、もしかして上手いこと言ったんじゃない? はるちんに座布団一枚! ……ベッドで寝てる時に持ってこられても迷惑なだけですけどネ。
 何回か右に左にゴロゴロと寝がえりを打ってみたけど、五秒で飽きてしまった。何だか無性に学校に行きたくなってくる。はるちん、こんなに学校が好きだったとは意外と優等生だったんだなーエライ子! とか思ったけど、よく考えたら、勉強できない時点で全然優等生じゃないじゃん! と衝撃の真実に気付いて、軽く鬱になった。何でこんな暇持て余すようなことになっちゃったんでしょーネ。

 最初はくしゃみが酷くなっても、花粉症かなーと思って、放っておいた。
 風邪であることが発覚したのは、寮から家に帰る日の晩ご飯の時だ。食べてる時も座りながら頭がフラフラしてたらしく、風邪ひいてるんじゃないかって言われたから、そんなことないッスよー花粉症でしょーとヘラヘラ笑ってたけど、念のため、熱測ってみたら三九度以上あって、何ー! 私風邪だったのかー! どうりで花粉症にしては頭超痛いと思ったー! と吃驚仰天。自分で言うのも空しくなるけど、アホの子ここに極まれりって感じですネ。お母さんにもかなり小言を言われましたヨ。
 だって、しょうがないじゃん。四月って風邪ひきシーズンじゃないし、流石のはるちんだってまさか本当に風邪だとは思ってもみなかったんだからさ。あー痛い痛い。思い出すとまたこめかみの辺りがキリキリ痛み出してきた。お母さんにさっきみたいな調子で大分くどくど言われたもんなぁ〜。あー、そう言えば、『くどくど』で思い出したけど、クド公は今頃どうしてんでしょーネ? それに他の皆も。まだ朝のSHRには早いから、皆食堂かなー? 三年になって、若干バラけちゃったから、食堂で集まること多くなったし。

「わふー、外はもう桜が満開ですー! はなさかじいさん要らずなのですー!」
「はなさかじいさんってーとアレか。隣の家の意地悪なじいさんばあさんに殺された犬の遺灰まいて桜咲かせたっていう昔話だよな?」
「うむ、筋肉の割にはよく知ってるな」
「んだとてめぇ、来ヶ谷! 脳みそまで筋肉みたいな癖によくもそんな細かい部分まで覚えていやがったなこのファッキン脳筋野郎、とでも言いたげだな!」
「まぁ、その通りだ」
「ハッ、残念だったな! 脳みそまで筋肉にするのはオレの最終目標で、まだなってねーよバーカ!」
「真人にとって、脳みそ筋肉は憧れなんだね……」
「こいつ、本当に最後は脳みそまで筋肉にしそうだな。むしろ、もうなってるんじゃないのか?」

 皆は相変わらず、賑やかで……。

「ちなみにあの話は中々科学的な根拠もある。灰の成分であるカリウム、カルシウム、他にも鉄や亜鉛といったミネラル分は実際、植物の成長を促進させる肥料ともなり得るからな。おや? ところでクドリャフカ君、ストレルカとヴェルカはどうしたのかね?」
「え、今朝はまだどちらも見かけてませんけど……ハッ、ま、まさか!? 来ヶ谷さん!?」
「あぁ、気の毒なことをした。尊い犠牲だったよ……」
「そ、そんな……何て事してくれるんですかー!」
「ふむ、愛犬が酷い目に遭わされたのだから『何をするだァー!』と激怒する方が通な怒り方だと思うが」
「いや、待て、来ヶ谷。怒り方に通も何もあるのか?」
「そもそも、『何をするだー!』は誤字表記で、『何をするんだー!』が正しいのでは?」
「フッ、美魚君。たとえ間違っていようとファンに愛されてる方が正義なのさ……」
「うぅ、そんなのどっちでもいいです。ストレルカとヴェルカが桜の木になったことに変わりないのです」
「大丈夫だよ〜、クーちゃん。はなさかじいさんの灰は正確には『臼』の灰だから〜」
「いやいや、小毬さんのは微妙に論点がズレてる気がするんだけど……それでも結局、犬死んでるし」
「ま、安心したまえ。あの二匹は無事だ。というか、ぶっちゃけ、私の嘘だし」
「わふー! 私、まんまと騙されてしまったのですかー!」

 楽しそうに笑っていて……。

「そう言えば、今日は土曜だったな。どうだ。授業が終わり次第、皆で花見でもしに行かないかっ!」
「あっ、それいいね。ナイスアイディアだよ、謙吾。って、部活いいの? 昼からあるんじゃない?」
「理樹。見ろ、この澄み渡った青空を! こんなピクニック日和にむさ苦しい道場で竹刀なんぞ振ってられるかっ! 楽しみにしてろよ。自分で言うのも何だが、俺の腹芸は凄いぞ。こんな時のため、密かに練習しておいたのさ! イヤッホォォーゥ!」
「こいつ、頭が春だ! パッパラパーだ!」
「……恭介氏が卒業してから、謙吾少年が加速度的にアホになったように思えるのは私だけか?」
「へっ、謙吾! てめぇが腹芸ならオレは筋肉芸を見せてやるぜ!」
「いやいや、そんな芸に対して芸で対抗しなくてもいいから。しかも、意味不明な芸だし」
「何故でしょう。直枝さんが芸芸と連呼していると、私も何やらイケナイ気分になってきました」
「美魚君も頭が春になりつつあるな……。流石は春。まともな人間が少なくなる季節だな」
「じゃあ、私はお花見弁当をこしらえるのですー!」
「うん、じゃあ私はクーちゃんのお手伝いをしましょう〜」

 なぁ〜んか、気づきそうじゃありませんよネ。――私一人、いなくってもさ。
 だって、あの存在感ジャンジャン溢れ出してる恭介さんが卒業しちゃっても、割と平気って言うかさ。そりゃ、卒業して寂しいね〜って雰囲気が数日間ありましたけど、今じゃほとんどそれが普通〜って感じになっちゃってますし? 恭介さんでそれなんですから、私なんかソッコーで忘れ去られそうな気がして、はるちんは凹みまくりですヨ……。

「誰か見舞いに来たりしないかなー……」

 呟いた声は思ってたより鼻声だった。身を起して、枕頭台のティッシュ箱から一枚抜き取り、鼻をかむ。丸めたティッシュをダーツの要領で狙い澄まして、ゴミ箱へ投げ捨てる。ぽとん。外れた。ゴミ箱の縁に当たって弾き飛ばされ、カーペットの上を転がった。ちぇー、こっちの調子も悪いなァ。
 少し不貞腐れて後ろに倒れ込む。ボスンと枕が私の頭を柔らかく受け止めた。左手を伸ばして、枕頭台をまさぐる。間違って付いたデスクライトを消して、充電器からケータイを取り外した。黄緑と黒のツートンカラー、手に馴染む感触。私はしばらく、手遊びのようにケータイをスライドさせていた。休むことはクラスメート兼ルームメイトにメールで伝えてあるから学校への連絡はもういいんだけど……。何気なく『リトルバスターズ』のグループ欄を開く。理樹くんのメアドをクリックすると新しいメールの作成画面に切り替わる。指を動かして、ポチポチと文字を打っていく。

『油断したー! 四月なのに風邪ひいちゃいましたヨ! 五月病ならぬ四月病だネ♪ (>Д<) ゴホゴホ』

 ……というよ〜なメールを送ったら、一体どんなメールが返ってくるのやら。ツッコミ担当の理樹くんのことだから、『いやいや、♪とか付けてる場合じゃないから!』とでも返ってくるんでしょーかね? でも、これじゃ寂しいからわざわざメールしたって感じがするなァ。実際そうなんだけど、そう思われるのはちょっと恥ずい。送信ボタンに親指を当てたまま、ちょっと悩む。……うん、やめときましょーか。流石に気付くでしょー。今年は同じクラスになれたんだし。

「気付いてくれる……よね」

 再び窓に目を向ける。雀たちはもう飛び去っていた。部屋には、くしゃくしゃに丸められたティッシュがぽつねんとあった。




 気が付けば、ウトウトと微睡んでいた。
 眠りから覚醒の狭間、それは深い海の底からゆっくり浮かび上がってるような気分。皆で行った海、楽しかったなー。時期的に泳げなかったけど。というか、私カナヅチだから、最初から泳げないんだけど。うーん、ちょっと寝過ぎかなー。でも、後少しだけ、まどロミオジュリエッツな気分でいたいな〜。『おぉ、スプリング! 貴方は何故、季節の癖に英語だとバネみたいな……え、スペルまで一緒!? まさか、私が愛していたスプリングがいつの間にかバネのスプリングに変わっていただなんて! 酷いわ! 何も知らない私のことを嘲笑って弄んでいたのね!』みたいな? 自分で言っておきながら、意味不明だった。赤ちゃんみたいに丸くなる。天日干しされたお布団の香りがまた眠りの海へ誘う。ああ、お母さん、私が帰ってくるから干してくれてたのかなー。嬉しいなー。
 後もう少しで春眠、暁に死す!って所で音の外れたメロディーが鳴った。メルマックより愛をこめて、私の自作曲だ。ビート板が急に体の下に現れたみたいに、グァッと意識が急浮上する。

「んーぁ、ハイハイ、誰ですかー?」

 再び左手で枕頭台をまさぐる。ピカッ! ひゃあっ、眩しっ! またお前か! 眠りを超えて何度はるちんの前に立ちはだかるというのか、デスクライト! ……お仕事ご苦労さまです。でも、今は夜じゃないので、はるちんの網膜を焼くのは勘弁して下さい。忠実に仕事をこなしているだけのデスクライトを消して、ケータイを取る。今、十二時半過ぎかぁ。結構寝ちゃったなぁ。およ、メール七件も着てる。寝てる間に来てたのかなぁ。最後のメール……つまり、さっき鳴ったのは私が贔屓にしてる店からの告知メールだった。取るに足らないメールだけど、おかげで他のメールが来てることに気づけた。六件の送信者の名前は全部見覚えがある。リトルバスターズの皆からだった。
 ――嗚呼、良かった。皆ちゃんと気にかけてくれてたんだ……。
 私は自分でも不思議なくらい安心して、頬を緩めていた。着てないのはみおちんと真人くんか。まぁ、みおちんはケータイ苦手だし、真人くんはそもそもケータイそんな使わない人だし。意外なのは姉御と謙吾くんだ。姉御はこういうのに無頓着そうだから意外で、謙吾くんは私のこと苦手そうだから意外だった。着信順に見ようと思って、下へ下へ移動していく。一番手は小毬ちゃんだった。

『はるちゃん、今日はお休みなのか〜。寂しいな〜。早く治るといいね♪ 良くなったら、一緒にマフィン作りましょ〜☆ \(>▽<)人(^▽^)/』

 おぉ〜、小毬ちゃんは良い子だなぁ〜。フッフッフ、愛い奴め。はるちん復活の暁には、はるちん流奥義! 電蛇羅須手璃射守魔斧印デンジャラスデリシャスマフィンを伝授してしんぜやう。お次はクド公か。

『三枝さん、調子はどうですか。って、良くないからお休みしてるわけですが、所謂、お決まりの挨拶と言いましょうか……わふー! 何が言いたいか分からなくなってきました! (>ω<) ともかく、三枝さんがいないとストレルカたちも何だか寂しそうです。ご健闘をお祈りしますですー!』

 ご健闘って……何、その回復したらワンコたちとバトル!みたいなフラグは。こっちは病人なんだから、ご健闘じゃなくて、ご壮健の方が正しいんじゃないのかー? あ、でも、既に壮健じゃないからこれも違うか。んで、次が鈴ちゃん。

『はよ治せ(∵)』

 何とシンプルイズベストなメール。しかし、私には見える! 打っては消し、打っては消しを繰り返している鈴ちゃんの姿が! そして、その果てにこの至高の四文字にたどり着いたに違いない! ……そー信じさせてお願い。さてさて、次はおっぱいに定評のある姉御からですネ。

『↓今日の剣道馬鹿

 中々傑作だろう。ちなみにホムーランは誤字じゃないぞ。本当に言ってた。夜に何をホムーランするのか、そもそも、ホムーランとは如何なる意味を持つ単語なのか。色々と興味が尽きない。ちなみにこの力作を本人に見せたら、「俺はこんな間抜け面か!」とずれたツッコミをしていた。やはり、本質的にはアホだな。ああ、それと風邪の方、大事にな』

 私の風邪はついでっすか!? そりゃ無いっすヨ、姉御ォ〜。しかし、相変わらず才能を無駄なことに使ってるなァ。ホムーラン……ホムホムと出来立て熱々なハンバーガーを頬張りながら、ランランルー♪と嬉しくなってついやっちゃうことでしょーかネ? うわっ、スッゴイ笑顔でやってる謙吾くんを想像するとそれだけでキモイなァ。と、次はそんな謙吾くんからか。

『↓今日の来ヶ谷

 (谷)<スウガク マンドクセ

 どうだ? 来ヶ谷の“谷”はカッコで囲むと顔文字に見えるだろう? ヒゲがとてもダンディズムな顔文字だ。真人と理樹は賛同してくれた。女子は全員見えないと言うんだがな……。三枝、お前だけでも見えると言ってくれ。お前を男と見込んで頼みたい。P.S. 後、風邪。お大事に』

 って、お前もかー! アンタ等二人にとって、私の風邪はついでなのかー!? しかも、男と見込まれてるし! ったく、これが顔文字に見えるかなんてどーでもいいことを……。でも、この姐御と謙吾くんの流れ、何かあったな。多分、それは女豹と虎のじゃれ合いみたいに取るに足らないやり取りで、知ってしまえば、何だそんなことかで済むことなんだろうけど……気になる。それほど興味もなく見てたドラマなのに、一話見逃して、次見たら微妙に話についていけなくなるあの感じに近い。ん、最後は理樹くんかー。

『葉留佳さん、具合少しは良くなった? 真人と謙吾はうるさくなくていいとか言ってたけど、やっぱり葉留佳さんがいないと寂しいね。西園さんも心配してたよ。葉留佳さんによろしくだって。何か小一時間かけてとりあえず文章(ひらがなオンリー)は作ったらしいんだけど、出会い系サイトの勧誘メールに返信して挫折したみたい。(^^; それじゃ、早く元気になるといいね。(^^)/』

 やっぱり、謙吾くんは賛同欲しさのメールだったか。ホントはちっとも心配なんかしてないんだな、アンチクショー。今度、ジャンパーの猫をマジックでやたらと太い眉にしてやる。にしても、みおちんも送ろうとしてくれてたんだなー。凡ミスにも程があるけど。
 しばらく、ポチポチと内職でもするようにメールを打ち続けた。一人ずつ返信して、んで、みおちんにもメールを送った。一応、メールを見ることぐらいはできるしね。でも、それが済むと途端にすることが無くなってしまった。他にしたことと言えば、おでこの冷えピタクールがすっかり温くなっていたので貼り直したりだとか、喉が渇いたのでお茶を飲んで、ついでにお腹も減ってたので卵かけごはんを作って食べただとか、つまりはそういう雑事だ。それすら終わると風邪を治すということ以外に、本当に何もすることがなくなってしまって、大人しく布団の中へ戻った。

「何かないかなー……」

 一度起きたからか、眠りは中々訪れず、私はケータイをいじっていた。テトリスしたり、ぷよぷよしたり……でも、体調悪いせいか、あんまり集中できずにすぐに飽きる。次に出かけられるわけでもないのに、天気予報なんて見ていた。午後からの降水確率七十%、ホントかどうか、窓の方を見て確かめる。朝はそんな素振りはなかったのに、薄手のカーテンの向こうは鈍く重苦しい銀灰色に染まっていた。確かに一雨降りそうだった。ハァ、と思わず零れた嘆息には微熱が籠っていた。

 ――やっぱり、こういう日は誰か傍にいて欲しい。

 雨雲と熱病は、否応なく私をあの日に誘う。孤独感に一人抗い続けていたあの日々へと……。




 誰でも一度くらい死ぬような思いをしたことがあると思う。私もある。
 小学生の頃、インフルエンザにかかって、酷い高熱を出した。だと言うのに、誰一人看病してくれる人はいなかった。その頃には、もう私は三枝の面汚しと呼ばれていたからだ。

「厄病神が疫病を持ち込んできたぞ」

 そう言われた。同情してくれる人なんているわけもなく、むしろ、天罰が下ったのだろうと奴らはせせら笑っていた。それでも、私に寝床と薬が与えられたのはもう一人のお父さん、三枝晶の娘ではないかもしれないという可能性からだった。断じて、善意からではないことを理解していた。
 私は治るまで、離れの納屋で寝泊まりするように命令された。特に叔父叔母の住む母屋には絶対に近付いてはならないと、あいつらは口を酸っぱくするように言っていた。私はそれを律儀に守った。というより、殆ど寝ていたので自然と守っていた。
 病中の殆どは意識が朦朧としていたけれど、どうやら女中の人が定期的に来ていたらしいことは察していた。食事や着替え、薬などがふと気が付けば、寝床の傍に置かれていたから。

 意識がある内で、一番の苦行はトイレだった。
 離れの納屋にトイレは無いので母屋まで行く必要があった。叔父たちもその時だけは母屋に近付くことを許可していた。しかし、それは決して楽な道のりじゃなかった。筋肉痛で思うようにならない体を起こし、靴を履き、蝶つがいの錆び付いた扉を押し開く。この時点で、既に満身創痍になってしまって、その場で漏らす誘惑に駆られた。でも、漏らせば、打たれる蹴られる。着替えなんか用意されず、そのまま寝ろと吐き捨てられる。消え入りたくなるような惨めさを抱いて、一晩明かす。そんなことは嫌だ。絶対に嫌だ。使い切ってしまった歯磨き粉を更に端から押し潰すようにして、気力を振り絞り足を出した。
 外は陰鬱な雲模様だった。黒く分厚い雲に蓋をされたように日の光は届かず、世界は薄暗かった。今が朝か昼か、それとも夕方なのか、それさえ分からなかった。雨の匂いや湿った空気が首筋を撫ぜる感じで、もうすぐ降り出すかも知れないと予感した私は、少しだけ急いだ。
 離れの納屋から庭を通る時、飛び石程度の障害物につまづきかけたけど、それでも何とか縁側から母屋へ上がった。熱に浮かされた頭でトイレの場所を思い浮かべる。三枝の家は広大な武家屋敷で、私はよく迷うことが多かった。唯でさえそうだったから、案の定、叔父たちの一人がいる部屋の障子を開けてしまい、何かを投げ付けられた。顔を覆う両腕にゴツリと鈍い衝撃が走った後、グワングワンと円盤状のそれは木の板でダンスを踊っていた。随分と肉厚のある灰皿だった。

「わしを道連れにするつもりか、この厄病神がっ!!」

 そこからのことは、よく覚えていない。気が付けば、私は納屋の天上を見上げていた。夢かなと思ったけれど、ジュクジュクと顔全体に広がる痛みと熱、少ししか開かなくなった瞼、鼻の奥から喉へ流れる温かなモノ、腕にある青痣、失われた生理欲求、そして、納屋を出た時とは違うパジャマ。それらが全てを物語っていた。――嗚呼、人間惨め過ぎると涙も出ないんだって分かった。

 納屋で寝るのも堪らなく嫌だった。
 一応、それなりの名士である三枝家の納屋は一般家庭より遙かに広くて、没落以前に画集していた骨董品なんかがここに納められていた。けれども、宝物庫というわけじゃない。本当に価値のあるお宝の大半は、事業が失敗した時に売り払われてしまった。残った物も全て母屋の方に飾られている。
 納屋にあるのは二束三文の贋作、ガラクタの類ばかりだった。中には肖像画の類なんかも幾つかあって……納屋の真ん中で寝ていた私は、いつもじぃっと誰かに見下ろされている気がして、恐ろしかった。窓の無い納屋は四六時中、闇の中に沈んでいて……意識が朦朧としていた私には、生気の無い肖像画の眼が亡者の眼のように思えて仕方がなかった。

 ――私は、きっとあいつらに連れ攫われてしまうんだ。
 ――ずっとずっと、この闇の中で苦しみ続けるんだ。
 ――そして、誰にも知られることなく、独りで死んでしまうんだ。

 熱に浮かされた頭で、そんなことを考えて無性に悲しくなったのを覚えている。雨の瓦を打つ音が、カツカツと納屋の中に鳴り響いていた。私はその音に紛れるように涙を流していた。

 泣きつかれるように眠った私は、何か冷たいものが当てられる感触で目が覚めた。柔らかな木綿の感触、濡れタオルだった。それは額や頬など私の顔中を優しく触れては離れるを繰り返していた。叔父に殴られた跡や病気で昂ぶった熱にそれらは気持ちが良かった。心地いい感触が離れる。ちゃぷちゃぷ、ぼちゃぼちゃ。洗面器に浸して絞った音だと分かった時には、ひたり、と額に濡れタオルが乗せられていた。
 誰だろう、こんな私の看病をしてくれる女中さんは。
 目を開こうとしたけれど、腫れ上がった瞼は碌に開かなかった。構わず、そのまま扉の方へ顔を向けた。朝になって晴れたのか、扉からは光の帯が伸びていた。埃がきらきらと反射する中、その人影はあった。まだ朦朧としているのと、逆光の眩しさで誰かよく分からない。人影は背を向け、納屋を出ていく所だった。扉から微風が舞いこむ。その時、私は確かに嗅いだんだ。……爽やかなミントの薫りを。

『お姉ちゃん』

 私はその背に手を伸ばしていた。でも、その手は宙を彷徨うだけで――



「……留佳、葉留佳!」

 ――届いた……?
 何が起こったのか分からず、私は呆けていた。背を向けていたはずのお姉ちゃんが何故かベッドの脇に両膝を着いて座り、私の手を握っていた。そこでようやく、夢を見ていたことに気がついた。

「うなされていたようだけれど、そんなに酷い風邪なの? お母さんの電話の様子じゃ、そんなに酷いようには思えなかったのに……」

 一度、私の額に手を当てたけど、たぶん、冷えピタクールのせいでよく分からなかったのだろう。体温計どこかしら、と言って立ち上がろうとしていた。

「だ、大丈夫だって! ちょっと……昔の夢見ただけだよ」

 他に言いようもなくて、ありのままを告げると、お姉ちゃんは一度表情をハッとさせ、「そう」と呟くとみるみる間に翳らせた。昔……それは私たちにとって、共通の不幸だった。いや、それはきっと迫っていないだけで、今も尚、私とお姉ちゃんの周りに存在している。
 ああ、ダメだ。この手の話題はどうやっても暗くなってしまう。気まずい雰囲気になったこの場を振り払うように私はお姉ちゃんを茶化すことにした。

「そう言えば、何でお姉ちゃんがいるの? 風紀委員の仕事とかあるんじゃないの? あ、そうか。さては可愛い妹が病に伏してると知って飛んできたのだなァ〜」
「そうね、可愛い妹が苦しんでいるかと思ったら、気が気じゃなくてね。寮を飛び出してきたわ」
「――なッ! ぅ……」

 見事なクロスカウンターが間髪入れずに入って、思わず呻く。こう、何というか……ここまでダイレクトに言われるとかなり恥ずい。が、それはどうやら諸刃の剣だったらしく、言ったお姉ちゃん自身、発言の恥ずかしさに紅潮していた。

「嘘に決まってるでしょ。前にこの家に泊まった時に風紀委員の腕章洗ったまま、忘れてたから取りに来たの。ついでに葉留佳の顔でも見ておこうと思ってね。それだけよ」

 それは多分、嘘じゃない。でも、私は知っている。風紀委員の腕章は学校に予備がある。わざわざ、この雨の中、家に来るような理由にはならない。大体、ついで程度なら、まず済ませておくと思うのだ。――雨に濡れた髪を拭くことぐらいは。
 言ったらどーなるんだろーなぁー。怒るかなぁ―。でもまぁ、いいや。面倒だし。最後の砦はあえて攻めないでおこう。武士の情けというやつだ。武士じゃないけど。

「そうだ。はい、これ。卵酒。これ飲んでさっさと風邪治すのね」

 ベッドの脇に置かれていた学校指定のバッグから、一本の瓶がにょきりと姿を現す。

「え、誰が? もしかして、お姉ちゃんが?」
「そうよ、と言いたい所だけど、違うわ。食堂のおばさんからよ。相変わらず、猫の手も借りたいような状況だから、早くよくなって欲しいんだって」
「猫の手って……私はタマですか?」
「タマね。もしくは、ミケかもしれないけど」

 どっちでも同じじゃん! 猫の手なら、鈴ちゃんに頼めばいくらだって貸してくれるってのに。でもまぁ、そーかー。もはや、食堂においても、はるちんの力なしでは立ち行かないのだなー。しょうがない。これなら、さっさと治してやらねばなるまい。
 どうやら、私は思った以上に多くの人に想われているらしかった。それは返さなければならないものだ。返したいと思った。まず、ここにいる人から。

「お姉ちゃん」
「何?」
「ありがとね」

 そう告げると、一瞬お姉ちゃんは何かまた皮肉めいたことを言おうと片眉を顰めた。けど、一度溜め息を吐くと別の言葉を口にした。

「どういたしまして」
 


 私たちはまだ幸せになり切れていない。
 お山の家のこともそうだし、理樹君のこともそうだ。これからも、色んなことを考えて行動していかなくてはならない。自分の幸せのために。でも、今はここにある幸せを噛みしめていたかった。
 寝起きの渇いた喉に卵酒のまろやかな味が染みわたっていく。

END



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 ぴえろの後書き

 ふへぇ、はるちんの口語体一人称は実にしんどかったです。(´Д`)ハァ 突拍子もない思考と発言をトレースするのは難しいッス。若干サボってる部分もありますが、ご愛嬌。というか、あれだ。軽く書くつもりだったのに、途中から本気になって、時間かかってしまいました。
 しっかし、温度差の激しいssですな。前半と後半の温度差合わせる気がゼロなのが見え見えです。幼少期のことを考えると、はるちんのあの明るさは奇跡的ですらありますよね。普通なら、性格歪んで他人を呪うだけの人間になりそうなもんですが……。そういう意味じゃ、はるちんは十分強い子だと思うのです。


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