アスファルトは既に真っ黒だと言うのに太陽は更なる過酷を強いていた。近所の住人がホースで捲いた打ち水など文字通り、焼け石に水と言った有様で、あっと言う間に太陽熱で干上がっていく。むしろ、ジュウジュウと水蒸気が上がっているように見えて、かえって視覚的に熱さが増した。
 そんな真夏のある日に限って、漆黒のスーツに身を纏う妙齢の女性が一人。

「あ、暑過ぎる。この暑さは既に犯罪的だ。太陽、貴様を灼熱罪及び紫外線散布罪で告訴する」

 女性――来ヶ谷唯湖は、たまらずシャツの胸元を開け、パタパタと煽いでいた。つらりと掻いた汗が谷間に滑り込む。すれ違った男が露わになった来ヶ谷の谷間に一瞬だけ目をやった。得したなと言わんばかりに口元を緩める。それを見たせいで、気休めどころか余計に不快になった。
 が、来ヶ谷はそれで気恥しくなってシャツのボタンを止め直すようないじらしい性格の持ち主ではない。もしも、都会ならばもう少し自制心が働いたかもしれないが、ここは人通りの殆どない住宅街だった。

「(この暑さでこの格好はアホだろう……)」

 自身を顧みて、心底そう思う。
 黒のスーツはジャケットとパンツの組み合わせ。せめて、ズボンのようなパンツではなく、スカートを穿いていれば多少は涼しげであっただろう。こちらの方が似合うに違うない、と買う時にパンツを選んだ己を恨んでしまいそうだった。履いているハイヒールは黒く、元々、来ヶ谷は一七〇cmと女性として大柄だが、これにより更に六センチも伸びている。それはいい。小柄な女性の可愛らしさなど当の昔に諦めている。それよりも、ただでさえ暑さで苛立っているのに、ハイヒール独特の歩きにくさが加わって、ハラワタが煮えくり返りそうになっていた。かと言って、ハイヒールを脱げば、熱された車のボンネットのような地面に足を付けることになる。結局、これを履いているしかない。
 しかし、来ヶ谷の不快指数の上昇に最も貢献しているのは、身に着けたものではなく、自身の頭部から生える長い黒髪だった。髪は今、天然のソーラーパネルと化して、太陽熱を諸手で歓迎している。カチカチ山のたぬきのように、火でもつけられてるのではないかと錯覚しそうだった。熱を吸収して、思考が鈍磨していく。そんな頭で考えているせいか。

「(というか……私は一体何故――日本にいるんだ?)」

 そんな大事なことが分からずにいた。


 ――来ヶ谷唯湖は、記憶喪失になっていた。





いつか気付くかな

written by ぴえろ




 最初、自身が記憶喪失であると気付いた時、来ヶ谷が感じたのは驚愕でも恐怖でもなく、興味だった。
 よもや、自分がそんなドラマのような事態に陥るとは予想だにしてなかった。聡明な彼女にとって、予想できないこととは即ち、面白いことである。自分がどの程度まで記憶を想起できるかを確認しようと思い、まず幼稚園、小学校、中学校と通って来た教育機関を基軸に記憶を遡っていった。所々、記憶の風化が認められたが、順調に思い出す事が出来た。そして、彼女にとって転機でもあった……高校。

 女生徒二名よる度重なるいじめとその報復の歴史。リトルバスターズとの出会い。初めて覚える自然な感情の起伏。そして、淡い初恋。あの悲惨な修学旅行の事故の後、相変わらずの日々を過ごし、やがて春を迎え、一歳年上のリーダーである棗恭介が卒業した。最後の記念に皆で卒業旅行へ行った。それが棗恭介がいるリトルバスターズの最後の思い出。「死に分かれるわけじゃあるまいし、そんな暗い顔すんなよ」と彼は最後まで笑っていた。どれだけ親交が深くとも、いずれは別れが訪れるものだと体験的に思い知らされた日だった。

 そして、また月日は流れ、三年の最後の秋。来ヶ谷は一人の男子生徒を誰もいない放課後に呼び出した。初めての愛の告白。結果はと言えば、未だに一人身であることが全てを物語っている。
 その告白の返事を聞いた後、来ヶ谷は渡米した。
 傷心旅行などではなく、アメリカの大学の受験するためにだ。理樹には告白の件とは無関係だと言ったが、それは真実であり嘘だ。理樹が自分よりも幼馴染である鈴を選ぶことなど分かっていた。その上での本気の告白だった。まるで敗戦すると分かっていながら、戦地に赴く兵士のような気分だった。あれは自身の想いに区切りをつけるための儀式のようなもので、要するにけじめだった。元々、来ヶ谷はアメリカにいる両親から、寂しいので大学はこちらのを受けてくれと打診されていたのだ。が、もしも、受け入れられていたら、それこそどうしていたか分からなかった。

 受験を終え、日本に帰ってきてから、数週間後、前年と同じく皆で卒業旅行へ行った。
 卒業式で初めて、君が代や仰げば尊し、蛍の光と言った定番の曲を歌った。アメリカのフランクさのある卒業式とは違い、厳粛な雰囲気で送られるのも悪くなかった。
 来ヶ谷唯湖の高校時代は、確かに実りあるものだった。もし、自らの人生を振り返るその時が来れば、間違いなく高校時代が黄金期だったと思い返すことだろう。

「(何だ、つまらん。意外に思い出せるじゃないか)」

 リトルバスターズの皆と離れ、アメリカの大学に入ってからの記憶もちゃんとあった。
 久しぶりにあった母が髪を切っていたとか、在学中、父が盲腸の手術をしただとか、応用数学を専攻していただとか、大学院に進んだだとか、キム・マッスルマンと言う韓国人とアメリカ人のハーフに言い寄られてウンザリしていただとか、そういった雑事は思い出せるのに、肝心なここ数日のことは思い出せなかった。

 ――つまり、アメリカにいるはずの自分が、どうして日本にいるか、またどうやって来たのかが全く分からなかった。

 他に何か手かがりになるような物を持っているかと思ったが、どうやら手ぶらのようだった。あったのはポケットの中の財布とハンカチ、携帯電話ぐらいのものでパスポートすらなかった。

「(部分健忘というわけか……)」

 自らの状態をそう判断する。
 部分健忘とは期間内の記憶のうち、思い出せるものと思い出せないものが混在した状態のことを言う。続いて、来ヶ谷はまさかと思い、ペタペタと自分の頭を触った。頭に内出血……タンコブのような物も創傷もなかった。外傷性の健忘症ではないようだ。尤も、そんなモノがあれば、当然そちらに意識が向いて、暢気に記憶の確認などしてるわけがなかった。
 他に健忘症の要因と言えば、ストレスによる心因性やアルコール摂取過多による薬剤性などが上げられるが、どちらも身に覚えがない。ここ数日の記憶そのものがないのだから、信用に欠けるが、来ヶ谷はそうそうのストレスで参ってしまうような性格ではないし、酒も記憶が無くなるほど飲んだことがない。

「(もう何が何だか、訳が分からん……)」

 それが来ヶ谷の出した結論。十人が体験すれば、十人がそう言うだろう。
 目覚めてみるとそこは自分の住むアメリカでなく、日本の道路の真ん中で、しかも、立ったままの覚醒で、何故こんな所にと思ってみれば、ここ数日前の記憶がない。これはもう、実は数日前から夢遊病のまま、来日の準備をし、ほとんど手ぶらのまま飛行機に乗り、空港に着いてから当てもなく歩き、その途中パスポートを紛失し、名前も知らない町の往来で目を覚ました。そんな風にしか考えられない。
 あるいは強力無比な催眠をかけられたのかもしれない。アメリカで数日間も効力のある強い催眠を受け、来日して、この道路に来て、催眠を解かれた。しかも、その催眠は掛けた人物が特定できないよう、催眠前の記憶を失う健忘症を発症する後催眠がしかけられていた。これでも一応の来ヶ谷の状況の説明は付くが。

「(そんな荒唐無稽な説が罷り通れば……モルダーも踊り出すだろうよ)」

 そして、来ヶ谷は現在の状況に陥った要因について、考えるのを止めた。何分、情報が少な過ぎて、推測に推測を重ねる以外にしようがなかった。自らの状況と数日間の記憶の喪失に関しては、ひとまず置いておいて。

「せっかく日本来たのだし、久方ぶりに理樹君の顔でも見に行こうか」

 旧友に会いに行くことを決めた。
 まずは一報入れておこうと、ポケットの中から携帯電話を取り出す。が、電話帳を開き、理樹の名前を出して、ふと思い直す。これは国際電話になるのではないだろうかと。来ヶ谷の携帯電話はアメリカの大学に通う際、アメリカ製に買い換えられている。と言っても、幸い、来ヶ谷が利用する携帯会社がアメリカに進出していたため、電話番号もアドレスも変えずに済んだし、データもそのまま移植できた。それはいいが、この状態で日本にかけた場合、電波は一度アメリカの基地局へ飛び、更に日本の基地局を経由して、理樹の元に届くのではないだろうか。つまり、日本にいながら、日本の友人へは国際電話という意味不明な事態。日本にあるのもアメリカにあるのも同じ会社なのだから、国際電話に対するサービスぐらいあるのではないだろうかとも考える。しかし、そんなサービスがあったか来ヶ谷は覚えていなかった。

「……やめておこう」

 万が一のことを考えて、来ヶ谷は携帯電話を仕舞った。国際電話の通話料は馬鹿に出来ない。長電話せずに訪れる旨だけ伝えれば、それほどかからないかもしれないが……多分、してしまうだろう。旧友とはそういうものだ。そして、明細が届いた日に後悔するに違いない。さしずめ、ダイエット中にケーキを食してしまったように。来ヶ谷は断固たる決意の証として、携帯電話の電源を切った。元々、あまり私生活で使う主義でもない。
 それに突然、理樹の元を奇襲するのも面白そうだった。
 年に数回とは言え、幸いにも、大学にいる間もエアメールのやり取りはあった。鈴と結婚して新居を構えたらしい。住所は覚えている。その辺りの記憶の欠損はなかった。歩いていれば、道往く人の方言から地方は特定できるし、途中案内表でも見つけて、駅まで行けばもっと正確に分かるだろう。

 そして、来ヶ谷は冒頭に至るのだった。


   ◆  ◆  ◆


「(クーラー……アイスクリーム……)」

 せめてもの慰めに頭の中で冷たいものを想像していた時、虫取り網を担いだ少年が来ヶ谷を追い抜く。少年のもう片方の手には、ガリガリ君。一瞬だけ微量の冷気が頬を撫でた。

「(ガリガリ君……美味しそうだな。えぇい、もう何でもいい。とっとと私に冷気を寄こせファッキン今年の最高気温めが)」

 来ヶ谷は何処となく、自分が日射病になりつつあるのを認識していた。もはや、何に恨みをぶつけているのかさえ分からない。否、どうでもよかった。フラフラとメトロノームのように揺れつつ、オアシスを求めて歩く。頭が揺れる度、髪が体に纏わりついて、それが更にフラストレーションを招く。今すぐにも涼が無ければ、発作的に美容院に駆け込んで、丸刈りにしろと命じてしまいそうだった。
 しばらく歩いて、ようやく見つけたのは、コンビニなどと気の利いたものはなく、せいぜい古ぼけた自販機ぐらいだった。だが、それすら、今の来ヶ谷には天の御使いのように見えた。小走りで接近し、財布を取り出す。

「ぬぐぁぁ……」

 地を這うような声が漏れた。ガックリ自販機に片手を付きながら、絶望に頭を垂れる。財布の中には、ドル紙幣とセントしかなかった。それもそのはずだった。換金した覚えがない以上、アメリカに住んでいた来ヶ谷が持っているのは当然、ドル紙幣とセントだけだった。

「フフフ……」

 妖しいというよりも怪しいと言った方が正しい壊れた笑みを浮かべつつ、来ヶ谷は五〇セントと二五セントを入れていた。アメリカでは七五セントで一本の缶ジュースが買えるが、目の前の自販機は日本政府が発行した補助硬貨及び、千円札という日本銀行券以外は受け付けない。恐ろしく、食わず嫌いな機械だった。

 チャリンチャリン カランカラン
   チャリンチャリン カランカラン
     チャリンチャリン カランカラン

さっさとジュースを寄こせ、このポンコツがぁぁぁーっ!

 三回程無駄な動作を繰り返して、キレた。暑さは人を怒りっぽくさせる。来ヶ谷の前蹴りが炸裂し、自販機が激震する。ちゃっかり、ヒールが折れないよう足指の付け根辺りで蹴っている辺り、まだ僅かばかり理性は残っているようだった。不快指数が臨界に達した際の来ヶ谷の蹴りは、相撲取りのぶちかましに匹敵する。そんなものを喰らわされた自販機は必然的に異常をきたし、吐しゃ物をブチ撒けるように缶ジュースをガラガラと落とした。

「む……まずいことになってしまったな」

 缶ジュースでいっぱいになった取り出し口を見て、来ヶ谷のこめかみに今までとは違う種類の汗が流れた。このままでは明日の新聞の三面辺りを賑わしそうだった。『白昼の悲劇! 自販機破壊事件! 犯行動機は“ムシャクシャしてやった”』。犯行動機から非常に安っぽい女と見られそうで不愉快だったが、同時に真実でもあったので、否定できなかった。
 ミーンミーンとアブラゼミが天然の非常警報のように鳴り響いている。周りを見渡す。変哲のない道路で閑散としている。今のを聞いても出てくる人もいない。もしかすると近辺の人間は出かけているのかもしれなかった。

「……逃げるか」

 指紋がベッタリついた五〇セントと二五セントを回収し、来ヶ谷は持前の俊足で、風となってその場から消えた。




「私は一体何をやっているんだ……」

 壊した自販機から十分な距離まで遠のくと、己の奇行を顧みた。
 そして、缶ジュースの値段が一二〇円だったことを思い出す。そこにふと違和感を覚えた。確かリトルバスターズの誰かから貰ったエアメールで、日本もついに年金問題解決のために消費税を上げ、缶ジュース一本が一五〇円になったと聞いた覚えがある。来ヶ谷の記憶違いなのか、それとも、知らない内にまた消費税が下がったのだろうか。いや、そもそも、自動販売機の価格設定は消費税に反映されて、変動し易いだけだ。絶対的な相関関係ではない。来ヶ谷が学生の時分にも企業努力などで、きっかり一〇〇円の値段を維持していた自販機はあった。それこそ、最初の違和感。

 それが困惑に変わったのは、コンビニの中でのこと。

 田舎町とは言え、準都市化はそれなりに進んでいるらしく、車の走る方向へ足を進めると発見することが出来た。中にはいると、文字通り別世界だ。今まで掻いていた汗にクーラーの冷風が涼しい。来ヶ谷はそこで軽く涼んだ後、交番でも行って、現金を借りるつもりだった。警察では公衆接遇弁償費という制度があり、財布を落とした場合などに限って、原則一〇〇〇円以内なら大した申請もなく、現金で借りることができる。無論、返さなければならないが、今の来ヶ谷には願ってもない制度だ。そこで現金を調達して、電車で理樹たちの町へ行く算段を立てていた。または銀行などがあれば、直接自分の手持ちのドル紙幣を日本紙幣に換金することができる。見つけるのはこちらでも良い。

「(む、そう言えば……)」

 コンビニ内の案内表を見て、クレジットカードが使えることに気付く。確かアメリカと日本、双方使える国際クレジットカードが自分の財布に入っていたはずだ。ドル紙幣とセントしか持っていない来ヶ谷にも購入手段があるということだ。

「(アイスが……買えるっ!?)」

 静かなる感動だった。
 この年になってたかだか、これだけのことで感動するとは思ってもみなかった。先ほどの悔しさもあって、高級アイスとして名高いハーゲンダッツを購入しようと、楽しみに頬緩ませる来ヶ谷だったが、

「む?」

 すぐ傍にある新聞紙が目に入った。そう言えば、最近の日本のことは全く知らない。今が夏であることはこの暑さで分かるのだが、世情についてはさっぱり分からない。流石に日本の首相がまた変わったことぐらいはアメリカにいる時でも知ることはできたが、細やかなことは分からない。
 例えば、今店内で流れているJ−POPも誰の歌か知らないし、どんなギャグが流行ってるのかも知らない。来ヶ谷がそういうことにあまり興味がない人間であるのもあるが、外国で暮らしているとこういうミクロな部分が疎かになる。日本の缶ジュースが一五〇円になったなど数年前の記憶だった。最近はどんなことが話題になっているのかなと、ほんの少し知識欲が疼いて来ヶ谷は何気なく新聞を手に取る。

「これ、は……?」

 最初は誤植かと思った。次の新聞を見てみても、同じ間違いを犯していた。次も、その次も、そのまた次も、同じ間違いを犯していた。いや、これだけの誤植が続くなどありえない。となると、まさか、間違っているのは……。
 ざわり、と薄ら寒いものが背筋に走った。脊髄から四肢の末端まで、じわじわと悪寒が蛆虫のように這っていく。
 来ヶ谷が見ていたのは一面記事や見出しといった部分ではなかった。――日付だった。来ヶ谷は大学から大学院に上がっている。高校時代から、少なくとも四、五年は経過しているはずだった。にも、関わらず……。

「馬鹿な……」

 どの新聞の日付もそうなっていた。
 自分の身に起こった不可解な状態、缶ジュースの値段、新聞の日付、そこから浮かび上がった予想を……否、妄想を否定しようと、来ヶ谷は店内を早足で見て回った。週刊誌の発売日や弁当やパンの賞味期限、しかし、それらは新聞紙と同じことを訴えていた。ついにはカゴを下ろして、在庫の補充をしていたコンビニ店員に向かって尋ねてみた。

「すまない。今年は……西暦何年か分かるだろうか?」
「え、今年ですか? 確か……」

 そして、コンビニ店員は淡々と告げた。まるでそれが、極々当たり前であるかのように。

「――二〇〇一年だったと思いますが?」

 それは来ヶ谷の知る年号よりも、十年近くも前のモノだった。




 来ヶ谷は何も買わず、半ば茫然とした意識のまま、店の外へ出た。
 町を歩く。道往く人に老若男女問わず、年号聞いて回った。電気屋のショーウインドウのテレビや、配られたティッシュの広告にさえ知らされた。今年は二〇〇一年だと。

「どういうことなんだ……? これではまるで私が……」

 ――タイムスリップしたようじゃないか。
 その言葉だけは呑み込んだ。言葉にしてしまえば、この異常事態を認めてしまうような気がした。人類が時間移動の技術を得たなど聞いたことがない。あるわけがない。来ヶ谷がいた時代は、何も近未来というわけではない。高々、数年進んだだけの同じ現代だ。少なくとも、来ヶ谷が大学で読んだ論文でも、理論的に不可能だとも言われていた。だが、実際に自分はこうして、過去の世界にいる。町レベルで来ヶ谷を担いでいるということでもない限り、タイムスリップしたとしか考えられなかった。

 もし、仮にそれが真実だとしたら……非常に厄介なことである。

 最大の問題は、未来に帰る方法が分からないということだ。
 よもや、ネコ型ロボットを所有している小学生の机の引き出しから帰れるというわけでもないだろう。では、諦めてこの時代で生きるしかないのだろうかと考えて、来ヶ谷は即座にそれは勘弁して欲しいと願った。ふと昔見たSF映画を思い出す。その映画では、中世の時代にタイムスリップした主人公たちの仲間の一人が、その時代の女性と恋をして未来に帰らずに残るというシーンがあった。中世ならそれでも大して不都合はないかもしれない。しかし、来ヶ谷がいるのは現代であり、法治国家日本だ。

 この時代で生きると仮定して、そこで問題になるのが、戸籍がないということだ。
 それは、今の来ヶ谷は物質的には存在していても、法的には存在していないということだ。これは極めて恐ろしいことだ。法的に身元が保証されないということは、何らかの事件に巻き込まれて死亡しても、いないはずの人間が死んだという奇々怪々なことになり、事件にすらならない。いや、死んだ後など今は置いておこう。問題は生きるにあたって極めて不便になるということだ。戸籍が無い以上、当然住民票も無く、当座の住み家としてのアパートすら借りられない。また誰でも持っていそうな自動車普通免許なども取得できない。生活費を稼ぐため、アルバイトを始じめようと試みたとする。しかし、その場合、たとえ履歴書に真実を記したとしても、この時代に来ヶ谷が生きた歴史が公的に残っていない以上、全て詐称扱いだ。履歴詐称は別段、罪にならないが、社会的信用を失くし、クビにされることが大半だ。嘘吐きはどこでも嫌われる。たとえ、結果論として嘘吐きにならざるを得ないとしてもだ。もし、何か病院の世話になるような目に遭っても、国民健康保険の類もないわけで、治療費や通院費も目玉が飛び出そうな費用になることだろう。

 兎も角、法的なものが関わると、今の来ヶ谷には全て不利に働くというのが現状だ。
 それでも、この時代で生きていくというなら、人の情に頼るのが一番だが、ここには自分を知る者がどこにもいない。両親ですら、今の来ヶ谷が二人の娘であると信じてくれるか怪しい。……そもそも、アメリカに行って直接訴えようにも、パスポートすら取得できない。

「(嗚呼……いっそ、馬鹿に生まれたかった……)」

 現状認識すればするほど、気が沈んでいく。危機感は募る一方だった。


   ◆  ◆  ◆


 過去に来たからと言って、来ヶ谷に何か目的があるわけでもない。
 ただ只管に、歩くことこそ人の定めだと言わんばかりに、当て所なく町中を歩いていた。ふとそんな折、一枚の立て札を見つけた。最初、遠目からそれを見かけた時、嫌なことがあったものだという程度にしか、来ヶ谷は捉えていなかった。その看板には白と黒しか色が無かった。そこで大よその察しは付いたが、もっと近づいて、一際大きく書かれている『忌中』の字を見て、確実となった。またこの町の誰かが死んだのだ。赤の他人とは言え、そういったものを見かけていい気分になるものでもない。来ヶ谷は気の毒そうに一瞬だけ故人の冥福を祈った。

「――っ!」

 が、そこにある家名を見て、息をするのも忘れた。今日、告別式が執り行われる家は……『直枝』と書かれていた。
 直枝……そのキーワードで記憶から呼び起こされる人物は一人しかいない。リトルバスターズのメンバーであり、片想いの相手であり、初めて人を好きになるということを教えてくれた……直枝理樹しか。昔、いつだったか、彼の身の上話を聞いたことがある。

 ――まさか、という思いが再び来ヶ谷の胸中を駆け巡った。

 訳の分らぬ不安で右足、波打つ衝動で左足。カツカツと交互に繰り返される靴音は、アチェレランドだんだんと早くに奏でられ、いつしか来ヶ谷は猛然と走っていた。目指す場所は、告別式会場しかありえなかった。

 スタイル維持のためにアメリカではジムに通っていたが、ハイヒールで走ったのは初めてだった。何度も足をくじきそうになりながら、こけそうになりながら、来ヶ谷は走った。告別式会場に辿り着いた時には、息が上がっていた。膝に手を添え、肩で息をする。顔中に噴き出した汗が顎先に集まり、滴り落ちてアスファルトに黒い染みを二、三か所作る。もしも、来ヶ谷が化粧をしていれば、ファンデーションもマスカラも何もかも浮き上がって、硫酸をかけられたような容貌になっていたことだろう。シャツの方もぐっしょりと濡れていて、下手をすればブラジャーが浮き上がっているかもしれない。

 だが、今は見てくれや外聞を気にしている場合ではなかった。最低限、気にかけるべき服装は偶然にして黒。ただ単に来ヶ谷が黒系統の色を嗜好してるだけで、このために選んだわけではないが、これは不幸中の幸いだった。
 顔の汗をハンカチで拭くと鼓動が治まるのもそこそこに、来ヶ谷は緑のトゲ付きマットを踏む。自動ドアが開き、中へ入る。相変わらず、冷気が迎えてくれるが、葬儀用ホールに入って急に肌寒く感じるのはあまりいい気分ではなかった。丁度、頭を下げ合っている喪主とその弔問客の姿が目に入る。どうやら、時間には間に合ったらしい。
 来ヶ谷は何食わぬ顔で喪主と思しき男性に歩み寄り、頭を下げる。

「この度はご愁傷様でございます。焼香をあげさせて頂きたく、伺いました」
「どうも、本日はお忙しいところをお越し下さいまして、誠に有難うございます。あの、ところで……樹の関係者の方でしょうか? それとも、理恵さんの?」

 運の良いことに向こうから、今日送られる人物の名前を言ってくれた。名前からして男女らしい。共に送られる男女。夫婦でしかありえない。そして、直枝の名字……もはや、来ヶ谷の予想は覆し用ないほど固まりつつあった。

「私は理恵さんと中学の時に懇意にさせて頂いていた者で……あぁ、そうだ。まず、他に詫びねばならないことがございまして、実は訃報も知人から又聞きする形で知り、慌ててアメリカから帰国したのですが……」
「ア、アメリカから!? それはそれはどうも、本当に遠くからよくお越し下さいました」
「いえ、そんな。それで、なのですが……一刻も早く駆け付けることだけを考えていて、香典の準備をすっかり失念しておりまして。財布の中もこのような有様なのです」

 来ヶ谷は財布の中からドル紙幣を数枚を見せる。
 無論、この話は嘘なのだが、話だけでなく、実際目に見える形で示される異国の姿は十分な説得力を与えていた。

「失礼ながら、香典は後日、郵送という形を取らせて頂いても結構でしょうか?」
「あ、いえいえ、来て頂いただけで十分です。理恵さんもきっと喜ぶことでしょう。どうぞ中へお入り下さい」

 こうして、来ヶ谷は大して身分も、氏名すら明かさず、式場の中へと潜り込むことに成功した。




 中に入れば、すぐさま自らの疑念が解消されると思ったが、そうはならなかった。
 最前には生花に飾られる祭壇があり、椅子は全てその祭壇の方を向いていた。席は6席でワンセット。それが左右に分かれていて並んでいる。まるで群れが真っ二つに分かれたか、分隊が二つあるようだ。その二つの群れの真ん中は通路となっていた。後発の参列者である来ヶ谷は後方に座らざるを得なかった。見えるのは参列者の黒い頭ばかりで、他の参列者の顔は同列の者以外、見ることができなかった。それでも、参列者の僅かなざわめきや視線などを注意深く観察し、推測していった。こと、儀式において人間の座る位置はその者の身分を示すことが多い。どうやら、祭壇に向かって右側に座っているのが遺族や親族、近親者といった血族に当たるようで、左側に座っているのが友人や会社の同僚といった故人そのものと縁のあった人物に当たるようだ。来ヶ谷が最も気になる遺族の席は最前列であり、対角線上にあって窺うことはできなかった。

 やがて、告別式が開始された。
 僧侶が入場し、喪主より告別式開式の辞が述べられ、読経。木魚と読経が流れている中、まずは僧侶が焼香を上げ、喪主、遺族がそれに続く。そして、次に一般会葬者の焼香が始まり、来ヶ谷は静かに椅子から腰を上げた。胸中をありのままに言えば、来ヶ谷に故人を弔おうとする意識は希薄だった。気の毒だとは思っていたが、それ以上に自らの疑念を解消したいという願望から、告別式に参加したのだ。

 列席の横に出て、他の参列者に尾いて、部屋の後ろに回る。
 真ん中の通路を歩き、祭壇の前へ向かい、焼香を上げたら、遺族の席の前を横切るようにUターンし、部屋の後方を回って席へ戻る。それが参列者の歩くルートのようだった。どことなく卒業証書を授与される時の並び方に似ている。遺族は祭壇の右側に並び、焼香を終えた参列者が礼をする度に頭を下げている。これは来ヶ谷にとって都合が良かった。焼香の順番が近づけば、自然と肉眼で遺族を確認することができる。

 一人、また一人と焼香を終え、来ヶ谷の番が近づいてくる。
 来ヶ谷は静まったはずの鼓動が再び高鳴ってきていることに気がついた。その感覚はあの時と同じだった。日が暮れた放課後に彼を呼び出し、待っていたあの時と同じ。心は落ち着いているはずなのに、胸の鼓動だけは静まらなかった。やがて、来ヶ谷の番となり、焼香を終える。そして、遺族の前で一礼して、顔を上げる。

 来ヶ谷は己の状況を理解はしていたが、信じてはいなかった。
 どれだけ状況証拠を見せつけられようと、心の奥底では、超常現象や心霊現象を取り扱う番組を見た時のような……『リアリティがあるな本当っぽいな』という気持ちがあった。しかし、そこに至って、ようやく来ヶ谷は認めた。

 ――ああ、私は本当に過去に来てしまったのだな……と。

 そこには確かに彼が――直枝理樹がいた。余所行き用の仕立ての良さそうな黒の衣服に身を包み、虚ろな瞳で立っているその少年には、来ヶ谷が恋した人の面影が強くあった。




 告別式が終了次第、故人は出棺され、火葬場へ移されるのが一般的だが、この葬儀場は火葬場も付設されているため、車での移動はなかった。火葬まで付き合うのは親しい血族までで、外からの参列者は告別式が終われば帰るべきだったが、来ヶ谷は残っていた。どうしても訪ねたいことがあったのだ。火葬が行われている間、遺族の控え室の前で玄関口であった喪主を待ち、部屋から出てきた所を訪ねた。
 あの遺族の少年、理樹の処遇はどうなるのか、と。葬儀の最中にあまりこういう話をするのは、マナー違反であると分かってはいたが、尋ねずにはいられなかった。幸い、喪主にして理樹の伯父である直枝みきは教えてくれた。

「一応、私の家で引き取ることになっております」
「一応……とはどういう意味で? 決定しているのでは?」
「はぁ、それが……このことは私の独断で、まだ妻には話しておらんのです。その……家の恥を晒すようでお恥ずかしい限りなのですが、樹と理恵さんの生命保険で入ってくる金額が葬儀代を差し引いても、合わせて四五〇〇万ほどになりまして、通夜の席で誰があの子を引き取るかで揉めたのです」

 子供の理樹に四五〇〇万もの金額を扱えるわけがない。となれば、当然、引き取った者が管理することになる。言ってみれば、子供一人の面倒を見るだけで四五〇〇万が転がり込んでくるということだ。欲に目がくらむ者が現れても、しょうがない金額だった。

「初めは私も引き取るつもりはなかったんです。子供も二人、既におりますし、厄介なことになるだけだと思って。ですが、そんな骨肉争いを見ていて、その……段々不愉快になってきまして。一応、理樹君のことは生まれた時から知ってますし、弟の子ですから。それで、その場で私が引き取ると言ってしまったんです。わざわざ、後見人になるだけで、保険金には一切手を付けないという宣誓書じみた物まで書いて。まぁ、これは書かされたと言った方が正しいんですが。私としては理樹君を引き取っても構わないのですが、妻が何というか……。実際、彼の世話の大部分は妻がするわけですし、子供たちもいきなり、親の違う子と同居して戸惑わないか心配ですし……」

 直枝幹はため息とともに肩を落とした。部外者の来ヶ谷に簡単にお家事情を話す辺り、誰かに愚痴を聞いて貰いたかったのかもしれない。そんな彼に来ヶ谷は一つ提案をした。


「――もしよろしければ、私を雇う気はございませんか?」


 来ヶ谷の申し出に直枝幹は素っ頓狂な顔をした。

「つまりはこうです。何も無理に貴方の家にあの子を住まわせるのではなく、元々の家に彼を住まわせたままにする。家や土地の権利書は貴方が管理すればいいでしょう。そして、私が彼の……理樹君の実質的な面倒を見る。こうすれば、面倒な転校の手続きもせずに済みますし、貴方の家庭に人間関係のトラブルを持ち込むこともない。いかがです?」
「いや……それは確かに私にとって有難い申し出ですが、貴方はそれで構わないのですか?」
「実はこんな申し出をするのも、現在職探しの最中でして。私もアメリカで働いていたのですが、上司のセクハラが嫌になって辞めてしまったのです。先ほどは婉曲えんきょくに取り繕って言いましたが、有体に言えば、住み込みで家政婦をさせてくれということです」

 それは来ヶ谷にとって、有意義な手段だった。
 この世界から未来に帰る方法が分からない来ヶ谷には、当座の住み家や食事等々が必要なわけだが、住み込みならばその心配はなくなるし、何よりあんな状態の理樹を見て見ぬフリなどできなかった。何とかしてやりたいと来ヶ谷は考えていた。何ができるか全く分からないが、とりあえず、赤ん坊を見るわけでもあるまいし、一人暮らしの経験を活かせば、生活の面倒ぐらいは見てやれる。
 直枝幹はしばらく、目を泳がせて逡巡していた。面識の無い来ヶ谷に甥を任せることへの不安と、家族にトラブルを持ち込むことのリスクで心が揺れているのだろう。しかし、やがて決意をして。

「では……そのぉ、お願いできますでしょうか?」

 来ヶ谷にとって色よい返答をした。



ふと、来ヶ谷は思った。

もしかすると、自分はこのために過去へ来てしまったのではないだろうか。

一瞬だけ――使命のようなものを感じた。



To be continued...



続きも見ておく。    別のも見る。






 ぴえろの後書き

 小学校の運動会、徒競走に必ずのっそのっそカメのように足の遅い子がいますよね。

 あ、すみません。それSS界での自分のことです。m(_ _)m

 姐御の祭りから何か月経ってんだよ……神主あんぱんさん、本当に申し訳ない。ゴメンネ。゚(゚´Д`゚)゜。ゴメンネ 久々の三人称で書いた自分が違和感アリ。うーむ、展開が駆け足な感じがするのは否めないなぁ。まぁ、これはこれで内容ギッチリ詰まってるような感じがして、嫌いではありませんが。オリキャラ、直枝幹は原作での理樹の後見人のポジションですが、冷たいとは言わずとも、余所余所しくしております。原作で後見人の話出たのって鈴シナリオしか無いですし、多分、そんな親しい関係じゃ無いんでしょう。前編で後書きってのも変な話なので、これで。
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