寮母って仕事は大変だ。
朝から色々やることも多い。何で朝練する奴等のためにこっちも早起きしなきゃならんのか。
それに男子寮の男どもは何か小学生みたいな連中ばっかりでさ。
行くなって言ってるのに女子寮覗きに行く奴、グリンピース残す奴、痔の相談してくる奴……もうそんな奴ばっか。
ホント、手間がかかるったら、ありゃしない。
何度、辞めようかな……と邪念が過ぎったか、分からないわねぇ。でも、結局、今も辞めずに続けてるんだけど。
一年目は仕事を覚えるので必死で、二年目は前年度の反省を反映させて、三年目は……ちょっと感動した。
お礼言われたのよね、卒業して寮を出てく男子連中から。
部単位で何人か纏めてだったり、プレゼントまで用意する奴もいた。
ああ、そういや、伽藍と片付けられた部屋に一通、置き手紙するような奴もいた。
……照れ臭かったのか、カッコつけたかったのか、良く分からなかったっけ。
騒がしい連中が少なくなったその日の夜、ちょっとホロっとすることもあったわねぇ。
でも、先輩の騒がしさは見事に後輩に継承されていて、次の日からはやっぱりヒーコラする羽目になるのよね。
まぁ、そんな忙しい毎日だからさ……ホント仕方がないわよね。
25歳過ぎて、化粧台で毎日、目元口元にシミとか小皺が無いか、ビクビクするになっちゃったし。
あたしの日常が滞ったら、生活できない連中がいるから……この寮には何の変化も起こっていない。
――たかだか猫が一匹死んでもさ。
……って言っても、本当にそうなったのかは今でも分かってない。
ただほら、猫って自分の死体を飼い主に見せないって云うじゃない?
そんな感じにフラっと居なくなって、それっきり姿見なくなったのよ。もう一ヶ月くらいかしら?
飼い猫って言ったけどさ。
そもそも、その猫自体、別にあたしが飼っていた猫ってわけじゃないのよねぇ。
ただねぇ。あたしに妙に懐いてきてたし、ほっとくのも気が引けたから、何となく部屋に住まわせてたのよ。
いつでも、いなくなってもいいと思ってた。あたし猫好きじゃないし。だから、名前なんかもつけなかった。
未だに雑種なのか、それとも結構立派な虎柄してたから血統種だったのかさえも知らない。
あたしにとっては、あの猫はその程度の存在のはずだった。
でも、いなくなるとそれはそれで寂しく思う。それは何気ない日常の、ふとした瞬間に襲ってくるものなのよ。
デパートで買い物する時、カートの中に考えもせずにキャットフードを入れた瞬間とか。
男子寮で食事の準備してて、当然のように、ついでにペット用の食器出した時とか。
街角で路地に消えた尻尾を目の端で捉えて、追ってみても、全然違う猫だったりした時とかさ……。
多分、男の子が家を離れて一人住まい始めた母親ってこんな気分なのかもしれない。
いや、あたし母親じゃないから、ホントの所は分かんないんだけどさ。
もう、母親にはなれないだろうから、一生分からないんだろうけどさ。
……まぁ、そんな感じなのよ。あの猫がいなくなってからのあたしは。
今にして思えば、奇妙な猫だった。
飼ってるわけじゃないけど、同じ部屋に住まわせるんだから、それなりに必要な物とかも揃えてた。
でも、あの猫はほとんどそういう物は使わなかった。本当に不思議なくらい使わなかった。
猫砂の入ったトイレ容器も使ってる姿を見たことがなかった。便秘の心配したけど、いつもフンは外の茂みにあった。
柱引っ掻かれたら困るから、爪とぎをガードする物とか張ってたけど、引っ掻かれた試しも無い。
その癖、爪が異常に伸びてることもなかった。英語の福島先生曰く、校門前の坂道にある桜の木で研いでる姿を見たらしい。
せいぜい迷惑だったのは、よくベッドに潜り込んで来るから、マメにベッドの上を掃除機掛けないとダメなことぐらいだった。
もしかしたら、あたしが毎日溜め息吐いてるから、気を使って世話にならないようにしてたのだろうか。
だとしたら、猫の癖に随分と生意気な仔だと思う。あ、仔じゃないか。
あたしと初めて会ったときにはもう仔猫じゃなかったし……もしかして、あの猫、お爺ちゃんだったのかねぇ?
そう思うと手間が掛からなかったあの猫が、孫の世話になるのが嫌で一人暮らししてる頑固お爺ちゃんみたいに思えてきた。
そして、寮の男子たちが学校に行った後の昼休みのこと。
猫と遊ぶ時間がワイドショーを見る時間に置き換わりつつある頃。
一通の手紙があたしの元に舞い込んだ。それは……近々同窓会を開くことを知らせる手紙だった。
恋は遠い日の花火のようなものだね
written by ぴえろ
同窓会の開催日付は、8月中旬。
丁度夏休みに入って、寮の生徒も帰宅する者がいたりいなかったりする頃だった。
あたしは居残った連中の夕食を作った後、何かあったら女子寮の寮母さんに言いなさいと言い聞かせて、寮を出た。
普段をジーパン、ワイシャツ、エプロンという色気皆無な姿で過ごしてるから、スーツ何か着てたら、酷く勘ぐられた。
曰く『男!? 男と会うのっ!?』とか、『し、しどい! 俺達のことは遊びだったんだぁぁ!』とか……。
自分が面倒見てる寮生だから、こんなこと言いたかないんだけどさ……正直、あいつらアホよね。
でもま、確かにスーツなんて久し振りよねぇ。短大時代の就活以来じゃないかしら?
メイクも余所行きだから、普段よかちょっぴり濃いし……女子高生の時はスッピンだったけど。
――ホント……年取ったね、あたし。
同窓会は屋形船で行うらしい。
あたしは、駅で電車に乗って、お尻触ってきた痴漢をチョークかけて駅員に突き出し、バスに乗って、乗船場へ。
『Ferry Ticket』と掲げられた看板を潜り、受付を済まし、中に入る。
屋形船はもう来ていた。茜色に輝く水の上にぽつんと浮かんでいる。
屋形船って、言葉の響きから古い和風な造りを想像してたけど、結構洋風だった。
何十人も乗船できるように細長く改造したクルーザーみたいだ。
屋形船は、屋上に上がれるみたいで、テラス仕様のデッキになってた。ビアガーデンに近い感じ。
流石、一万近く接収されただけはある。ま、皆とっくに社会人だからこれくらい大丈夫だけどさ。
大学生の時の同窓会は居酒屋だったのにね。……何だか、歳月ってのを感じちゃうわねぇ。
桟橋まで続く、緩やかなスロープを歩いてく。
時計を見ると時刻は18時37分。集合時間は19時00分だから、結構早く来てしまったみたいだ。
その船までの途中、いきなり背中にドンっという衝撃が走る。
実際、もし通り魔に刺されたら、こんなあっさりした感じなんだろう。ああ、あたしって今凄く冷静だ。
そりゃそうか。こんなことする奴に心当たりが……というか、正しくは『奴ら』だ。
もう、あいつらしかいない。同窓会というイベントで会わないわけがない。想定の範囲内だ。
「やっほーっ、美佐枝ーっ! 久し振りぃーっ!」
「相変わらず、デカ乳してるぅ〜?」
「えぇい、もう! どんな挨拶だっ!」
後ろから胸を揉んでくる女を振り払う。高校時代からの腐れ縁……サキとユキだった。
◆ ◆ ◆
船内は洋風な見かけとは裏腹に、内装は純和風だった。
入った瞬間、畳の……井草の匂いがプンと鼻についた。この匂いで、安らぎを覚えるのはあたしが日本人だからだろう。
「へぇ、あたし屋形船って初めてだけど、結構広いんだぁ」
ユキが感嘆の声を漏らす。
あたしたちは固まって座ることにし、適当な位置に着いて、座布団をお尻に敷いた。
襖、障子、提灯、長机、煎餅入りのお茶請け……何だか、和食の小料理屋か旅館みたいな感じだった。
雰囲気に欠けるのはエアコンと、真正面にあるカラオケボックスぐらいだ。
「ねぇ、美佐枝、知ってる? この屋形船、花火見れるらしいんだって」
「へーそうなの? あ、そっか。だから、集合時間、夜なんだ」
「うん、町の夜景と相まって景観サイコーなんだって」
何処通るかなんて気にも留めてなかったけど、ちょっと楽しみだ。
今、夏だし。花火する機会なんて帰ったら、きっと無いだろうから、ここで見ておこうと思った。
「あのさ、障子開けてもいい?」
サキが立ち上がって、障子に手を掛ける。
「あ、いいよー」
「まだ出てもいないんだから、酔わないでよね」
「……いえ、水に浮かんでるって想像しただけで、若干そんな気分になってきた。酔い止め飲んできたんだけどね」
よく手入れされているのか、サーっトンっ、と小気味いい音を立てて、障子が開く。西日が差し込んで眩しかった。
実の所、サキは酔い易い体質なんだよね。
修学旅行とか、バスの座席でエチケット袋を片手に、胸が反り返らんばかりに背筋を伸ばしていた。
何でも、『姿勢が崩れると酔うの……』とのことだった。
皆がギャースカとバスでトランプやってる頃、サキ一人まるで切腹をする武士のような雰囲気を放っていた。
「あれ? 清美来てるのに、真知子いないわね? 何で?」
あの二人、いつも一緒に居たと思うんだけど?
「あー、あたし連絡あったよぉ。真知子、子育てに忙しくて今回無理なんだってぇ」
「けっ、何だ。幸せ自慢ですかこのヤロー。赤ちゃんに吸われまくって、乳しぼめ!」
「サキ、それは言い過ぎ」
流石に口が過ぎてるから、嗜めた。
子育てには子育ての苦労があるんだろうけど、赤ちゃん=幸せという図式ができちゃうあたり、未婚女性の悲しい性よねぇ。
けど、真知子が特別じゃなく、未だ独身のあたしたちの方が特殊なんだろう。
この中の何人かは既に家庭を持ってるし、今日、子供を預けて来てる人だっていた。
そうやって、暫く、あたしたちは自分達の近況や愚痴やら、他愛の無い雑談を楽しんでいた。
「あれ? 何だ、まだあんまり来てないじゃん」
男の声がした。
あたしたち三人の視線が船内の入口に集まる。
「あぁーっ! 五十嵐くんだぁ! やっほーっ!」
ユキが喜色満面な笑みを浮かべ、手を振る。
あたしたちに気付いた五十嵐くんが、手を上げながら、歩み寄ってくる。
「よっ、久し振りじゃん。何年ぶりだっけ?」
どっこらしょっと……とかえらくオッサン臭い言葉を漏らしながら、五十嵐くんは胡坐をかいた。
「前会った時は大学2年生だったから……9年、10年ってトコかしら?」
「そっかそっか。え、ってことは何? お前等、もう三十路入ってんの?」
久し振りに会った女友達にいきなり、三十路言うか、普通?
「いんや、まだだよ。ギリギリ崖っぷちの29歳なのだぁ」
ユキが茶化すように言った。サキはお茶を啜って聞いてないフリしてた。
二人とも言われることを予想してたみたいな反応だった。
まぁ、五十嵐くんは昔から、歯に物を着せぬというか、露骨主義というか、こーゆー無神経なトコあったし。
必ずしも、それはいつもマイナスに働くってわけでもない。
高校時代、あたしが生徒会長やってて、『全校生徒無遅刻無欠席ウィーク』を達成した時のことだ。
当時、不登校だったクラスメートが一人いた。
別にそんなに達成に意気込んでたわけじゃないけど、やっぱり気になっていた。けど、結構ヘビーな問題だ。
あたしはおろか先生だって、手をこまねいていた時、助けてくれたのが五十嵐くんの無神経さだった。
話を聞いた五十嵐くんは、その日の内にそのクラスメートの家に行き、部屋に踏み込んだんだそうだ。
そして、次の日からその子はまた登校し始めた。そして、『全校生徒無遅刻無欠席ウィーク』は達成された。
「何したの?」って聞いたら、「いや、何か悩んでたから相談乗っただけだけど?」と五十嵐くんは言ってた。
それで女子のお株を上げたが、値上がりを知らないまま、五十嵐くんは卒業。無神経ここに極まるって感じね。
「あたしらは年取ったけど、五十嵐くんは相変わらず、カッコイイわねぇ……」
確かに五十嵐くんは他の男子……もとい、男たちに比べたら年食ってない気がする。
若干髪が薄くなったり、太った人間が多い中、五十嵐くんは高校時代のまんま抜け出してるような感じがした。
ジーパン、Tシャツに上着っていうラフな格好してるのもあるんだろうけど、同窓会すると必ず一人ぐらいこんなのがいる。
「んなコトねぇよ。服着てるから分からないだろうけど、腹とかヤバイぞ? もう若くねぇって自分で分かるよ」
服の上から、左手で横っ腹を掴む。
あんまり掴めてないような気がするけど、きっと往来のボディと比べたら、太ったのだろう。
その時、左手見て、気づいたんだけど……。
「あれ? 五十嵐くん、結婚したの?」
五十嵐くんの左手の薬指には、銀色に光る指輪があった。
「ん? あぁ、一年くらい前に結婚したよ? 言わなかったっけ?」
「えぇ!? 知らなかったんだけど!? つか、あたしら、結婚式呼ばれてないんだけどっ!?」
「何で呼んでくれなかったのぉ〜っ!? 呼んでくれたら、あたしとサキと美佐枝で『てんとう虫のサンバ』熱唱してあげたのにっ!」
いや、あたしは、ごめん被りたいんだけど……。
知らされなかったってのは、ちょっとショックだ。学生時代、結構仲良かったし。
「いや、実はその……何つーかさ。まだやってないんだよ、結婚式」
「え、そーなの?」
「あぁ。ま、別にさ。俺は派手なのじゃなくても良かったんだけど。女にとっちゃ、結婚って重要じゃん?
で、カミさんが『洋式と和式どっちもやる!』って言って聞かなくて……未だ資金不足」
トホホとマンガみたいな声出しながら、五十嵐くんはカクンと首を折った。
「あぁ、でも奥さんの気持ち、分かる気がするなぁ。一生に一度だもんね、結婚式」
「世には離婚して結局何回も結婚する女がいるらしいけどねぇ……羨ましいわ」
サキとユキは羨ましそうだったけど、あたしはそうでもなかった。……今のままで良いと思う。
あの寮に居て、男子生徒の世話焼いて、馬鹿やったら、コラーって追い掛け回す。そんな生活で良いと思う。
この辺からして、既に普通の独身女性の感性とはズレてると思うと、ちょっと悲しい。
「ねぇねぇ、五十嵐くぅん。そんなワガママな女とはバイバイして、あたしと再婚しましょ♪
あたし、五十嵐くんと一緒になれるなら、それだけで十分。式なんて挙げなくてもいいわ」
「いいえ、五十嵐くんと結ばれるのはあたしよ、ユキ!
あたしを選びなさい、五十嵐くん! 結婚資金なんて、あたしが全部面倒見たげるから!」
「何を急にワケ分からんこと言ってんだ、お前ら!? 何で離婚前提で話が進んでるんだっ!?
つーか、二人とも、腕を抱くな! 胸を当てるな! 耳に息を吹きかけるなぁぁぁーっ!」
五十嵐くんはサキとユキにサンドイッチされていた。
可哀想ね、五十嵐くん。あたしには分かった。今日一日、おもちゃにされるであろう五十嵐くんの未来が……。
でも、助けない。何故なら、あたしが守られるから。ゴメンね、五十嵐くん。貴方の尊い犠牲は忘れないわ。
◆ ◆ ◆
薄っすらと夜の帳が降り始めた頃には、懐かしい顔ぶりがぞろぞろと揃い出していた。
そして、19時00分。ぱらぱらと雑談していたが、漸く、本格的に同窓会が開かれた。と同時に出航。
幹事の挨拶やら、担任だった先生の挨拶、色々前段階はあるものの、やはりそこは旧知の仲。
手短に切り上げ、幹事が乾杯の音頭を取り始める。
「え〜、それでは、再会を記念して……乾ぁぁ〜杯っ!」
「「「「「乾ぁぁ〜杯っ!」」」」」
文字通り打てば響く、凛としたガラス音がそこら構わず、キンキンと鳴った。
「「「「乾ぁぁ〜杯っ!」」」」
あたしとサキとユキ、そして、五十嵐くんも例に漏れず、お互いのコップを合わせていた。
サキとユキはビールだけど、五十嵐くんはウーロン茶だった。下戸で飲めないらしい。
「なぁ、相楽……お前いきなりそれ?」
「そうだけど? ダメかしら?」
「いや、どうぞ。お好きなように……」
ちなみにあたしはウィスキーだった。勿論、水で割ってるわよ。ちょっとだけね。
あたしは一口呷ると、料理に箸を伸ばした。
天ぷら、刺身盛合わせ、大海老塩やき、枝豆、鍋、みそ汁、お新香、お寿司、デザート。
全部、大人数のために盛大に用意した酒のつまみって感じ。下手な定食よりボリュームがある。
栄養バランスが悪いなぁ……とか考えたけど、これってもしかして、寮母の職業病なのかねぇ?
平らげられないと思うけど……まぁ、ウチは地方からの体育会系も結構いたからね。残飯処理は任せるとしよう。
酒が入るとその人の真の姿があらわれるのか、三十分もすると、誰が何上戸なのか分かってくる。
あたしは強い方らしく、皆の様子を観察しながら、お酒と料理を楽しんでいた。
「あいつ、飲むとあんな風になるのか」とか思いながら、予め、隔離していたマグロを口に入れる。
サキとユキは飲む前とあんまし変わらない。ベクトル的にはね。
ただいつもが笑い上戸みたいなモンだから、余計に調子に乗って、ゲラゲラと笑い出す。
……とてもじゃないが、嫁入り前の女の笑い方じゃない。
あぁ、そう言えばと、五十嵐くんは思い出したように口にした。
「相楽って、付き合ってた男いたよな?」
「え?」
一瞬、身を強張らせてしまった。掴んでいたトロが箸から零れ落ちる。
「ほら、いっつも校門前にいた、何かナヨっとした奴。あいつとはどうなったの? もしかして別れ――」
ゴトっ!
突然、五十嵐くんの言葉を遮るように、ビール瓶が倒れた。
「――うぉっ!?」 ビールがっ!
口からボトボト黄色い液体と白い泡が零れだして、五十嵐くんは身を引いた。
「あっ! ごめん、ビール零しちゃった」
肘で倒したのはサキだった。
「ったく、気をつけてくれよ。あ〜ぁ、ズボン汚れちまったよ」
「いやぁ、ホントごめんねぇ〜。ほら、優しく拭いてあ・げ・る・か・ら♪」
「って、オイ! 何、布巾で拭こうとしてんだ!? 股間だぞ!?」
「よいではないか、よいではないか。五十嵐くん、今夜あたり、あたしとしっぽり不倫しましょ♪」
「お前、相当酔ってるだろ!?」
「っんだよ。いいだろ? 未だ独身のクラスメートへの慰めだと思って、ラブホに連れ込んでくれ。最近、抱き枕じゃ満足できねーんだ」
「うわっ、絡み上戸の上に男言葉かよ。目ぇ据わってるじゃん!」
しな垂れかかってくるサキの頭を五十嵐くんは突き放そうとするが、今度はその手を取られる。
見事なくらい、酔っ払いとそれに迷惑する連れの図だった。
サキとユキとは、今でも時たま会うけど、他人から見てるとあんな風なのか、あたしゃ。
サキの酔いやすい体質は乗り物に限らず、お酒にだって適用される。ホント、性質が悪い。
「フフ、五十嵐くん。サキの酒癖の悪さをハンパないわよ? 今までこれで、星の数ほど男にフラれてきてるんだからね!」
「いやんもう、ユキ♪ そんな褒めても何も出ないわよ♪ ……ゲロは出るけどね。ヴェロヴェロボェェェ」
「イヤぁぁぁーっ、俺のジーパンがぁぁぁーっ! ゲロとビールでえらいことにっ!? 何か生暖けぇぇぇっ!」
「あらら、本当に出ちゃったか。ついに五十嵐くんも刻まれるのねぇ、サキの『星の数ほどフラれたゲロの思い出』に」
どんなメモリーだ。そんな言い方、初耳よ。
まぁ、サキ。飲むといつも吐いちゃうからなぁ……弱い癖に飲ん兵衛なのよねぇ。
やめときなさいって言ってるのに、いつも、「もう飲んで、吐くことに快感覚えちゃってるから♪」とか言ってるし。
親友だから、こんなこと言いたかないけど、サキもアホだなと思う。
見た目良いし、スタイル良いし、家事炊事できるし、性格だって悪かぁないのに、結局それで、婚期逃してるから。
それにしても、さっきサキがビールを零したのは、天然だったのか、それとも……。その疑問はユキのおかげで氷解した。
五十嵐くんが、屋形船に備えてあった浴衣に着替え、また思い出話をし始めた時のことだった。
「そういや、創立者祭ん時、覚えてるか? あの時の相楽、スゴかったよなぁ。
あの、ホラ誰だっけ? マジでプロミュージシャンになった先輩いたじゃん?」
「え〜と、芳野……ナントカって先輩?」
「そうそう、その芳野先輩。また創立者祭ん時に軽音部乗っ取ってさぁ。
今度はエスカレートして、スピーカーでギターギュンギュン響かせて、校門で大熱唱してたじゃん?」
「あぁ〜、あんまり五月蝿いんで一般の人たちから抗議出そうになった奴ね」
「そうそう。それで相楽、その先輩にドロップキック喰らわしたんだよなぁ。
『俺の歌を聴けぇ!』って叫ぶ芳野先輩に『アンタはあたしの話を聴けぇ!』って言ってさ」
「あぁ〜、そんなこともあったかしらねぇ」
「もうアレ、コントに近かったよな。でもさ、相楽の蹴り。何かやたら怒り篭ってなかったか? 何か嫌なことでも――」
「あ、これ美味しそ。頂きまぁす♪」
ジュゥゥっ!
「――熱っ!?」
五十嵐くんの指が鍋の中に突っ込まれていた。手首を掴んでいるのはユキだった。
「何すんだよっ!?」
「あぁ〜ごめんねぇ〜。酔っ払って、五十嵐くんの指。箸と間違えちゃった」
「どんな間違いだよっ!? 有り得ねぇだろ!?」
「だから、謝ってるじゃなぁい。ほぉれ、指舐めたげるからさ♪」
チュッ チュッパ チュ〜♪
「吸ってるじゃん!? 舐めてないじゃん!? つか、さっきから何一つ頼んでないじゃん、俺!」
「ふぁぁ、ふぁひのはひがひひへへてひゅいいふぁんひ♪(ああ、ダシの味が染みてて良い感じ♪)」
「た、助けてくれ相楽っ! こいつの吸引力、ダイソンの掃除機よか凄ぇ! 目詰まり無しだ!」
あたしは親指を立てた握り拳を力強く作り……。
「五十嵐くん……自己防衛ガンバって」
晴れやかな笑みを浮かべた。ごめんね、これがあたしの精一杯。
「えぇい、五十嵐くん! さっきからノリの悪いぞぅ! おらおら、飲ませたれ飲ませたれぇ〜!」
「ちょっ! おまっ! 俺、下戸だって!」
一升瓶をガッシリ掴んで迫るサキに、五十嵐くんはへたり込んだまま後退る。
フルフルと手の平を開いて、ムリムリジェスチャーしてるけど、サキの座った目には入ってないらしい。
「とぅ! どうだ、この羽交い絞めは!」
「うぉっ!? ユキ、てめっ――」
無駄に良い連携に五十嵐くんが捕獲される。
「今だ! 隙ありぃぃぃっ!」
「うぉぉおおおぉぉ――ガボボベハボベベッ!」
無理やり五十嵐くんの顎に一升瓶を突っ込むサキ。
万有引力の法則に従って、アルコールが五十嵐くんの体内に注入される。
「へへ、おらおら、たっぷり掻き回してやるぜ」
逐一、サキの発言がえっちぃのは何とかならないだろうか? ……いや、経験則から言って、どうにもならないわね。
サキが突っ込んだ手で一升瓶を回すと、中身が何だか渦巻きを起こし始める。
お風呂の栓を抜いた時の最後みたいだ。あれやると確か早く中身が無くなるのよね。
しかしまぁ、そんな早く飲める人類なんていない。五十嵐くんの口から酒が溢れるのは必然だった。
「……ぅ……ぁぁ……ぉおぉ……」
そして、五十嵐くんは顔を真っ赤にしてぶっ倒れた。急性アルコール中毒にならなけりゃいいんだけど。
でもまぁ、酷な言い方すると正直助かる。これであいつのことは話題には上らない。
あたしは、その、何ていうのかな……――あいつのこと、まだ無理みたいだから。
サキとユキはきっとあたしに気を使って、五十嵐くんをこんな目にして口を封じたんだろう。
「ねぇねぇ、サキ。五十嵐くんが下着、何派か賭けない?」
「オッケー♪ あたし、ブリーフ派だと思う。しかも、ボクサータイプに五千!」
「んじゃ、あたしはトランクス派。ステテコパンツみたいな奴に五千!」
「ギャッハッハ! ユキ、そりゃ無いって! マジそんなのだったら、あたし写メとってブログに載せるわっ!」
……ごめん、前言撤回。
このアマどもにそんな美しい友情があるとは到底思えなくなった。
そして、船内のボルゲージは上がっていく。
可燃物になっているのは、お酒であることは明白だった。
酔っ払いたちの元に、カラオケボックスがある以上、それを使おうとする者が現れるのも必然だった。
「よっしゃぁぁぁっ! 皆、あたしの美声に酔っちゃいなっ!」
既に飲酒運転で千回引っかかるぐらい、酔っちゃってる人が何を言い出すのか。
そうツッコミを入れたいが、それが親友の片割れサキだと思うと手じゃなくて、溜息が出る。
ぶっ倒れた五十嵐くんには興味がないのか、放置。
浴衣の裾……というか、下半身全開(下着丸見え)で大の字に寝そべる姿は、あまりにも涙を誘う。
ちなみに五十嵐くんは……いや、何派だったかまではあえて言うまい。それは彼の最後の名誉だ。
「私がオバさんになっても♪ 泳ぎに連れてくの?
派手な水着はとても無理よ♪ 若い子には負けるわ♪」
って、森高千里は古過ぎるでしょ、サキ!
「うぁぁ……サキ、それハマリ過ぎ。三十路女にはハマリ過ぎの曲選択だよ」
「いいぞぉーっ! 三十路女ぁーっ! みーそーじ! ほれ、みーそーじ!」
アルコールが入って、ハイになった馬鹿が呂律の回ってない舌で叫ぶ。
皆、ドッと笑って、三十路シュプレヒコールが巻き起こる。
「「「「「みーそーじ! みーそーじ!」」」」」
ちなみにサキは早生まれで、誕生日は4月3日。ほとんどの場合おいて、誰よりも早く、誕生日を迎える。
下手をすれば、3月生まれの人間とは300日近く……つまりは、約一年ほど開きがあったりする。
「うわぁあぁぁぁーんっ! あんたらに一足早く三十路になった女の気持ちなんか分からないわよぉぉーっ!
もう、皆死んじゃえ! そこの男も、そこの女も皆死んじゃえぇぇーっ!
そして、誰か私に素敵な男を紹介してぇ〜! うぅ、結婚がしたいですぅ。篠原先生ぇ……」
マイクの大音量が屋形船に轟く。サキはもう明らかにヤケクソになっていた。
しかも、言ってること支離滅裂だし。って、後々誰がサキを介抱するんだろ。
……ユキも結構できあがってるし、やっぱあたしが介抱せにゃならんのか?
「いや、んなこと言われても困るぞ……」
篠原先生も大いに困っていた。
「えぇい! こうなったら、ユキ! あれをやるわよっ!」
「ふふっ、サキ、しょうがない子。宜しくってよ……」
赤ら顔のユキがすっくと立ち上がり、えっちらほっちら危なっかしい千鳥足で、壇上に上がる。
サキから、サッと突き出されたマイク。ユキは何も言わず、受け取る。
ちなみに二人とも、示し合わせたように小指を立てている。今時アイドルだってそんな持ち方しやしないのに。
リモコンから曲番を送信すると、聞き覚えのある往来のヒットソングが流れ始めた。
「「カニ食っべ行こぉ〜♪ はにっかんでいこうぉ〜♪」」
今度はパフィーか。
ホントいい加減にしときなよ、サキ、ユキ。お酒の方も、おふざけの方も。
ま、その明るさに大分救われてるから、声には出さずにあたしも笑ってるけどさ。
「サキと!」
「ユキの!」
「「サキユキ漫談〜っ! イェェーイっ!」」
もう、ホントこの二人は止まらない。お酒を飲んだ二人の調子は天井知らずのうなぎ上りだ。
その上昇気流っぷりを是非とも日本の経済に反映してくれんかねぇ。第二次バブル時代突入間違いなしだろうに。
二人は、ひとしきりカラオケマイクを独占した挙句、今はマイクを利用して、漫才なんか始めていた。
「自分で付けて何ですが、『サキユキ』とは碌でもないコンビ名だと思いませんか、ユキさんや」
「え、あたし達の名前を繋げただけじゃないの?」
「だってよく考えてみてご覧なさい。年増なあたし達がコンビ結成した所で、『先行き不安』なイメージが広がるばかりですよ」
「えぇ!? コンビ名がサキユキって、そういう意味だったの!?」
「別に逆転させて、ユキサキでもいいわよ?」
「それじゃ今度は、『行き先不安』になっちゃうじゃん! 意味一緒だって! 抜本的変えないと!」
「何か他にいいコンビ名あるかしら?」
「そうねぇ……『おサキ真っ暗』ってどう?」
「そりゃ三十路になったあたしへの当てつけかっ!? それとも、ピンでやれって意味かっ!?」
案外、おもしろかった。ま、日常がコントみたいな二人だし。
今日の二人は特に羽目を外している。……もしかして、猫がいなくなったこと電話で言ったからかな?
あたしが気を落としてると思って、派手に盛り上げてたりなんかして……なんてね。
そんなことを考えながら、あたしは宴もたけなわな船内から、外へ出た。
船内はクーラーの風と酒やら料理やらの匂いで濁ってたから、外の空気が吸いたくなった。
後、まだあんまり酔ってないせいか、この船内のテンションにつけてないってのもあった。
あたしは芋焼酎一本、コップ一つをこっそり拝借した。夜景を見ながら一人チビチビやるのも風情じゃない?
◆ ◆ ◆
屋形船の屋上デッキに上がる。
椅子みたいなのは無かったけれど、腰掛けみたいな所はあった。
落下防止のためだろう。公園とかにある車両止めみたいな柵が屋上デッキを囲っている。
薄闇の中に人影は無く、どうやら、上がっているのはあたしだけみたいだ。
漫才が大いに盛り上がっているらしい。ここまで、二人の掛け合いと笑い声が聞こえてくる。
あたしは腰掛けに座って、芋焼酎を傍に置いた。
ぐるっと360度見渡す。
まだ働いている人がいるのかな? 河岸の建物には電光が灯っていた。
太陽のように強い光じゃないからだろう。キラキラと宝石のように光ってはいない。
光は絵の具が溶け出すように薄ぼんやりと広がっていて、そのせいで、水が孕む鈍い闇がより一層生々しく不気味に見えた。
人の騒ぎから一歩遠退いたせいか、真っ暗闇の河に囲まれてるからか、妙にしんみりとしてしまう。
一人でお酒飲んでると、色んなことを考え込む。
明日の寮生の献立のこととか、婚期の心配してくる両親のこととか、それと……ウチにいた猫のこととか。
あの猫、本当に死んじゃったのかな……?
確かめたい気持ちが燻ってるけど、同じぐらい確かめたくない気持ちもある。
生きてる姿を見たら、そりゃ勿論嬉しい。日がな一日、仕事ほっぽりだして遊んでやってもいいくらい。
でも、死体なんか見つかったら、相当落ち込む。……これでもさ、長い付き合いだもんね。
だから、何となく曖昧にしておきたい。
今後も気になり続けるんだろうけど……悲しむ可能性は避け続けられるから。
そう言えば、量子学で……何ていったっけ? ああ、そうだ。確か『シュレーディンガーの猫』ってのがあったわね。
箱の中に猫を入れて蓋したら、確認するまで、死んでる確率と生きてる確率は五分五分って奴。
なるほど、上手い喩えだね。確かにこれだとまだ生き続けてるかもしれないもんね。
あたしも、かれこれ三十路近く、生きてるし。
世の中、確かめない方が幸せってことがあるってことぐらい気づいてるわよ。
そんな風に知った風なこと言ってたらさ、あんたならなんて言うんだろうね……。
――ねぇ……志麻君?
◆ ◆ ◆
「ああ、やっと気付いてもらえた。僕、志麻賀津紀。
見覚えあるでしょ。昔、お世話になったの。覚えてる?」
それが志麻くんの第一声だった。はっきり言って、全然覚えてなかった。
おかげで当時好きだった五十嵐くんと一緒に下校することができなかった。
五十嵐くんを待ってたのに、志麻くんを待ってたと勘違いされちゃったんだっけ?
「願いごとを言ってよ。
僕は、キミの願いを叶えに来たんだ。だから、それを叶えるまでは帰れない」
それが志麻くんの目的だった。
何でも、入院時にあたしのおかげで勇気付けられたから、そのお礼にきたらしい。
何か感銘させることをした覚えが無かったから、それを口実にナンパしにきた変な奴ぐらいしか思ってなかった。
……そりゃちょっと言い過ぎね。まぁ、義理堅いんだなぁと思っていたことにしておこう。
「願いごとは、なんでも叶えられるんだ。僕はそういうモノを持ってるんだ。
だから、遠慮しないで本当に叶えたいことをいってくれればいいんだ」
私があんまり下らない願いごとをしたから、志麻くんは真剣にそう言った。
でも、やっぱり全然信じてなかった。当然よね。
外でいきなり、『あなたの幸せを祈らせて下さい』って言われたくらい信じてなかった。
「もったいないよ。別のにしようよ」
早く済ませたかったからテキトーな願いごと言ってたけど、志麻くんはテキトーな願いごとを言う度そう言った。
こりゃ、何かマトモな願いごとじゃないと引かないなぁと思った。
でも、特に思いつかなかったから、時間を貰って、とりあえず、保留することにした。
「そんなの、君の願いを聞くまでそばにいるんだよ……当然じゃない?」
保留したら、次の日もまた校門で待っていて、そんなことを言った。正直、当然じゃないことないと思った。
その時、当時のあたしが五十嵐くんが好きなことがバレた。
志麻くんは良かれと思って、五十嵐くんとあたしがくっつくのを願いごとにしようとしたけど、何かそれはイヤだった。
「どうして嫌な顔なんてする必要があるの?」
――妬かないんだね、ってこと。
「妬く?」
今にしてみれば、志麻くんのことが好きになり始めたのはこの辺りだったかもしれない。
彼はあたしが五十嵐くんが好きと知っても嫉妬することがなかった。
あたしの周りにはいないタイプの人間だったのよねぇ、志麻くん。
プラトニックっていうか……見返りを求めず、純粋に願い事を叶えようとしてくれる姿勢は好ましかった。
「僕はその人に……悲しい報告をしなければいけないから」
志麻くんが校門で待ち、あたしがそれを首絞めたり、蹴ったりして撃退する。
そんな奇妙な日常が形成され始めた頃、志麻くんから相談を受けた。
志麻くんの好きな子には別の好きな人がいて、でも、その人にはもう別の彼女がいる。
そのことを志麻君は好きな子に伝えないといけないというモノだった。
第三者からして、悩むようなことじゃないと思った。むしろ、チャンスなんじゃないかと助言した。
「思えるわけないよっ! 思えるわけない……。
相楽さんが、僕の立場だったら、そう思うの? 思えるの?
その人のこと好きなのに……好きなのに……」
志麻くんが怒りを露にしたのを見たのは、それが最初で最後だった。
悪いことしたと思った。でも、同時に微笑ましく思えた。
だって、何だかとっても志麻くんらしいって……そう、思ったから。
でもこの時のあたしは人に助言するなんて烏滸がましい、浅はかな女子高生だった。
五十嵐くんが冗談めかしてダブルデート誘ってきた時、漸く分かった。――不幸な女の子はあたしのことだった。
「恋は遠い日の花火のようなものだね……」
あたしが自分なりに失恋を消化しようと公園のブランコに座って項垂れてた時、志麻くんはそんな慰めをかけた。
声震えてて音痴なリコーダーみたいだったし、大根役者みたいな棒読みだし、下手くそにも程がある慰めだった。
サキとユキの入れ知恵だってすぐに気付いた。二人とも馬鹿だね。
志麻くんみたいな男の子がそんなキザったい慰め、上手くできるわけないのにね。
それでも、慰めようとしてくれている志麻くんが嬉しかった。
「もちろん、ユキさんも、サキさんも、嫌いじゃないです。
どっちかというと好きです。でも、一番はやっぱり美佐枝さんです。
僕は、美佐枝さんが好きなんです。ユキさんでもサキさんでもないんです」
やっぱり、志麻くんはこういうストレートな直球勝負の方が性に合ってると思うわねぇ。
その効果のほどは……ま、それはもう実証済みか。
「僕は、今の僕が今の美佐枝さんを好きになったんだと思う。
叱ってくれるところとか……心配してくれるところとか……。
首絞められるのも、美佐枝さんのいい匂いがして、好きでした。
後、美佐枝さん、美人だから」
あたしのどこが好きなのか分からなくて問いかけたら、そう返された。
やっぱりねぇ……恋愛ってムードが大切よねぇ。こんな風にさ、畳み掛けられたりなんかされたらさ……。
そりゃ、唇奪われてもいっかって気になるに決まってるわよ。
「僕の役目なんだ。大切な役目なんだ」
ある日、志麻くんが唐突にまた願い事の件を言い出した。
あたしはそんなことすっかり忘れてしまっていた。だって、どうでも良かったから。
勿論、出会いのキッカケだったから大切なんだろうけど、所詮はキッカケだから。
「ねぇ、お願いだから願いごとを決めてよ」
それでも、志麻くんは執拗に願いごとに拘っていた。
やっぱり、義理堅い性格してるから、一度言い出したことはやり遂げたいんだろうなと思った。
正直また困った。テキトーな願いは却下されるだろうし、かと言って、切実な願い事なんて相変わらずなかった。
あたしにとっては……あの時、志麻くんと過ごす時間そのものが大事だったから。
そう考えて、あたしは一つの考えに至った。――ああ、何だ。それを願いごとにすればいいんだ……って。
「美佐枝さん……本当に……本当にありがとう」
それがあたしの知ってる志麻くんの最後の言葉。
そして、志麻くんはあたしの前からいなくなってしまった。
あたしは、創立者祭が終わった時はまだ憤慨していた。
せっかく、生徒会長の仕事抜け出したのにサキとユキに聞いても、志麻くんは来てなかったみたいだった。
約束を破られた過日のあたしは、怒髪天を衝くって感じだったのだろう。
あの無神経な所のある五十嵐くんでさえ、廊下ですれ違う時は顔を青褪めさせて道を譲っていた。
志麻くんの顔見かけたら、いきなりドロップキックを喰らわすつもりだった。
またあの男とは思えないくらい細くて白い首を、ギュイギュイ絞めてやるつもりだった。
ごめんなさい!ごめんなさい!って百回くらい謝らせるつもりだった。
志麻くんが最後に見せた、ポロポロ零す涙の意味をあたしはまるで理解してなかった。
いや、今だって正確に理解してないんだけどね。
ただ抜き差しならぬ事情があることを察してやれなかった自分が情けなかった。
ホント、あたしってどうしようもなく肝心な時に間抜けなのよね……。
何で今になって……こんなこと思い出しちゃうんだろ。しかも、こんなにも鮮明に。
言われた直後なんか、スグ忘れちゃってたクセにさ。どうして、今になって……。
…………。
やっぱアレね。お酒飲んでるからね。
ほら、保健の千石先生曰く、アルコールって脳みそちょっと溶かしちゃうらしいし。
だからさ……コレきっと、昔の記憶が溶け出してるのよ。ウン、きっとそう。
この芋焼酎、凄いアルコール度数だしさ。あたし結構、量飲むし。その分、記憶がいっぱい溶け出してるのよ。
あれ? 脳溶かすのは麻薬だっけ? ……もう何だっていいわよ、そんなこと。
ピチャンと音がした。
下を向くと、コップに入った芋焼酎が、小さなさざ波を起こしていた。
「……?」
雨でも振ったかと思ったけど、空を見ても、曇ってすらいない。ただ星と上弦の月があるだけ。
ピチャンとまた音がした。まさかと思って、頬に手を当ててみる。
あたしの手が……濡れていた。
「……何、泣いてんだかねぇ」
今さら、泣くようなことでもない。
こんな感傷はもう何度も繰り返してきたじゃない?
こんなトコ、誰かに見られたら恥ずかしいから、あたしは泣き止む努力に入った。
そうだ。楽しいことを思い浮かべよう。例えば、五十嵐くんの不幸っぷりとか……。
「っ……」
森高千里を熱唱するサキとか……。
「っ……ひぐっ……うぅ」
二人がやってた漫才とか……。
「……ぅぅ……ぁぐぅぅっ……はっ……う、ぅぅぅぅぅっ……」
……ダメだった。一度泣き出すとあたしってホント、ダメだ。
下の誰かに気づかれないよう、下唇を噛んで、泣き声を押し殺すのが精一杯だった。
だってもう……あたしは志麻くんの顔を、正確に思い出せない。
ただ思い出だけが、どんどん美化されていってしまっている。
正直、今日あった五十嵐くんよりも、志麻くんの方がカッコいいとさえ思ってしまった。
そんなわけないのにね。ホント、どうかしてるわ……あたし。
あたし、志麻くんの嫌いな所、結構あったと思うんだけどな。
意外と頑固な所とか、女の子っぽい顔立ちとか、ナヨナヨした所とか……。
でも、そういうのは全部、時の流れに攫われてしまった。
ねぇ、志麻くん……。
言っちゃ悪いけどさ……アンタ、最低の男だわよ。
好きになる前は、ホントにただ鬱陶しくてさ。
好きになったら、すぐいなくなるなんてねぇ。
願いごと、何でも叶えるって言った癖にさ。
一番叶えて欲しかった願いごと……結局、叶えてくれなかったし……。
もし叶ってたら、今頃、どうなってたんだろう?
あたしも、ここにいる何人かみたいに志麻くんの子供とか生んだりとかしてたのかな?
そんでもって、結婚記念日とかはさ。いつもより、ちょっぴり豪華な夕飯拵えて、ワインとかも用意して……。
着飾って、いつもは使わないようなルージュとかも唇に引いたりなんかして……でも多分、志麻くん覚えてなくってさ。
『えっ! 今日って結婚記念日だっけ!』
『……あー、やっぱり忘れてたんだ』
『ご、ごめん! そろそろかと思ってたけど、今日だとは思ってなくて……』
『はぁ……謝らなくていいわよ、別に。そんなこったろうと思ってたもの』
『……ごめん』
『だから、謝らなくていいってば。誰も志麻くんが完璧忘れてるとは思ってないから』
『うん、ありがと。……でも、やっぱり、ごめん』
そんな風に、本当に申し訳なさそうに何度も謝るもんだから、つい許しちゃうんだろうな。
で、何だかんだ言いつつ、食事始めたりなんかして……。
その時に飲むワインはどんな味なんだろう。やっぱり甘いんだろうか?
今飲んでるキッツイ芋焼酎なんかとは全然違って、まろやかなんだろうな。
ドォンっと響く炸裂音で現実に引き戻される。見上げると色とりどりの花火が打ち上げられていた。
ああ、そうだ。確かこの屋形船、花火見れるんだっけ。すっかり、忘れていた。
ヒュルルと光の玉が昇って、ドンっと光の粒を広げて、まるで綿毛をつけたタンポポみたいに淡い光がパラパラ弾けて咲く。
咲いて、潔く消える。花火はやっぱり、そこが綺麗なんだろう。
それに比べて、あたしはどうなんだろう?
未練たらしくあの寮で待ち続けて、終わった恋の思い出にしがみつくあたしは……きっと醜い。
胸が熱い。そりゃそうよね。今飲んでるの、芋焼酎だもん。甘いワインじゃないのよ。
でもねぇ、さっきからずっと目の裏が熱くて熱くてしょうがないのは、あんたのせいなのよ?
あたしにどうにもならない過去ばっか振り替えさせてるのは、前向きなあたしが好きって言った志麻くんなのよ?
――ねぇ、志麻くん。知ってる?
――あたしさ、とっくにお酒が飲めるオバサンになったってこと……。
――でもね。それでもね……。
――あたし、やっぱり……今でも志麻くんのこと好きなのよね……。
――もしも、死んじゃってるなら、一度化けて出てきなさいよ。怒らないから。
――たった一度だけならさ。あたしも後で一緒に神様に謝って上げるから……。
それ以上、言葉は紡げなかった。
もし続けたら、酔った勢いに任せて、屋形船から身投げしてしまいそうだった。
あたしは飽きることなく、涙に滲む花火を頭の中に焼付けていた。
「恋は遠い日の花火のようなものだね……」
志麻くんにはまるで似合わなかった、その言葉とともに。
END
ぴえろの後書き
読了ご苦労さまでした。『恋は遠い日の花火のようなものだね』如何でしたでしょうか?
それは報われぬ恋の物語……あ、すみません、ちょっとカッコつけてみたかったんです。
ぴえろは触発されやすい人間なのか。やっぱり、これも他のSS作家さんに影響されて書き始めてしまいました。
えりくらさんの「オリオン」、かきさんの「楽園」、二条さんの「夜空の花見」(更新順)この三作です。
うむむ、美佐枝シナリオは忘れてるだろうと思って、原作抜粋(美佐枝一人称アレンジ)しましたけど、余計だったかも。(~~;)
結構、美佐枝が『志麻=ネコ』に気づくSSがあったりなかったりしますが、ぴえろは気づかない方が良いと思うんですよ。
待ち人の美学(何それ?)が崩壊してしまうというか。まぁ、こんなのも良いんじゃない? って、軽く受け止めてやって下さい。
しかし、サキとユキは暴走し過ぎてしまった。二人はきっと某ラジオの某柚ねぇと某サーヤさんの影響受けてます。
え、オールシリアスで見たかった? はは、そいつぁ、ギャグ大好きなぴえろにゃ、無理なご相談ですぜ。(´ー`)y─┛~~