夏休みが終わって、新学期が始まる頃、やっとこさ怪我が治った。
 本当は後一週間、入院するはずだったが、常に筋肉を鍛えていたオレの回復力は並じゃなかったと云うことだ。へっ、謙吾の野郎は負け惜しみに「お前はうるさいから追い出されたんだ」とか言ってやがったがな。そりゃまぁ、車椅子で競争したり、病院内を探検したり、消灯時間後に近くのコンビニに買い食いしに行ったり、所構わず筋トレに使えそうな奴を触ったりしたが、そんなに病院に迷惑をかけたつもりはない。うっせぇ、信じることは自由だろが。つか、もしそうなら、一緒に騒いでた謙吾がまだ入院してるのって差別じゃね? あれか、当てつけのように新人看護師の注射の練習台にされた時、痛てぇ痛てぇと騒ぎまくったのがいけなかったのか? まぁ、別にいいけどな。寮に帰れば、理樹と遊べるし。そう言うと謙吾が悔しがってた。リトルバスターズジャンパーが完成しても、お前にはやらんからな!と言われた。いらねーよ、んなモン。

 退屈と言っちゃ退屈だった。
 新学期になっても、まだ恭介は入院しているし、あの事故後まもないということで、オレたちも派手に遊ぶのは自重していた。野球もしていない。理樹も理樹で、鈴といちゃつくのに忙しく、オレに構っちゃくれねぇんだよぅ! だが、オレには筋肉という友がいる。入院生活でほんのちょっぴり痩せちまったそいつを鍛え直す必要があった。恭介が戻るまでにオレも筋肉を以前にもまして鍛えておくことにした。
 これはそんな僅かな間にあった些細な出来事だ。オレは、あいつに出会った。





ブレイブ・マッスル・ストーリー

written by ぴえろ




 オレと理樹の部屋に鈴がやってきて、オレは、というよりも、オレの筋肉が気を利かせて、ロードワークへ出た。校内を走り回るのも飽きてきたんで、校外を走った。リトルバスターズとしてこの町を遊び回っていたオレたちには、至る所に思い出の場所がある。昔遊んだ場所を横切れば、アルバムをめくるよりも尚、鮮明に思い出を呼び起こすことができた。悪くねぇ気分で帰ろうとした時、それを目撃した。
 数人の小学生がいた。そこはオレたちも遊んだことのある空き地だった。まだこんな雑草が薄ら生えただけの土地が残ってんのかよ、とちょいとばかし呆れつつも、時代を超えてオレたちの遊び場は今も愛されてんだなと嬉しかった。へへ、と声が漏れた。遠目に見てる時は本当にそう思った。だが、近づいてみると自分でも顔が険しくなってくるのが分かった。
 一人を三人ほど取り囲んでいる。かごめかごめでもしてんのかと最初は思ってたが……何てこたぁねぇ。――ガキ一人を三人で蹴り回してるだけだった。嘲笑が聞こえる。どれもこれも、蹴られてる奴に向けられた悪意だった。蹴ってる内の一人がペッと唾を吐きかけた。それを見ただけで反吐が出そうだった。

 オレの古傷がそこにあった。仲間たちとの思い出の場所に。
 キラキラ輝く宝物に汚ぇヘドロをぶち撒けられたみてぇな酷ぇ気分だった。
 だからだろう。気が付けば、オレは叫んでいた。

「オラァァァーッ! 何やってんだてめぇら!」

 怒声と共に空き地の中へ入って行った。アスファルトの固い感触が消え、砂利道に変わる。肩を怒らせながら、蹴っていたクソガキの元へとズンズンと歩み寄る。オレの大股の歩幅で後十歩という所で「やべぇ、逃げろ!」と、どいつかが叫んだ。蹴っていたクソガキ共は、一斉に背を向けて走り出した。

「あ、待ちやがれ! こんにゃろ!」

 追いかけたが、それぞれ別の路地に逃げ出したせいで誰を捕まえるか迷って、結局一人も捕まえられなかった。くっそぉ、数の子を散らすように逃げやがって。まぁ、いっか。どうせ、捕まえた所で今度はどうしたらいいか悩んでただけだろうしな。説教なんて高尚なもんができるほど、オレは頭が良くねぇし。追い払えただけでいいだろう。
 オレは振り返り、うずくまって一方的にボコられてたガキに声を掛けた。

「おー、坊主。もう大丈夫だぞ。どっか怪我とかしてねぇか?」
「……てねぇよ……クソッ……やがって……」
「おい、泣いてんじゃねぇか。やっぱ、どっか怪我してんだろ。ほら、見せてみろって」

 昔はオレも殴られたり蹴られたりしてたから、軽い怪我の手当てくらいはできる。まぁ、オレの場合、殴られて蹴られた以上に殴って蹴ってやったが。あ、蹴られたりは今でもしてるか。当たり所悪りぃと結構効くんだよなぁ、鈴の蹴りは。頭を守るように抱えて、うずくまるそいつの肩に手を置いた瞬間だった。

「るっせぇ! 触んじゃねぇ! 余計なことしやがって! 俺一人でだって勝てたんだよ!」

 声変わりも済んでない声で怒鳴なれ、パシンと差し出した手を撥ねつけられた。
 別に正義漢を気取って助けたわけじゃねぇし、むしろ、ただ単にオレ自身が抱いた不快感をぬぐい去るために……つまりはオレ自身のためにこいつを助けたわけだから、確かにこいつがオレに感謝する必要なんてない。が、怪我を見てやろうと思ったのは純粋な善意だ。断るだけならまだしも、何でオレが怒鳴られなきゃならねぇんだ? ムカッと来たが相手は小学生だ。しかも、背丈からして小学三、四年って所だった。ムキになって怒るのも馬鹿らしかった。

「お前なぁ。そうは言うけど、あそこからどうやって逆転するつもりだったんだよ?」
「そ、それは……何とかして……」

 問いかけると、坊主は段々と尻つぼみになっていった。

「と、とにかくアンタに助けてもらわなくても勝てたんだからな! ホントだぞ!」
「あー、そうかよ。そいつぁ、邪魔して悪かったな」

 根拠もなく主張する辺り、何か鈴に似てるな。いや、ガキって大体、皆こんなもんだっけ? ん? ということは、鈴はガキっぽいってことにならないか? おぉ、そうか! 小学生の頃、女子であるはずの鈴と何の違和感もなく、ダチでいられたのは鈴がガキっぽかったからなのか。なら、理樹と付き合うようになったのは女らしくなったからってことなのか。やべぇ、すげぇ発見をしちまったぜ……。なんてことを考えてると、今更悔しさが込み上げてきたのか、坊主は泣き始めた。

「クソッ、あいつら卑怯だ。年上の癖に、俺よか体もデカい癖に、三対一なんてアリかよ……」

 クソックソッとそいつは泣きながら、体中に付いた砂を苛立ち混じりに叩きつけるように払っていた。体だけじゃなく、頭も顔も砂にまみれていた。涙の通った所だけ砂がなくなっていた。正直、まぬけだった。プ、とオレが小さく吹いたせいだろうか。坊主もそれに気付いて、慌てて手の甲でグシグシと涙の跡を消し始めた。って、お前、そんな砂まみれの手で擦ったら……。

「イテテッ!」

 案の定、目に砂が入った。こいつ馬鹿だ。オレに言われちゃ、結構重症だぞ、坊主……。


    §    §    §


 坊主の馬鹿な行動に何やらティンパニー……ありゃ? シンバシーだっけ? いや、それは駅の名前だ。ともかく、いつかの誰かみてぇだなと思っちまったもんだから、もうちょっとだけ面倒を見てやることにした。このまま帰って、理樹と鈴のキスシーンに遭遇しちまったりなんかしたら、気まずいしな。夕飯までまだちょっとあるから、それまで付き合ってやろう。
 丁度、さっきの空き地の近くに公園がある。何で知ってるかっていうとオレの実家近くだからだ。そこの水飲み場で目や頭、顔を洗わせている間、オレは公園内の自販機からジュースを買った。背付きの木製ベンチに腰掛ける坊主に一本プレゼントし、隣に座る。坊主はカシュッとプルタブを開けると、一口呷った。

「んぐっ!」
「あ、悪りぃ。炭酸選らんじまった。オレの100%グレープフルーツと替えるか?」
「……いや、いい。そっちの方が沁みそうだし」

 口から血が出てないからって口の中が切れてないとは限らねーよなぁ。ちょっと罪悪感覚えるぜ。

「お前さ、何でアイツらにイジメられたんだ?」
「イジメられてなんかいねぇーよ! 喧嘩してたんだよ!」
「あー、すまん。あんまり一方的だったんで、ついうっかり。で、何で喧嘩してたんだよ? 給食のコッペパンでも取られちまったのかい?」

 オレと謙吾はよく飯関係で喧嘩をする。小、中、高と飽きずにやっている。そもそも、あいつがケチなんだよな。おかずの一個や二個や三個ぐらいですぐにカッとしやがって。ガキかっつーの。

「そんなもんどうでもいいさ。欲しけりゃいくらだってくれてやる」
「え、マジで?」

 オレが小学生の頃はコッペパンが学校生活の楽しみだったので、その一言は割とショックだった。

「あいつら、俺のメリクリウスを無理やり取り上げやがったんだ」
「メリー……クリスマス?」

 今、夏だぞ。いや、テレビじゃ残暑とか言ってたから、秋か? ともかく冬には早過ぎる。

「メリクリウス! ガンダムのプラモデルでそういうのがあるんだよ!」
「え、だって、それガンダムって付いてなくね?」
「ガンダムってついてないのだって、あるんだよ! ガンダムには!」

 はー、そいつは知らなかった。しかし、んなモンがガンダムと言えるのかねぇ。キン肉マン見習えよ、9割方『マン』がついてるぜ?

「また買えばいいんじゃねーの? プラモデル一個のためにボコボコにされるなんて割り合わねぇだろ?」
「……あのメリクリウスは俺の物だけど、俺だけの物じゃないんだ」
「いきなりナゾナゾタイムか。ちょっと待ってくれ。オレ、この手のクイズ系はスゲー苦手なんだよな」
「ナゾナゾじゃねーよ。そのままの意味だって。そのメリクリウスは……親友からの貰いモンなんだよ」

 坊主が言うには、それのメリ何とかにはもう一つ、ヴァイ……ヴァイ何とかというのがあるらしい。その二つは兄弟のようなもので、お互いがあって初めて真の力を発揮するらしい。何か他にも攻撃がどうのこうの、防御がどうのこうのと言っていたが、要するに坊主の言うこの二つは、タッグ戦におけるキン肉マンとテリーマンのような関係で、切っても切れない関係なのだとオレは理解した。

「だから、俺たちはお互いに別の奴を買って作って、交換することでそれを友情の証にすることにしたんだ」
「ふーん、なるほどねぇ」

 口でそう言いながら、ちょっと整理した。えーと、つまりオレ流に例えると、理樹がキン肉マンのキン消しを買い、オレがテリーマンのキン消しを買ったと。そして、互いに交換して、それをマッスルメイトの証としたが、オレたちの友情を妬んだ謙吾がオレの机からキン肉マンのキン消しを奪い、「フッ、残念だったな。今日から俺が理樹のマッスルメイトだ!」と言っているわけか。

「ふざけんじゃねぇぇぇー! てめぇにはジェロニモで十分なんだよ! マッスルメイトになりたきゃ、いっぺん死んで生まれ変わってから、来いやオラァァァー!」
「は? 何急に叫び出してんの?」
「おっとすまねぇ。ちょいと自分の筋肉ワールドに深入りしちまってたみたいだ。ヒュー、相変わらず筋肉はオレを魅了して止まねえな」

 だが、おかげで坊主の問題が我がことのように理解できた。

「しかし、許せねぇな、そいつ。……何ならオレが取り返して来てやろうか?」
「え……?」
「いや、だって、勝てねぇだろ。お前じゃ。またさっきみたいにボッコボコにされるだけじゃね?」

 坊主は胸がつっかえたように声を呑んだ。俯いて、ジュースの缶を両手でギュと握り締めると、ペコっと小気味いい音を鳴らして凹んだ。けど、多分、凹んでいたのはこの坊主の心の方だった。横目でちらっと様子を窺う。何かに耐えるようにギュッと目を瞑っていた。坊主のこめかみを汗が伝う。
 今、坊主の頭ン中をさっきの光景が蘇ってるんだろう。正義は我にありとばかりに挑んで、負けて、おもちゃのように蹴り回され、敗者の烙印のように唾を吐きかけられる。それはどんくらい惨めで情けないんだろうか。ムチャクチャ悔しくて、同時に怖いんだろうなって以上のことは、オレには分からなかった。

 男にとって、敗北の記憶ってのは強烈だ。――負けちゃならねぇ時に負けちまったなら、一生モンだ。

 オレにもそういう記憶はある。ガキの頃、オレはオレがオレであるため、相手が誰であろうと絶対に負けちゃダメだった。全部が、負けちゃならない戦いだった。だから、勝って勝って勝って、何のために強くなろうとしたのかも忘れるぐらい勝ち続けて、そして……恭介に負けた。あの日のことは今でもはっきりと思い出すことができる。郵便ポストの重さ、全身の痛み、そして、頬を撫でる柔らかな風と安らぎ。
 俺の場合は苦々しさは伴わず、むしろ、清々しさが伴うが、ああいう気持ちのいい負けなんてのはそうそうあるもんじゃない。

 敗北の記憶なんて、大概が最悪なもんだ。思い出すだけでも吐き気がしてくる。ま、オレは馬鹿だから、謙吾に喧嘩売る時はさっぱり忘れるわけだが、この坊主も同じってわけじゃないだろう。忘れろっつても、忘れられるモンじゃねぇしな。実際の所、坊主とあのクソガキどもの実力差なんてドンブリの背比べみてぇなもんなんだろう。……いや、カンブリの背比べだっけ? あ、そういや、何か腹減ってきたな。

 うぉぉ、自覚すると猛烈な勢いで腹が減ってきやがったぁ! こいつはぁ、我が内に眠りし筋肉が暴徒なりつつある証拠に違いねぇ! クッ、静まれ! オレの筋肉! 酷使されたお前らがタンパク質を求めて止まないのは分かるが、ここは長年連れ添ったオレに免じて堪えてくれ! ここで坊主の面倒もそこそこに、ダッシュで学食を目指そうものなら、オレは真のアホの子と化してしまう! ……ふぅ、治まった。

 ともかく、強さに大差ねぇはずだが、負けて一方的にボコり回された恐怖ってのはそんなに簡単に拭えるモンでもねぇだろうしな。けど、この坊主は一度は立ち向かったんだ。ダチとの友情のために。自分よりデカくて、数も多い奴らに立ち向かっていったんだ。多分、スゲェあっさりやられたんだろう。秒殺だったかもしれない。でも……別にいいんじゃねぇかな。だってさ、立ち向かったんだぜ? 結果よか、その事実の方が大事なんじゃないのか? なら、後は他人の手に頼ったっていいんじゃねぇか?

 あぁ、正直に言っちまおう。――オレはこいつのことがちょっと気に入っていた。

「……いや、いい。あのメリクリウスは、俺自身の手で取り戻さなきゃ意味がないんだ」

 だから、きっとそう言うであろうことも分かっていた。

「そういや、お前。名前、何てーの? オレは井ノ原真人だ」
「え、俺? 鳥野健太だけど?」
「鳥野健太か、良い名前だ。まるでジューシーな肉汁が滴る鶏肉のようだぜ」

 ジュルリ、と涎が零れそうになった。何かスッゲェ脂っこい物が食いたくなってきた。今日の夕食はカツにしよう! 毎日食ってるけど!

「よし、ケンタ。明日からここに来な」
「はぁ? 何でだよ?」
「今のお前に足りないのはな。――ズバリ、筋肉さ!」

 恭介が戻るまでの間、オレはこいつの面倒を見ることにした。


    §    §    §


 次の日から、オレとケンタの奇妙な師弟関係が始まった。
 ケンタは思ってたより根性無しだった。腕立て伏せ三十回辺りで、もうへばりやがる。オレが小学四年ぐらいの時は、軽くその倍はできてたってのによ。まぁ、流石にそこまで求めねーよ。だがな、乳酸がたまって、もう動かねぇってところからが本番なんじゃねぇか。

「ふへぁ、もうダメ。動けねぇ……」
「何つー情けない声出してんだよ。おい、ケンタ。10分休憩したら、再開な」
「えぇー、まだやんのかよ! マサ兄ぃ、キツ過ぎ!」

 大股開いて、後ろ手に体重を支えていたケンタが、万歳するようにドデっと後ろに倒れこんだ。剥きだしの地面から、砂埃が舞う。
 ちなみにマサ兄ぃとはオレのことだ。最初はオッサンとか言ってきたので、軽く片手でアイアンクローしながら持ち上げてやったら、最終的にケンタはオレのことをマサ兄ぃと呼ぶことにしたようだ。二番目に言った“肉ダルマ”には捨て難いものを感じたが、諦めた。いくら、筋肉ことオレとは言え、未だ筋肉を極められずにいる分際で禅宗の開祖、達磨大師の如く、肉ダルマと呼ばれるのは恐れ多い気がしたからだ。

「こんな地味な筋トレばっかじゃなくってさぁ。何か必殺技みたいなの教えて、パパッと強くしてくれよ」
「んなモンあるかよ! 第一、そんなヒョロッちい体で繰り出される必殺技なんざ、屁でもねーよ」
「何だと! これでも一つぐらい必殺技、知ってんだぜ!」

 バッと跳ね上がるように起きると、オレに向かってダッシュしてくる。

「喰らえ! 必殺、金的蹴り!」

 振り上げられた足をサッと横ステップで躱す。

「そんな……躱された!? 何で避けんだよ!」
「いや、金的蹴りって先に言ってたし。当たったら流石に痛てーし。後、お前アレな。蹴り足が遅せぇーな」
「んなわけないだろ! 俺こう見えてもサッカー部なんだぜ!?」

 いやまぁ、オレの場合、比較が鈴だしなぁ。流石に小学生のケンタが、アイツの蹴りよか速いってこたぁないだろう。

「くっそ! 当たるまで蹴ってやる!」
「ほい、ほい、ほいっと」

 繰り出される連続キックを横ステップで時計回りに躱していく。本当に金的蹴りしかしてこないから、楽に躱せる。ちょっとした来ヶ谷の姐御気分だ。まぁ、アイツならケンタが一蹴りする間に背後取れるんだろうけどな。今更だが、何モンだよ、あの女。あぁ、化けモンでいいのか。

「ハッ、そんなトロくさい蹴りでオレを捉えようなんざ――ゴベァッ!」

 いぎゃぁぁぁー! オレの側頭部にありえねぇぐらい激しい激痛が痛むぅぅぅー!?
 頭を両手で抱えたまま、オレは地面を転がった。何だ!? 鈴の奇襲のハイキックか!? ハッ、まさか理樹が筋肉に目覚めてしまい、そのキッカケとなったのが、オレが尿意を催して起きた時に毎回毎回「筋肉が大好きです♪ でも、真人の方がも〜っと好きです♪」と耳元で囁いて、催眠学習を施してから寝てるのが、ついにバレてしまったというのか!?
 違うんだ、鈴。あくまで理樹は筋肉が好きなんだ。オレはおまけのようなものなのさ。ん? 待てよ。オレ=筋肉だから、理樹はオレのことを好きな上に大好きときてんのか? マジかよ……好きの二乗かよ。
 ヘっ、やめてくれよぅ! 理樹がオレのことを好きなのは知ってるが、そこまであからさまだと、ちょっと照れちまうじゃねぇか。

「すまねぇな、鈴。別にお前から理樹を奪いたかったわけじゃねぇんだ……」
「え、マサ兄ぃ。誰に向かって話してんの?」
「誰って、鈴に……ありゃ?」

 振り向くと、そこには木製の柱があった。何となく柱の上部まで目で追ってしまう。ツルが生い茂らせた天井が日光を遮り、陰の空間を作り出している。その中には木製のベンチが二つほどある。天気の良い早朝なんかに、散歩に疲れた爺さん婆さんが座ってそうな休憩所だ。オレが激突したのは、その柱だった。
 あぁ、そうだった。日差しもまだ強ぇから、日陰で筋トレしようって言ってたじゃねぇか、オレが。ふぅ、危ねぇ危ねぇ。ここで、「誰がんなこと言ったんだよ!」とか思ってたら、完全にアホの子と化していたな。

「何かスッゲー勢いで頭ブツけてたけど、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫さ。筋肉がオレを守ってくれたからな。常日頃、筋肉を鍛えていれば、こんなダメージ痛くもかゆくもねぇぜ」
「筋肉スゲー超スゲー。頭から血がドバドバ出てても平気なんだ」
「え、血?」

 ズキズキと痛む耳の上辺りを、バンダナの上から触ってみる。何かドロっとしたのが付いてた。

「ち、血ぃぃぃー!」
「えぇ!? 今更、痛がんのかよ!?」
「当ッたり前だろうが! 血は筋肉でできてねぇーんだぞ!」

 これ絶対、角でブツけちまったぜ。ムチャクチャ痛てぇぇぇー! 鈴風に言えば、くちゃくちゃ痛てぇぇぇー!

「何だ。筋肉って、やっぱ大したことないんだな……」

 ハッ、ケンタが明らかに失望した目でオレを見てやがる。オレが失望されんのは別に構わねぇが、偉大な筋肉を失望されんのは我慢がならねぇ!

「待て、ケンタ。お前は何か勘違いをしている。オレに全然ダメージはない」
「え、でも今さっき『ち、血ぃぃぃー!』とか叫びながら痛がってたじゃん」
「違う。それは、チッと舌打ちしようとして、間違ってしまっただけなんだ。オレは馬鹿だから極稀にそんなことがある。全く困ったお舌さんだぜ」
「ふーん、まぁ、別にそれでもいいけどさ。血、相変わらず凄いけど、ハンカチとかで止めなくていいの?」

 ピッとケンタは、オレのこめかみ辺りを指差す。何かアゴから滴り落ちてる気がするが、多分気のせいだ。

「必要ない。何故なら、これは……色落ちだからだ」
「え!? 色落ち!?」
「そうだ。このバンダナ、昨日洗ったんだが、それが今頃になって色落ちしてきたんだ。全く、赤ってのはすぐ色落ちしやがるな!」
「いや、そんなのあり得ないだろ」
「あぁ、あり得ない話さ、常人に限ってはな。ただし、オレは筋肉の権化と謳われるほどの筋肉の持ち主だから、極稀にこんなことがあるんだ。さっき、柱に頭をぶつけた拍子に思わず、筋肉を緩めちまったせいで色落ちが始まっちまったんだ」
「そ、そうだったんだ。筋肉スゲー、やっぱり超スゲー」

 ふぅ、何とか筋肉の威信は守られたようだ。
 しかし、この血、バンダナで抑えてりゃ止まるか? 止まらなきゃ、流石の筋肉でも死んじまう気がするんだが……。

「なぁなぁ、俺もマサ兄ぃぐらい鍛えたら、筋肉で止血とかできるようになるかな?」
「お前もいずれできるようになるさ。極稀にな」
「そっかぁ、それでも極稀なのかー」
「あぁ、極稀にな」

 そういや、極稀ってどんな意味だったっけか? こくまろ……いや、語感は似てるが違うな。やべぇ! 頭打ったショックで、意味が思い出せねぇ! まぁ、いっか。思い出せねぇってことはきっと極稀にしか使われねぇ単語なんだろう。……あれ? 今、一瞬すげぇ自然と出て来たんじゃね? うぉぉぉ、意識してなかったから、どこで使ったかすら思い出せねぇぇぇ! しゃーねぇ、こうなったら、病院に見舞いに行った時にでも、謙吾に教えてもらうとすっか。なぁに、謙吾は何気に良い奴だから、親友のオレが「こくまろって何の意味だ?」と聞けば、すぐに教えてくれるさ。



 2セット目も終わり、オレはケンタへの労いの意味も兼ねて、傍にある自販機からジュースを買った。暑いこの時期、水分補給は重要なことだ。特に小学生は思いの外、体温が上がり易い。

「おい、ケンタ。こいつ飲んどけ」

 日陰の休憩所で、背付きの木製ベンチに腰掛けるケンタにペットボトルを投げ渡す。中身はオレンジに僅かに赤味を足したような色をしたアミノバリューだ。運動直後の三十分以内にこれを飲んでおくと、筋肉の修復に必要なバリン、ロイシン、イソロイシンの必須アミノ酸が補給されて、超回復が早まるんだよな、とちょいと筋肉蘊蓄うんちくを垂らしつつ、隣に座った。

「不味っ! 何コレ、人間の飲み物じゃないよ……」

 信じられねぇ。人がせっかく奢ってやってるってのにこのクソガキ、吹き出しやがった。不味いだと? オレ専用のマッスルエクササイザーに比べたら、こんなの月とセーラームーンだぞ。意味はだな。意味は……ほら、あれだ。こう、『食べ物を粗末にしちゃ、おしおきよ!』みてぇな感じだ。そういうことにしとけ。

「てめぇが飲まないならオレが飲んでやる」

 後どうでもいいが、お前毒霧上手いな。今日から、ザ・グレート・カブキの実の孫と名乗るといい。

「いいぜ」
「え、お前その年で、プロレスラーの悪役ヒールに憧れてんのか? 渋いな」
「は、何言ってんの? 俺が言ってんのこの不ッ味いジュースのことなんだけど?」

 ケンタは、ちゃぷちゃぷと横振ってアミノバリューを波打たせた。

「これ、悪いけどいらねーや。元々、マサ兄ぃが買った奴だし。やるよ」

 ……へっ、一応、言っておいてやるが、アミノバリューは二本分で必須アミノ酸の量が丁度足りるくらいなんだぜ? つまり、オレはあらかじめ断られても問題無いように、二本買ったんだ。返されるのがこっちの想定外だと思ったら、大間違いだぜ。
 とは言ったものの……。やっべぇ、空きっ腹に二本も飲んだら、腹たぷんたぷんじゃねぇか。今、腹押されたら、カレーパンマンみてぇにアミノバリューが出てくんじゃね?

「そういやさ、アンタは筋トレしなくていいの? アンタぐらいになると筋トレしなくても、自動的に筋肉が鍛えられるとか?」
「ん? あぁ、そういや、ここにいる時はしたことがねぇな」

 いつもは自室でやってるわけだが、あそこは今や理樹と鈴の愛の巣と化してるからなぁ。

「オレも、今日はここで筋トレしとくかな。お、そうだ。ケンタ、ちょっくら手伝え」

 ベンチから休憩場の方へ移動し、日陰の下でオレは横になった。下がコンクリートの石段になっているので、多少汚れずに済む。ケンタに靴を脱いで、オレの腹の上に足を乗せるように言う。

「え、そんなことして大丈夫か?」
「大丈夫だって、この腹筋がそんなにヤワに見えるのかい?」

 赤Tシャツを捲って、ご自慢のシックスパックに分かれた腹筋を披露する。

「すっげ、何だこの腹筋。まるでスーパーで売ってる卵パックみてぇだ!」
「それじゃ、殴ったらすぐ割れちまいそうじゃねぇか! もちっと硬そうなイメージにしてくれよぅ!」
「えー、じゃあ、メロンパンとか?」
「確かにありゃ表面が硬めだけど、所詮パンだろ? あ、それとも何か? 食感はカリっと硬めだが、中身は甘く柔らかい。すなわち、オレの心はメロンパンのように優しいと。つまりはそういう例えなのか?」
「いや、割とテキトーに言っただけなんだけど」
「ねぇのかよ! そこはあるって言っておけよ。全力でポジティブに考えたオレが馬鹿みてぇじゃねぇか!」

 腹の上から落ちないように柱を支えにして、ケンタがオレの腹筋の上に乗る。

「いいか、あんまし下っ腹の方、踏むんじゃねぇぞ」
「分かってるって。俺だって、男の苦しみを経験したことぐらいあるさ」

 ケンタが行進でもするように足踏みを始める。ぐっぐっと腹筋に圧力が掛るが、小学生の体重ぐらいじゃオレの腹筋はビクともしない。

「うわ、マジ固ってぇ! 全然平気そう!」
「へっ、常日頃、筋肉を鍛えていれば、お前ぐらいの体重の奴が100人乗っても大丈夫なのさ」
「どっかの物置かよ! 若干メタボ気味なウチの親父にも見習わせたいぜ。とぅ!」
「ちょっ、おまっ、ぶへ!」

 ケンタが調子づいて、オレの腹筋の上で飛び跳ね始める。てめっ、このヤロっ、どう考えても、踵で着地してんだろ!? 水っ腹にこれはちとキツ……あ、やべ、さっきのアミノバリューが――げげごぼぅおぇ。(※筋肉のリアルなゲロを美少女のゲロに置き換えてお楽しみ下さい)

「ぎゃあぁぁぁー! 何か靴下に生暖かいもんがぁぁぁー!」

 あー、悪りぃ。でも、半分は自己責任な。



 筋トレってのは、ただ筋肉を酷使すりゃいいってもんじゃない。筋トレを行う前のストレッチだの何だの整理運動ってのは必要な行為だ。これにより、「これから筋トレを行いますよ」と告げたり、「もう終わったので乳酸が循環し易いようにしておきますね」と配慮することになる。筋肉を軽んじれば、筋肉に泣くことになるのさ。具体的に言うと、肉離れを起こしたり、筋肉痛が長引いたりするってことだ。
 そんなわけで整理運動の一環として、オレとケンタはラストに公園の外を軽くジョギングをしていた。心肺機能を高めるためのトレーニングじゃねぇから、会話ができるような速さでだ。公園を離れ、商店街の方を走っていた。そんな時だ。

 ひぃやぁぁー、と腰の抜けたような悲鳴が耳に届いた。前方、約五十メートル。スクーターに乗った男がバアさんのポーチを背後から奪い去っていた。――ひったくりだ。マジか。あんなシーン、テレビの警察特集みたいのでしか見たことねぇぞ。オレが住む町でも平然と犯罪が行われていると云う事実を、直接目にするのは割とショックだった。

「あいつ、こっちに来るぞ!?」

 並走してたケンタが叫ぶ。ケンタの言う通り、件のひったくり犯はこっちに向かって来ていた。と言っても、勿論、ガードレールを挟んでだ。へへ、と野郎が笑った気がした。ヘルメットしてるし、ツラは見えないはずなんだが、こけて四つん這いのまま、手を伸ばすバアさんを首だけ振り返って、そんな風に嘲ってる気がした。
 何かよぉ、それがムカっ腹にきた。しかも、だ。丁度、良い距離だったんだよな。

「ちょっとどいてろ、ケンタ」

 犬でも追い払うように手を払う。返事は待たない。視線はひったくり野郎に向けたまま、ガードレールの方へ身を寄せる。ジャリっと靴底が砂を噛む音がしたから離れたんだろう。軽く右肩を回す。準備運動はそれだけだ。ふといつだったか、それとも、“あの世界”での記憶なのか。野球で打率がイマイチ伸びないオレに恭介が言ったアドバイスが脳裏を過ぎった。
 ――球を打つって時のはリズムが大事なんだぜ真人、とアイツは言っていた。ついで、実にオレ向きなリズムの取り方を教えてくれた。それを胸の内に復唱しつつ、拳を握りしめ、右腕を鋼鉄のように硬くした。
 黒いヘルメットが近づいてくる。デカイ球だ。ボーリングぐれぇあんのかな。いくらオレだって、外しようがねぇデカさだ。『チャー』で、軽く踏み出した前足に体重を乗せる。『シュー』で、今度は後ろ足に体重移動。振り子のように体を揺らして、パワーをため込む。野郎が振り返る。オレに気付いたようだが、もう遅ぇ。
 ヘルメット諸共、粉々にしてやる気で――。

「マァァァーン!」

 意図せずテンションが上がり過ぎた謙吾の真似になりながら、ガードレール越しに右腕を薙ぎ、その首を刈った。鉄棒の逆上がりに失敗したみてぇに、野郎の足が宙を切る。後ろ回転しつつも、その体は慣性の法則に従って、前へ飛んでいた。ガゴン、と乗り手を欠いたスクーターがもんどりうって転倒するのと、宙で何回転かした野郎がアスファルトに熱烈なキスをかますのは同時だった。うっせぇ音だなぁオイ。

「な、生身で交通事故起こせる人間初めて見た。筋肉スゲー超スゲー……」

 その後、ケンタのケータイ――最近は小学生でも持ってんのな――で110番通報し、ひったくり犯は現行犯逮捕されたらしい。らしいと言ったのは、後で聞いた話だからだ。オレとケンタは、その場にいたら事情聴取とか七面倒臭いことが待っていそうなので、バアさんに『間抜けにもひったくった後、野郎が勝手に事故った』ということにして貰って、退散した。お礼ということで、バアさんから貰ったユキチ三枚を、ステーキ店で使い、ケンタとたらふく飯食って帰った。



 こんな風にオレは己の筋肉を自慢しつつ、ケンタの筋トレに付き合っていた。正直、気持ちが良かった。オレこそがリトルバスターズの筋肉担当だと云う自負はあるが、筋肉が必要とされる事態なんて、そうそうあるもんじゃねぇ。いつもは単なる馬鹿要員みてぇな扱いだ。それが嫌だっつーわけじゃねぇ。オレも馬鹿やんのは楽しいし。でもなぁ、せっかく鍛えてるんだから、たまには自慢してぇさ。オレの数少ない……いや、唯一と言ってもいい取り柄だしな。
 ケンタの憧れる気持ちは、オレの自尊心を心地良く満たしてくれた。ケンタの力になる。それは嘘じゃねぇが、いつしかオレ自身のためでもあった。オレは一人っ子だから良く分からねぇが、弟とかいたらこんな感じだったのかなーと、腕立て伏せをするケンタを見ながら、何度かボーと思った。

 けど、オレとケンタの日常はそう長くは続かなかった。
 恭介が帰ってきたんじゃない。問題はケンタの方で起こった。
 ケンタの親友が、急に引っ越すことが分かったからだ。


    §    §    §


 突然、親友からメールで別れを知らされ、案の定、ケンタの奴は戸惑っていた。日陰のベンチに座って、話を聞いている間も、ずっと狼狽していた。

「で? そいつは、いつ引っ越すんだよ」
「……今日だよ」
「今日かよ!?」

 急にも程がある。いや、あるいはずっと前に決まっていたが、一番の親友であるケンタには言い出しにくかったのかもしれない。

「そいつは知ってんのか? おめーが交換したプラモを取られちまったことをよ」

 つまり、取られたのは、親友が作ってケンタにプレゼントしたプラモだ。そいつがその事実を知らないなら黙っておいて、こっそり取り戻しておけばいい。多少せこい気がするが、それなら、親友の奴も傷つかないし、ケンタも焦らずに済む。が、ケンタのテンパってる様子からして、そうじゃないんだろう。

「うん、知ってる。家が近いからさ、割と夜まで遊ぶんだけど、俺の部屋に来た時に無いのがバレて、それで……絶対取り返すって言った」
「そりゃ、辛ぇな」

 ケンタもそうだが、親友の奴もだ。遠くに離れていっちまうなら、尚の事、そのプラモは心の拠り所になっていたことだろう。それが、引っ越す直前に無くなってるわけだからなぁ。

「どうしよう、マサ兄ぃ?」
「どうするったって、お前。こりゃもう、行くしかねぇだろ」
「い、行くってどこに?」
「決まってんだろ。今すぐ、あいつらの所に殴り込んで、プラモ取り返すんだよ」

 分かってる癖にわざと知りたがらないような感じだったが、オレにそんな気づかいを期待する方が間違いだ。先延ばしできるような問題じゃない以上、きっぱり言ってやった方が本人のためだ。幸い、あのクソガキどもはケンタと最初に出会った空き地を遊び場にしているらしいから、会おうと思えばすぐに会いに行ける。

「む、無理だって! 今日中に取り返すなんて、絶対無理だ!」
「でも、お前、自分で取り返さなきゃ意味がないって言ってただろ?」
「そりゃ言ったけどさ! でも、こんな早く取り返さなきゃいけないなんて思ってもみなかったんだよ!」
「じゃあ、いつ取り返すつもりだったんだ?」
「それは、その……いつかだよ」
「その“いつか”ってのは、今日のことじゃねぇのか? 今日取り戻せなかったら……その、何つーかカッコ悪りぃだろ?」

 今日取り戻せなかったら、ダメだろ? そう言うつもりだったが、別に今日取り戻せなくても何も問題がないことに気づいて、言い直した。確かに今日取り戻せなくても、いつか取り戻して、それを知らせてやればいいかもしれない。だが、そいつぁ、信用の問題での話だ。そうじゃない。――こいつぁ、友情の問題だからだ。
 今日取り戻して、そいつに見せ付ける。そして、直接言ってやる。どうだ! 俺とお前の友情の証は、ちゃんと取り戻したぞ! あぁ、こっちの方がカッコ良い。後になって、メールか何かで知らせるより百万倍カッコ良い。何より、どっちも気持ちよく別れられるじゃねぇか。こいつはオレの中の理想に過ぎねぇけど、自分で取り返すとカッコ良く言ってのけたコイツには、やっぱりそうして欲しかった。
 ――オレにとって友情は、眩しいくらい綺麗でカッコいいものだったから。

「オレは頭良くねーし、あんま説教臭いこと言いたかねぇけどさ。人間、生きてりゃ突然、決断を強いられることだってあるんだぜ? おめーの場合、それがたまたま今日だったっていう、それだけのこったろう」
「……アンタがひったくり犯を捕まえた時みたいな?」
「ん? あー、言われてみりゃ、あれもその一つかな」

 言いながら、頭の中に思い浮かぶのはバス事故のことだ。“あの世界”の中で、いや、あの事故が起きた瞬間から、オレや皆は多くのことを決断した。オレの命より理樹の命を優先したこと、いずれ襲う過酷に立ち向かえるよう理樹と鈴を強くすること、その他色々、よく思い出せねぇから以下省略。

「そりゃマサ兄ぃみたいに強かったら、俺だって、すぐにでもアイツらんトコに行ってくるさ。けど、まだ俺……弱っちぃまんまなんだぜ? 毎日、風呂ん中でマッサージしてさ。上がった後で体重計に乗ってるけど、何の変化もないんだ。これってつまり、まだ俺、何も変わってない証拠だろ?」

 それはそうだろう。筋トレの効果がそんな一週間やそこらで出てくるわけがない。

「なら何か? おめぇが成長するまで待つのか? でも、そん頃にゃ、アッチの方だって同じぐらいデカくなってんじゃね? つーかよ。結局は、三対一って状況は変わりゃしないんだぜ?」
「そりゃ、そうだけど……。じゃあ、何だよ! それじゃあ、今まで俺は何のために筋トレしてきたんだよ! 意味なんか無いじゃんか!」
「いや、あるさ。知ってるか? ――勇気と筋肉って同じなんだぜ」

 え、と眉をひそめたケンタにオレは言葉を続けた。

「誰の体にだって筋肉があるように、誰の心にだって勇気はある。今のお前の勇気は、高々一個上の相手三人にビビっちまうような小さくて弱っちぃ勇気だ。けどな、それでも行くんだ。全力でぶつかってけ。多分、何度もブン殴られるし、何度も蹴られちまうだろう。痛ぇし、辛ぇしで途中で止めたくなるだろうけどな。それでも、立ち向かってけ。要するに、今日までしてきた筋トレと同じさ。苦しくても、続けるんだ。勇気の鍛え方ってのはな、結局は筋トレと一緒なんだぜ?」

 そう言って、ケンタを送り出した。



 あいつらはやっぱりあの空き地にいた。それを塀越しに確認する。
 ケンタはついて来て欲しそうな目をしていたが、オレはプロテインの買い足しに行くと言って断った。いざとなったら、誰かが助けてくれるなんて甘い考えを持った奴がケンカに勝てるわけがない。まぁ、心配して見に来ちまった以上、ただの方便になったけど。
 しかし、オレももうちょっと隠れる場所を考えりゃ良かった気がする。いや、人様の庭ってのは中々良い考えだと思った。住宅街の通りじゃ、塀だらけで隠れる場所は電柱の影ぐらいしかねぇわけだが、そこが盲点なわけさ。オレの身長なら余裕で塀越しに監視できるし、背後にある木やら何やらが更にカモフラージュ率を高めているしな。問題は、無断で人様の庭に侵入してるってことだな。バレる前に決闘が始まることを祈りつつ、オレは壁を背にして座り込んだ。壁一つ向こうが空き地なので、諍いが始まれば、音で分かる。

 ただ待つのも暇で、目の前の小枝をペキリと折る。付いている葉っぱを一枚一枚千切りながら、念じる。花占いならぬ木の葉占いだ。ケンタが決闘に勝つ、負ける、勝つ、負ける……。しばらく、千切り続けた。勝つ、負け――ぅげっ! ふん! 一枚残った葉っぱを握力に物を言わせて、指先で摘まんだまま千切り、強引に二枚にする。よし、これで勝ったな。ケンタが勝つ、と。ふぅ、勝利をも呼び寄せるとは、全く筋肉様様だぜ。あれ? 結果選べんなら、これ占いじゃなくね?

 木の葉占いの致命的な欠陥に気付いた頃、外が騒がしくなった。
 飛び起きるように立ち上がり、塀越しに空き地を見やる。ケンタが来ていた。ビシっと人差し指で指差し、空いた手を腰に当てて、仁王立ちしていた。だが、オレは知っている。その指や膝が震えているということを。そうやって、対峙することすらスゲェ勇気が必要だということを。

 ――つーか、誰だこいつ?
 ――思い出した。何かプラモ返せとか言ってた奴じゃなかったか?
 ――あぁ、あいつか。ハッ、何だよ、またボコられに来たのか?
 ――うるせぇ! 今度は負けねぇ!

 拳を振り上げ、雄叫びを上げながら、ケンタは突撃した。
 リーダー格と思われる真ん中の一番背のでけぇ野郎に、正面から殴りかかる。拳を受け止められたり、首だけ動かして躱されるなんてことはなく、ガードに上げた腕をすり抜けてケンタのパンチが頬にヒットする。所詮はガキの喧嘩だ。お互いに出した攻撃はほとんど当たる。となれば、先手を取った方が俄然、有利だ。しかし、向こう側にはそれ以上に優位性がある。――数の差だ。ケンタが一人殴りかかっている間に、右側の一人が振り上げたミドルキックがケンタの腹に、更に左側の一人が放った打ち下ろし気味のパンチが、体を折って呻いたケンタの側頭部を捉える。

 馬鹿なオレは、すっかり忘れちまってたんだ。
 オレはケンタに筋肉の鍛え方は教えたが、喧嘩のやり方は教えちゃいなかった。つーか、ケンタがここまで喧嘩慣れしてない奴だとは思ってもみなかった。オレが最初に見たのは、地面に転がされてオモチャみてぇに蹴り回されているケンタだったってのに。ケンタがどのくらい喧嘩のやれる奴か、オレはまず知っておくべきだったんだ。知らず知らずの内に、オレはケンタが小学生の時分のオレと同じぐらいの闘いの勘がある奴だろうと思い込んでいた。――弟みてぇに思ってたから。
 何で、教えとかなかったんだろう。強そうな奴は後回しにして、最初は弱そうな奴からやって数を減らせ、と。何より、囲まれないように全員を視界に入れるように下がりながら立ち回れ、と。

 怯まず何度もケンタは立ち向かうが、一発入れても、二発貰う。ジリ損だった。やがて、貰うにつれて拳に入る力も無くなり、一発入れてもそれは相打ちになり、計三発貰う。やがて、自分を守ることで手いっぱいになる。一方的に殴られ続け、ケンタは倒された。そこから先は、最初に出会った日の焼き回しだ。負けた奴を自分たちの気が晴れるまで私刑にして、オモチャにする。あるいは、刃向う意思を完全にこぼすための作業ともいえる。あいつらみたいのは、それを頭で理解してるのではなく、ただ本能で行う。
 やられてんのが赤の他人でも反吐が出そうなそれを、身内がされているとブチ切れそうだった。歯軋りしながら、反射的に塀を乗り越えようと手を掛けた。登って、塀の上からクソガキの頭が吹っ飛びそうなくれぇ強烈な飛び蹴りを食らわせてやってもいいんじゃねぇのかと思ったが、何とか思い留まり、塀から手を離した。

 迷った。ひたすらにオレは迷っていた。

 幾ら何でもガキ同士の喧嘩にしゃしゃり出る程、オレは馬鹿じゃねぇ。出会った当初はそうするつもりだったが、ケンタが拒んだ以上、それはオレの役割じゃねぇ。あくまで、オレは見てるだけ……中立だ。その立ち位置は“あの世界”で慣れている。何があっても、オレは干渉しない。意見しない。ただ日常を守る。馬鹿なオレが何か言っても、ためになるわけがないから、黙って見ていることを選んだ。

 ……けど、けどよ。今思えば――そいつぁ、逃げだったんじゃねぇのか?

 オレが馬鹿なことは、どうしようもねぇ事実だ。けど、いつしか、オレはそれをテメェが逃げるための免罪符にしちまってんじゃねぇのか? 馬鹿だからって、先に断っときゃ何も考えずに済む。行動せずに済む。責任を……取らずに済む。
 “あの世界”じゃ、恭介がいた。謙吾がいた。他の皆がいた。オレなんかより、よっぽど考えるのが得意な奴らさ。あいつらがいたから、オレは考えずに済んだ。いつもみてぇに馬鹿やってりゃいいだけだった。だが、今、あいつらはここにいない。オレだけだ。オレしか、ケンタの助けになれねぇ。だったら、オレが考えるっきゃねぇ。テメェの、たとえ最悪に出来の悪い頭でもだ。

 助けるべきなのか。これ以上、ケンタの心が傷つかないように。
 見守るべきなのか。ケンタが、この過酷を乗り越えると信じて。

 ケンタにゃ、オレは助けに入らないと言った。にも拘わらず、ここで助けちまったら、ピンチになったら誰かが助けてくれると思っちまうんじゃねぇのか? 誰かの助けを求める。あぁ、それ自体は恥じゃねぇさ。オレだっていつも助けられてる。だが、いつだって誰かに助けて貰えるって思うことは……そりゃつまり、理樹や鈴が抱えてた弱さだ。今ここでオレが助けちまったら、そいつをケンタの心に刻んじまうんじゃねぇのか?
 だが、このままじゃ、ケンタの心が折れちまう。いや、もう折れてちまってて、今は粉みじんにされてる最中なのかも知れねぇ。なら、やっぱり助けに入るべきなんじゃねぇのか?

 ゥゥゥ、と野犬が低く唸るような声が聞こえた。オレが漏らしていた。バンダナが万力の拷問具に変わったか、頭が締め付けられるように痛てぇ。熱もある。頭の毛穴一つひとつから、湯気が出てる気さえしやがる。やべぇぜ……こりゃ、高校の入学試験以来の知恵熱っぷりだ。いや、それだけじゃねぇ。もう勝敗は決したってのにケンタを痛ぶってるあいつらへの怒りと、こうなる計算が高かったにも関わらず無責任に送り出したオレ自身への怒りが脳をいている。
 どっちだ。どうするのが正しいんだ!? ちくしょう! どっちがいいのか、なんてさっぱり分かりゃしねぇ! あぁ、きっと“あの世界”での恭介も、こうだったに違いねぇ。オレはようやく、知った。“あの世界”での恭介の苦しみを、本当の所、オレはほんの一欠けらも分かっちゃいなかったことを。

 ……助けよう。ケンタの心が壊れる前に。
 そう思ったのは、今の理樹や鈴たちの姿を知っているからだった。ここで助けたら、ケンタの心に弱さを刻むことになるかもしれない。だが、ケンタなら後からでも、理樹たちのように強くなれるはずだ。今ここで、どうしようもなく身も心もズタボロになっちまうよりはずっといいはずだ。
 再び塀に手を掛け、自分の体を持ち上げ、塀の天辺に肘が付く所まで登る。

 その時、ケンタの目を見た。
 目が合ったわけじゃない。ケンタは依然、あいつらを睨みつけている。そう、頭を守るように手で抱えながら、ガードの隙間から睨みつけている。目が死んでない。諦めてない奴がする目だ。覚えがある。オレも恭介に追い込まれた時、同じ目をしていた。
 オレはまた塀を降りた。ケンタにまだやる気があるのなら、まだ闘志が折れちゃいねぇんなら……オレの出番なんか必要ない。見届ける。そう、決意した。

 ――思い知ったか、馬鹿が!

 蹴り疲れたか、クソガキどもの足が止まる。罵って、唾を吐きかけようとした瞬間、ケンタが牙を剥いた。それは、ほぼそのままの意味だ。傍にあったリーダー格のクソガキの足を抱え込むように両手で掴み、脛に噛みついた。ぎゃあ!と悲鳴を空き地に響かせながら、リーダー格のクソガキが倒れこんだ。
 まだ息の根があることに気がついたクソガキどもが、攻撃を再開する。両隣二人がケンタの頭や背、腕を蹴り始め、噛みつかれたリーダー格のクソガキが涙を浮かべながら、無事な方の足でケンタの顔を蹴り押し、または滅茶苦茶に殴る。
 しかし、それでもケンタは離さない。石に齧りつく代わりに、相手の脛に齧りついているようなモンだった。目をギュっと瞑り、むしろ、殴られれば殴られる程、蹴られれば蹴られる程、それに耐えるためにより強く歯を食い縛る。より深く、歯が相手の肉にめり込む。噛みつかれたクソガキが一層泣き喚き、右に左に身を捩る。その度にケンタの歯型も微妙に動いて、グズグズになる。ケンタの口の中を切った血や鼻血も混じってんだろうが、噛みついた脛から血が流れ出す。それを見て、残りの二人は怖気づいたように後退さった。
 そりゃそうだ。こいつらにとって、喧嘩でできる怪我といえば、青痣、タンコブ、擦り傷がせいぜいだったに違いない。鼻血でもねぇのに、流れるほど血が出るってのはもう喧嘩じゃねぇ。――戦いだ。
 こいつらは一つ勘違いをしている。こいつらにとっちゃ、この決闘は「生意気な奴をこらしめる」程度のモンだろうが、ケンタにとっちゃ、「親友との友情を示す戦い」だ。覚悟のケタが違う。

 攻撃が止んだことに気付いたのか、ケンタが震える膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。足元も覚束ず、その立ち姿に力強さの欠片もない。片目が腫れて開かず、土埃に塗れ、口元から太っとい筋の血を流す顔なんか、ゾンビみてぇだ。一人が減り、残った二人を見て、ケンタがニヤリと笑った。あれ? ケンタの前歯一本抜けてね? 殴られた時に折れたのか? 口元から流れて、顎から滴り落ちる血の大半は多分それなんだろうが、対するクソガキどもには噛みつかれた奴の血に見えただろーな。ケンタが残るクソガキ二名に向かって一歩近付く。丁度、歩き方もノロくてマジでゾンビっぽい。だが、怖ぇのはそんな姿ではなく、そんな状態でもまだヤる気マンマンだってことだ。

 ――あ、頭おかしいんじゃねぇの、こいつ!
 ――今日はこのぐらいにしといてやらぁ!

 へっぴり腰で後退りながら言っちゃあ、虚勢もいい所だった。事実上、敗北宣言だった。クソガキ二名は仲間を見捨てて逃げ出した。

 この決闘は、ケンタの勝ちだ。だが、まだやることがある。
 勝ったからには返すモン返して貰わなきゃな。

 オレはクソガキどもを追うように走り出して庭を抜け、門から出る。筋肉がお邪魔しましたー! 一方通行の角から姿を現すガキどもを待ち伏せる。角から奴らの姿が見えた瞬間、オレは二人を両肩にリフトアップした。クソガキ二名が逃げようともがくが、残念だったな。外側の腕を掴まれて、担ぎ上げられた時点でこの筋肉リフトからは脱出不可能さ。オレの首に挟んで締め上げちまえば、お前らのもう片方の手も、オレの筋力を上回らねぇ限り動かねぇしな。クソガキどもが別々に逃げなくて良かった。手間が省けた。まぁ、ビビって忘れちまってたんだろうよ。

「この、離せよ! 肉ダルマ!」
「へっ、そいつは褒め言葉として受けとっておくぜ」
「離せっつってんだろ!」
「ぶわっ! てめぇら、いい加減観念しろ!」

 ガキどもが動かない両手の分まで足をばたつかせ始める。胸を蹴られてもダメージはねぇが、足が跳ねる度に砂が顔面にかかるのはムカつく。何度かやめろと言ったが、ギャーギャー喚くだけだった。そっちがその気ならこっちにも考えがある。
 オレはガキどもを担いだまま、くるりと回って、家を囲む塀を背にする。そのまま、ブレーンバスターでもするように後ろに倒れこむ。そして、ガキどもの顔面が塀に激突する前に後ろ足を着いて急ブレーキをかける。ガキどもが急に静かになり、目の前を跳ね回っていた足が力なく垂れ下がった。よしよし、激突した衝撃もねぇし、寸止めは成功したみてぇだな。

「次、暴れたら、お前らのファーストキスの相手が塀になるぜ?」

 軽く脅して、オレはそのままの状態でケンタの元へ足を運んだ。



「よう、ケンタ。大金星だったじゃねぇか」
「あれ? マサ兄ぃ……? 何でここにいんの……?」
「ランニングの帰りだよ」
「プロテインの買い足しに行ったんじゃ……?」
「違ぇよ。プロテインの買い足しついでにランニングしてたってことだ」

 危ねぇ危ねぇ。そう言えば、そういう設定だった。
 顔が腫れて、喋りにくそうなケンタにテキトーに答えながら、両肩のクソガキを一応、丁寧に下ろす。乱暴に投げ捨ててやっても良かったが、借りてきた猫みてぇに大人しくしてるし、敗者に鞭打つような真似はしたくなかった。下ろした時、逃げ出さないように「逃げようとしたら、ブッ殺すぞ」と低めの声で脅したら、何か肩震わせてめそめそ泣き出した。取って食われるとでも思ってやがるのか? んなこたぁしねぇけどさ。良くも悪くも小学生だった。
 続いて、足を押さえて倒れてるガキの方に向かう。

「おら、ちょっと見せてみろ」

 ふくらはぎ辺りを持って、足を持ち上げた。すると、大げさにぎゃあー!と叫んだ。死ぬぅ死ぬぅとこっちもめそめそ泣き始める。どいつもこいつも泣きまくりやがって。オレぁいつから保父になったんだ? こういうのは小毬の領分だぜ……。

「男がいつまでも泣いてんじゃねぇ! こんな傷、ツバでもつけてりゃ、治――らねぇな……」

 ケンタが噛んだ傷は思ったよか深かった。つか、あいつ咬合力出し過ぎだろ。お前の失くした前歯、こいつの脛に突き刺さってるじゃねーか。殴られて、ぐらぐらになった歯で噛みついたからだろうけどな。喧嘩し慣れてねー奴は手加減の仕方も分からねーから、こういう時怖ぇな。とりあえず、応急処置に前歯抜いて、持ってた予備のバンダナを取り出してキツ目に巻いておく。こいつは病院行きだな。
 そして、最後にケンタだ。殴られまくってたこいつが何気に一番ヤバい可能性がある。

「ケンタ、23×2はいくつだ?」
「え……? いきなり何……?」
「いいから、答えろって」
「えーと、46?」
「フンフン、46か……」

 しゃがみ込んで、人差し指で筆算する。えーと、三二が6で、二二んが4で……46っと。

「頭の方は大丈夫みてぇだな」
「むしろ、今の計算で筆算が必要になるマサ兄ぃの頭の方がヤバい気がする……」
「計算は苦手なんだよ! 馬鹿ですみませんでしたー!」

 続いて、目の方も指が六本に見えたりといったファンタジーなことはなかった。

「おめー、顔面がえらいことになってるぞ? 何だ、工事中か?」
「俺……そんな酷ぇ面になってんの……?」
「安心しろ。夜中に鏡見たら、お化けがいると勘違いしちまう程度さ」
「……死んだ方がマシな面ってこと?」
「いや、男前になったって意味だな」

 バスケットボールを掴む感じで手を置いて髪の毛をグシャグシャにしてやった。髪の下も工事中だったようで、やたらとデコボコしていた。ケンタは一瞬、顔を顰めたがその内、へへ、と隙っ歯を見せて笑った。
 ケンタの傷はほとんどが打撲だった。保冷剤でもありゃ、冷やせるが生憎とそんなもんは持っちゃいない。全員の怪我はこんな所か。それはそれで置いておいて、こっちの本題の方も済ませておかなきゃな。

「で、ケンタのプラモ持ってる奴ぁ、どいつだ?」

 殆んど無傷のガキ二人に訊く。ただ訊いただけなんだが、脅しが効きすぎたか、答えたら殺されるとでも思ってるらしく、顔を青くして下を向いたまま、どっちも答えない。何もしないから答えろと促すと、一人が小さく手を挙げた。話によると家に置いてあるのだそうだ。家まで案内させるべきか、持ってこさせるべきかを考えていると、突然ケンタが叫んだ。

「あ! マ、マサ兄ぃ、今何時!?」
「んん? えーと……六時前ぐらいだな」

 ポケットからケータイを取り出して、確認する。

「や、やべぇ! あいつ、もうすぐ行っちゃうよ!」
「あいつって……お前の親友か!?」

 オレの問いにケンタは何度も頷いた。



「筋肉が通りまぁぁぁーす! 暑苦しい筋肉が通りまぁぁぁーす!」

 けたたましく鳴り響くベルとオレの怒声に、道行く人々は皆振り返り、道を開けた。
 オレの家が近くで良かった。時間がないことが判明したオレたちは、まず二手に分かれた。移動手段を確保するオレと、プラモを回収するケンタにだ。勿論、怪我してたあのガキは無事な一人の肩を借りさせて、親の家に帰した。オレが自分の家から、中学時代まで使っていた自転車に跨って空き地に戻ってみると、ちゃんとプラモを手にしたケンタがいたので、後ろに乗せて、駅へ向かって爆走し始めた。今はその最中だ。

「必殺! 筋肉タァァァーン!」

 また一つ角を曲がる。到底曲がりきれないスピードで突っ込み、無理やり電柱やら壁やらを蹴って曲がるという筋肉逞しいオレにのみ可能な荒業だ。

「マ、マサ兄ぃ! 無茶苦茶過ぎるぜ!」
「あぁ、オレはいつだって無茶苦茶さ! むしろ、無茶苦茶の方がオレなんだ! 意味は破天荒だ!」

 とにかく、漕いだ。漕いで漕いで漕ぎまくった。
 オレの知ってる限りの抜け道を通った。車輪止めの間を抜けて、公園の真っただ中を通ったし、自転車道の舗装がされてないような階段だってガタンガタン揺れながら下った。商店街の歩行者天国も自転車で通ったし、赤信号なんか九割方無視した。

「おい、ケンタ! 後何分でおめぇのダチが乗った電車は出る!?」
「……もういいよ」
「あぁ!? 何言ってんだてめぇ!?」
「後、五分ぐらいしかないよ。駅まで間に合わないよ!」
「ここから、五分か……!」

 オレの筋肉が生み出す運動エネルギーを100%伝動する自転車は、車なんかよりバイクなんかより、圧倒的に速いと信じて疑っちゃいなかったが、それでも、タイムリミットまでに駅までギリギリ間に合いそうになかった。

「おい、ダチが乗る電車はどっちに出る!?」
「そんなこと知ってどうすんだよ! もういいって! 間に合わないって! 別にいいじゃん、ケータイとかで知らせればさぁ!」
「てめぇ、ふざけんな! ここまでやって、最後にそんなダッセェ教え方で知らんのか! ちゃんと直接見せてやった方が、色々良いに決まってるだろうが! 気分とか思い出とか後味とか気分とかよぅ!」
「今、気分って二回言ったぜ!?」
「うっせぇ! いいから、さっさと答えろ!」

 引っ越し先やら電車の番線など思い出し、西に出るということが分かった。

「ちょっと予定変更するぜ!」

 ハンドルを捻り、方向を変えた。――向かう先はオレの学校だ。
 


 オレの通ってる学校の近くには、川が流れている。野球なんかで理樹がカッ飛ばした球を拾いによく行く川だ。あの川沿いの道路をそのまま突き進むと、一つの橋が見える。電車が走る橋だ。この辺の電車は殆んどあの橋を渡るが、ケンタのダチが乗る電車もそこを渡って対岸を抜けていくことは既に確認済みだ。ってことは、だ。

 オレが併走すりゃ、取り返したってことをきっちり見せ付けられるじゃね?

 本当にそんなことができるかどうかなんてこたぁ、基本馬鹿なので、深く考えなかった。でも、できる気がした。何故なら、オレには筋肉がいっぱいついてるからだ。
 緩やかなスロープを猛然と駆け上がり、土手の上に出る。沈む西日を受けて、川の水面が銀の鱗を浮かばせていた。河原で遊ぶガキやら、トレーナー姿でジョギングする中年やらがポツポツいたが、全部、後ろに置き去りにする。

「ケンタ! 連絡はもうしたな!?」
「うん、した!」

 オレがせっせと立って漕いでいる間に、ケンタには自分のケータイを使って、ダチに連絡をつけさせている。伝えたのはただ一言、南側の川を見ろとだけ。話し声がしなかったから、多分、メールだろう。器用な奴だ。片手はプラモで塞がってるってのに。ケンタの右手にはプラモが握られている。メリークリスマス的な名前をしたそのプラモも、西日を受けて真っ赤に……つか、元から赤かった。
 もうちょっとで橋って所で、カタンカタンと小気味いい音が聞こえ出した。と思ったら、既に電車の頭が川を渡り始めていた。

「うぉ、やべぇ!」
「マサ兄ぃ! スピードアップ!」
「分ぁってるよ! しっかり捕まってろよ! 行っくぜぇぇぇー!」

 ぐいっと自転車を傾かせ、坂に突っ込む。
 ぬぉぉぉりやぁぁぁー! オレとケンタが二人乗りすることで100万パワー+100万パワーの200万パワー! いつもの2倍の傾斜が加わって200万パワー×2の400万パワー! そして、いつもの3倍の立ち漕ぎを加えれば400万パワー×3の! 電車ぁぁぁー! てめぇを上回る1200万パワーだーッ!

 雑草だらけの坂を下り、小石だらけの河原を横切り、盛大な水飛沫を上げて川ん中に突撃した。水の抵抗が稼いだ速度を見る見る間に失わせ、流水と川底にある石が車体のバランスを狂わせてくる。
 速度が下がるからバランスも失うわけで、なら、速度を上げるべく更に筋肉を酷使すりゃいいんだ。筋肉しか能のないオレはそう考え、太腿四頭筋その他諸々の筋肉たちを奮い立たせた。ペダルを漕ぐ度にバシャバシャと水滴が跳ね上がる。即席の人力水車みてぇだ。ここまで来るのにも全速力だったが、ここにきて更なる加速を求められる。流石の筋肉ことオレでも、酸素を求めて肩で息をせずにはいられない。こいつぁ明日は筋肉痛だな。望む所だぜ! こんだけキツイ運動をこなせば、オレの筋肉は更なる高みに突入することだろう。うへへぇ、イヤッホーゥ! 今から涎が止まらぬぇー! 若干、頭に回る酸素が足りなくなってきて、ただでさえ低いオレの知能レベルが下がってきてるのが分かった。
 何も考えず、目線をハンドルに落とし、右、左、右、左と規則正しく、しかし、激しい速度で上がってくる自分の膝を親の仇のように睨みつけていた。正直な所、オレは忘れていた。ケンタがちゃんと親友にプラモを見せられているかとかそんなレベルじゃなく、何で自分が川を自転車で渡るなんて酔狂なことをしてるのかってレベルで忘れてた。

「マサ兄ぃ、見て! あいつだ!」
「はぁ?」

 だから、ケンタがオレの腰を叩いて知らせた瞬間、そんな間抜けな声が漏れた。視線を上に向ける。電車の窓から身を乗り出しているガキがいた。遠くて、顔はよく見えなかった。背はケンタと同じぐらいのように思う。そして、こちらに向かって振る手には青いプラモが握られていた。

 ――あぁ、オレの役目は終わったな。

 気が緩んだからか、進路上の川底に潜む大っき目の石に気付かなかった。踏んで完全にバランスを崩す。当然のように転倒し、オレとケンタはまとめて水柱をおっ立てた。

「あいつ、ちゃんと見えたかなぁ?」

 ズブ濡れになったまま、ケンタは上半身だけ起き上がる。オレは寝転がったまま答えた。

「いや、見えたから青いプラモ持ってたんじゃね?」
「たまたま持ってただけかもしんねーだろ?」
「まぁ、どっちにしろだ。オメーは友情を示せたんだ。それで十分だろ?」

 オレがそう言うと、ケンタはへへっと笑った。だから、オレもへへっと笑ってやった。限界まで筋肉を酷使してオーバーヒート気味になった体に、川の流水は心地よかった。


    §    §    §


 その後、ケンタと会う機会は殆んどなくなっちまった。
 恭介も帰って来て、リトルバスターズとしての活動――要は野球だ――にオレも参加するようになったからだ。それに、あのクソガキどもからプラモを取り返すという目的が達成された以上、オレたちが会う理由もなくなってしまった。そんな理由がなくても会えばいいんだろうが、会いたいから会うというのは気恥ずかしかった。多分、あっちも同じようなモンだろう。
 そんなある日のことだ。ロードワークから帰ってくると、理樹の他に恭介や謙吾がいた。

「ん? 何だお前ら、いたのかよ」
「あ、真人おかえり」

 謙吾も同じように「おかえり」と言ってきたので、オレも「ただいま」と返した。

「何やってんだ?」

 ちゃぶ台を取り囲むように座っている三人の姿を見て、オレに隠れて逞しい筋肉を付けるべく筋肉談義に花咲かせてるか、テーブルゲームでもしてんのかと思ったが、どうやら違うらしい。何か箱らしき物と細っこいプラスチックの数々が目に入る。

「あぁ、これ? プラモ作ってたんだ」
「理樹が言うには何故か、ドアノブの所にプラモが入ったビニール袋が引っ掛けてあったらしい。加えて、このような置手紙が入っていた」

 謙吾がヒョイとフリスビーの要領で、封筒を投げて寄こす。曲線を描いて来るそれを難なく二本指で挟んでキャッチし、中を開けてみる。便箋は一枚で、書いてある文章も一言、デカデカと書き殴ったような文字で、『やるよ!』と書いてあるだけだった。

「……これじゃ、殆ど分からなくね?」
「うん、でも、恭介があげるって言ってるんだから素直に貰っておけばいいって言って……」
「で、今作ってるんだが……どうも俺はこういう細かい作業は向かんな」
「おめぇ、裁縫チクチクしてるじゃねぇかよ」
「裁縫とプラモを一緒にするんじゃない!」

 オレから見たらどっちも似たようなモンだと思うが、謙吾にとっちゃ違うらしい。

「よし、ウイングガンダムゼロカスタム完成だ!」

 さっきから黙ってた恭介が突然、声を上げた。

「早っ! まだ作り始めて五分ぐらいしか経ってないのに!?」
「恭介、お前プラモ作ったことがあるのか?」
「いや、ない。ないが、いざ作り始めてみると、次にどのパーツを組み合わせればいいか、頭に浮かんできた。まるで何かに導かれたようだったぜ……」

 まぁ、手先器用っぽいし、恭介なら何かそういうのもあるかもなって気がした。

「でも、これ誰か持って来たんだろう?」
「良い暇つぶしにはなったけどな」
「しかし、差出人不明というのは些か気になるぞ」
「へっ、色々と書き忘れるような馬鹿だが、良い奴だよ」
「え? 真人、心当たりあるの?」

 オレはニッと笑みを広げつつ、言った。

「――ただのマッスルメイトさ」

END



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 ぴえろの後書き

 いやぁ、今年の冬はゴッサムだねぇ。ってなわけで、草SSでボツった筋肉SSその2。ボツった以上、KB制限なんか無視して書きまくった。おかげですごいKBになった。ちょっと後悔してます。(時期的な意味で)
 真人にはやっぱり、こういう真っ直ぐな少年ジャンプ的王道ストーリーが似合う。実際は鈴とイチャつく理樹への当てつけに、他の男を見つけて浮気する真人が書きたかっただけですが。すみません、呼吸するように嘘をつきました。本当の創作動機は、真人をお兄ちゃん的なポジションに立たせたかったとか、そんな感じだったと思います、多分。
 そして、相変わらずオリキャラが出ます。これが自分の好きな手法なんです。あくまでメインは原作キャラで、オリキャラをダシにすることで、また違った味わいを出すって言いましょうか。無くてもいいけど、あると違った楽しみ方ができる。そんな、ご飯にかけるふりかけ的なオリキャラの出し方好きなんです。狭いようで広いSS界で、こんな変わった書き方をしてる奴が一人いたっていいだろうと思うのですよ。(・∀・;)
 後、殆ど関係ないですが、ガンダムWのプラモを小道具に出したのは恭介にウイングガンダム作らせたかったからです。いや、マジでそれだけです。「声優ネタ乙ww」とでも思って下さい。しかし、グルメレースできそうなぐらい食品関連の単語が出た気がする。まぁ、真人ですし。

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