「僕さ、今まで一度だけ浮気しかけたことがあるんだよね」

 おそらく、それは鈴にとって突然の告白だっただろう。どんな顔をしているかなと、グラスの中で赤ワインを転がすのを止め、顔を上げる。理樹がその顔を形容することはなかった。鈴は自分の両腕を枕にして、テープルに突っ伏していた。シンとしたリビングに彼女の寝息が静かに沁み渡るように響く。
 明日も早いもんね、と苦笑いを零して理樹はグラスを呷った。先ほどの血迷った発言を赤ワインと一緒に飲み込む。一度出た言葉だが、聞かれなかった以上、別にいいだろう。結婚記念日に口にするには些か不謹慎な発言に思えた。一歩間違えば、離婚の危機だ。言うなら酔って理性が緩む前に言うべきだった。
 その後、ボトルを空けた理樹は片付けに入った。いつもよりほんの少し豪華な皿、めったに使わないワイングラス、それらがママレモンの泡に塗れていくと急に所帯じみた気分になった。タオルで手を拭くと、再び鈴の所へ戻る。肩を揺すりながら「こんな所で寝たら、寝違えるよ」と言うと、鈴はうみゃぁと猫のように呻いた。それを「放っておいてくれ」と解釈した理樹だが、放っておけるわけがない。
 溜め息を吐くと、お姫様だっこをして寝室まで運ぶ。こんなことをしたのは結婚式の日に周りに囃されて以来だった。もうあれから何年経っただろう。思い返しても、理樹はすぐに計算できなかった。
 鈴をベッドに横たえた後、部屋の窓を開けた。吹き込んでくる風が冷たい。雨が降っていたからだ。火照った体には丁度涼しかった。マイホームが田舎にあるせいか、六月ともなると、蛙と鈴虫がしきりに鳴いて五月蠅いぐらいだった。大学時代はそうではなかった。外から入ってくる音は騒音だけだった。――線路を走る電車の音。今はそれだけしか思い出せない。

「……僕さ、今まで一度だけ浮気しかけたことがあるんだよね」

 呑みこんだはずの言葉を吐き戻す。どうしても今言いたかった。ベッドに腰掛け、理樹は古傷をなぞるようにゆっくりと言葉を紡いでいった。




終電の行方

written by ぴえろ




 理樹と鈴、二人は大学時代、生活時間の殆どを共有していたが、ゼミだけはそれぞれ違う所に入ったので、例外となっていた。そこでできた友人もまた共通のものではないことが多かった。
 その日、鈴はゼミ仲間と旅行に行っていた。講義の無い土日を挟んで、一泊二日の温泉旅行。ゼミ仲間には理樹の知らない男もいる。いつも我がままを通すのように高圧的に言われれば、反発できただろうにその時は妙にしおらしく、まるで自分でした悪戯を告白する子供のようにこちらの機嫌を窺いながら、お願いをしてきた。彼女自身、悪いという意識はあったのだろう。理樹は入ったゼミのレポートが多くて辛いといつも愚痴を零していたし、鈴が旅行に行く日も休みを利用してレポートを仕上げる予定だった。鈴自身は温泉に興味があったわけではなかったが、何でもその旅行を通じて、あるゼミ仲間同士を付き合わせるという女性陣だけの裏の目的があったらしい。つまり、自身のためでなく、友人のための旅行。
 その辺りの事情を聞くと理樹も行くなとは言い難かった。言えば、鈴は旅行を行くのを取り止めるだろう。そして、裏表の無い鈴のことだ。行かなかった理由をゼミ仲間に問われれば、包み隠さず告げるに違いない。理樹が行くなって言ったから、と。そうなれば、自分の与り知らない所で心の狭い男だという噂が広がりそうだった。面白いわけがない。それにその日一緒にいた所でレポートにかまけて、大して構ってやれそうにない。結局、理樹は許可した。「何とか日帰りで帰ってくる!」と鈴は嬉しそうにしていた。

「あっついなぁ……」

 額を拭うと汗に濡れていた。夏が近づいている証拠だった。この季節になってくると、長めの髪が鬱陶しくなってくる。自分でさえこうなのだから、長髪の鈴どうなのだろう。何年もあの髪で過ごすと慣れるのだろうか。レポートに疲れて、無駄なことを考えた――そんな夕暮れ時のことだった。
 ピンポン、と調子の軽い電子音。宅配でも来たのかな、と理樹は腰を上げた。鈴の母からのお裾わけという補給物資がよく届くのだ。施錠を解き、扉を開ける。無表情で立つ人物を見て、目を丸くした。

「久しぶりね、直枝理樹」

 二木佳奈多、元風紀委員長。
 旧友との再会のはずなのにニコリともしない相手を見て、咄嗟に思い返せたのはそれだけだった。




 玄関先で何を話したか、理樹はあまり覚えていない。当たり障りのないことを言った気がする。玄関でいつまでも立たせておくのも問題だろうと部屋に入れたが、後になって、彼女と同棲してる身で別の女性を奥の部屋まで迎い入れることの方が問題だと思い至った。が、自分と佳奈多の分の麦茶をお盆に乗せておきながら、今さら出て行けとも言えなかった。混乱していた。
 コースターからコップを持ち上げ、半分近くまで飲み干す。テーブルに戻すと氷がカランと涼しげな音を立てた。溜め息を吐くと麦茶の香ばしい薫りが鼻を通った。少しだけ冷静になれた。

「何しに来たの? っていうか、何でここいるの知ってるの?」
「暇だから、遊びに来たのよ。ここを知ってるのは、年賀状の住所覚えてたから」

 佳奈多がカーペットを撫でながら、律儀に答える。
 昨年、鈴は何故か年賀状に目覚め、クラス名簿を引っ張り出して、方々に送っていた。佳奈多も高校三年の時に一緒のクラスになったので、送られたのだろう。この事態はある意味、鈴のせいでもあるが、返ってきた年賀状の懸賞で霜降り牛肉が当たり、理樹もたっぷり堪能したので、強く文句も言えない。

「表札に鈴の名前があったけれど、いないの? もしかして、別れたのかしら?」
「いやいやいや、普通に出かけてるだけだから」
「どこに?」
「温泉旅行に行ってるよ。当分は帰ってこないんじゃないかな」
「あなたは行かなかったの? 恋人なんでしょう?」
「気が乗らなかっただけだよ」

 鈴が日帰りで帰ってくるかもしれないことも、そうなった経緯も一から説明するのが面倒で理樹は省略した。

「そう、それは好都合ね」

 何が、と訊ねる理樹の視線を受けて、佳奈多は答えた。

「無用のトラブルが起こらなくて済んだという意味よ」

 そうかな、と理樹は思った。別段、これまで鈴以外の女性と一緒にいたこともあるが、鈴が焼餅を焼いたことなど一度もない。流石に他の女性と二人きりになったことはないが、あの鈴がそう態度を変えるようには思えなかった。と、そこで最初の問いかけが未だ答えられていないことに気がついた。
 暇だから遊びに来たというが、高校を卒業して以来、佳奈多がここへ来たことはなかった。だからこそ、理樹も驚いた。理樹たちが高校生だった時分は、同じ痛みを知る者としてシンパシーを感じていたし、それ故に理樹と鈴、佐々美と佳奈多の四人は仲良くしていた。当人たちはどう言うか分からないが、理樹はそう思っている。夕食を四人で食べることもあったし、鈴と佐々美の喧嘩がじゃれ合いで済まないレベルになりそうなると理樹と佳奈多、二人で止めに入ったりもした。知り合いの知り合いから、友人にはなっていた。あるいは、気恥しさから面と向かって確かめたことはないが、親友と呼べるくらいにはなっていたかもしれない。
 当時なら突然、来訪してきても大して驚かなかっただろう。同じ寮生だったのだから。いや、やはり驚くだろうが、今のように戸惑いはなかった。とどのつまり、理樹は違和感を覚えていた。あの二木佳奈多が、連絡も脈絡もなく唐突にやって来るものだろうか。ここ数年、真っ当な近況報告すらし合っていないというのに。
 もしかすると、三枝葉留佳のようなトラブルメーカー気質が覚醒しただけかもしれない。姉妹なのだから、あり得ないとは言い切れないだろうなどと戯言を考えていると、無言の間に耐えきれなくなった佳奈多が口を開いた。

「テレビ、付けていいかしら?」
「え、あ、うん。いいよ、どうぞ」

 普段は鈴と激しいチャンネル争いをしているというのに、あっさりと理樹はその権利を譲渡した。テーブルの片隅にあるリモコンを佳奈多の傍に移動させる。佳奈多は礼を言うと、テレビの電源を付けた。佳奈多も特に見たいものがあったわけではないようで、適当にチャンネルを回すと、よくあるバラエティーの再放送ものに落ち着いた。

「あの芸人、この頃はまだテレビに出てたのね」
「え、佳奈多さん。知ってるの、この人? バラエティーとか見そうにないのに」
「一度だけ暇つぶしに見たことがあるだけよ。低俗且つ意味不明で、つまらなかったわ」

 佳奈多に言わせれば、全ての芸人がつまらないの一言で集約されるのではないか。思えば、高校時代、彼女が声を上げて笑っている所など理樹は一度たりとも見たことがない。

「第一、何らかの生産に寄与してるわけでもないのにお笑い芸人なんて職が成立してること自体、気に入らないわ。世俗に寄生して、媚を売って生きてるように見えるもの」
「……笑いを生み出してるよ」
「形の無いもので金銭を得るなんて、まるで詐欺のようね」

 佳奈多の口端がフッと嘲りにつり上がる。彼女のことは決して嫌いではないが、こういう笑みだけは好きになれなかった。

「でも、音楽家だって、形の無い物で金銭を得てるじゃない。物の生産に寄与してなくても、人の幸福に寄与しているよ」
「だから、お笑い芸人もいていいはずだってこと?」
「僕はそう思う。少なくとも、僕には大勢の人を笑わせるなんてできないし、佳奈多さんもできないでしょ」
「そうね、できないわね。……個人的な感情は兎も角、己には無いスキルを持つ人間は認めるべきかしら」

 奇妙な気分だった。いつもこういう下らない世間話は鈴と行っているのに、今は佳奈多と行っている。しかも、ぎこちなさも感じない。高校時代、二人っきりで話したことなどないはずなのに。単に信頼の素地が高校時代に出来上がっていたからだと分かっていたが、鈴への罪悪感が募る。リモコンと共に彼女の居場所まで譲ってしまったような錯覚を覚えたからだ。
 佳奈多は更にチャンネルを回し、料理番組で止めた。キスの天ぷらがブラウン管に映っていた。

「何か、お腹が減ってる時にこういう番組見ると、空しくなってくるなぁ」
「あなた、まだ夕食、食べてなかったの?」
「え、まだだけど」

 そう、と佳奈多は呟くと、リモコンでテレビを消した。テーブルに片肘を突きながら、理樹に問いかける。

「ねぇ、直枝理樹。ところであなた、やっぱり鈴と一緒に料理作ったりするの? 二人暮らしだし」
「うん、まぁ一応。交替制で、って言っても、実際には僕が作ることが多いけど。おかげで、今じゃ一通りの料理は作れるようになったよ。……それがどうかした?」
「作ってくれないかしら。私もまだ夕食、食べてないのよね」
「えぇー、いやいや、何でさ!」
「別に作ってあげてもいいけれど、気が引けるじゃない。恋人同士の生活空間に踏み入るのって」

 既に踏み入っておきながら、何を言っているのだと理樹はツッコミを入れかけたが抑えた。

「大体何でここの台所を使うのが前提なのさ。外食すればいいじゃないか」
「この辺り、大学生が多いみたいだけれど、そんな中を出歩いたら、大学で妙な噂が立つんじゃない?」
「いや、同伴が前提なのもおかしいでしょ。別々にここを出て、違う所で食べればいいじゃない」
「別々にここを出る辺りが、何だかラブホテルでの不倫の鉄則みたいね。卑猥ね、卑猥だわ」

 理樹は佳奈多と言葉を交わすのが段々億劫になってきた。鈴とはまた別種の疲れだった。

「分かったよ、作ればいいんでしょ。何かリクエストはございますかー」
「パスタ、お願いできるかしら。できれば、シーフード風の」
「分かりましたー。しかし、食材がありませんので買い出しに行って参りますー。少々、お待ち下さいー」
「投げやりなのが気になるけど……悪いわね。外、出かけたくないのよ」
「まぁ、今日は暑いからねー」

 六月というのに、その日は妙に暑苦しかった。理樹も暑い中、歩いて大学まで行くのが嫌で、自宅でレポートを仕上げているのだった。そろそろ、押し入れから扇風機を出す時期かも知れない。デザートにオレンジ据えてやろうか、と靴を履きながら、半ば本気で思ったが後が怖いので、実行するのは止めておいた。
 ドアを開ける瞬間、ガラリとベランダの窓が開く音がして、振り返る。

「開けていいわよね?」
「でも、そこ開けると、たまに来る電車の音が五月蠅いよ?」

 開けた方が風が吹き込んで涼しいが、騒音のデメリットがある。だから、レポートに集中したかった理樹は閉めていたのだ。窓を閉めれば聞こえなくなる程度のものだが、数分ごとに鳴るので五月蠅い。理樹が忠告して数秒後、早速、カタンカタンと電車が通過する音が部屋に届いた。

「別に構いやしないわよ、このぐらいなら。あら? これ……」

 佳奈多が手を伸ばし、窓の端にあるガラス細工に触れる。

「ああ、それ。縁日で買ったんだよ。夏が来たら暑いからね、ここ。クーラーがないこの部屋にせめてもの慰めだって、鈴がね」
「そう、風流ね」

 手を放すと、それはくるくると回りながら、リリンと涼し気な音を立てた。金魚が描かれた風鈴。しかし、それは電車が線路を走る度に掻き消えてしまう。理樹と鈴、二人揃って失念していたことだった。




「え、何やってるの?」

 近くのスーパーから、帰った理樹の第一声がそれだった。
 ナイロン袋を床に下ろし、靴を脱いでリビングの方へ目をやると、そこには木製とおぼしき、細長い直方体を指先に摘まむ佳奈多がいた。端的に言えば、ジェンガで遊んでいる佳奈多がいた。

「見ての通り、遊んでるのよ。私がジェンガで遊んだら悪いのかしら?」
「いや、悪くはないけど、シュール過ぎるというか、イメージに合わな過ぎるというか。何があったの?」
「別に。礼代わりに掃除した後、押し入れで見つけたから、暇潰しに。昔、これで遊んだことあるのよ。あの子、そそっかしいからすぐ倒して――」

 ふと佳奈多が表情を緩めた瞬間、穴ぼこだらけの木の柱を倒してしまった。幾つものパーツがテーブルの上を跳ね、落ちていった。零れ落ちたパーツを佳奈多が拾い集める。

「それって、葉留佳さんのこと?」
「昔の話よ。ずっと昔の、ね」
「佳奈多さんにもそんな過去があるんだ。ちょっと意外」
「そんなことより、押し入れの中、こういうので溢れてたけど、どれか捨てるなりして、整理したら?」
「あー、野球盤とかね。それはちょっと僕もそう思わないでもないんだけど」
「埃も被ってたし。そんな毎日、鈴とそれらで遊んでるわけじゃないんでしょう?」
「うん、でも、それ全部……元は恭介の物だからさ」

 パーツを拾う佳奈多の手が止まった。そう、と呟くと最後のパーツをテーブルに置いた。

「悪かったわね。故人の遺品で勝手に遊んだりして。そんな資格もないのに」

 理樹は少し吹き出した。慌てて、手で覆ったが遅かった。案の定、佳奈多は剣呑に睨みつけていた。

「何がおかしいのよ」
「いや、だって。そりゃ、確かに大事な物には違いないけど……オモチャだしね。遊びたい人が遊べばいいと思うよ。資格とか大仰なこと言わずにさ。恭介も仕舞われてるより、遊びに使ってくれた方が喜ぶと思うよ」
「そうかしら」
「そうだよ、きっとね」
「あなたが言うなら、そうなんでしょうね」

 佳奈多は再び、ジェンガを組み立て始めた。

「あぁ、そう言えば、掃除したって言ってたけどそんなに汚かった?」

 部屋を見回す。理樹には出かける前と大して変わったようには見えない。

「心配しなくても、物の位置は動かしてないわよ。もうちょっと小まめに掃除したら?」
「これでも週一でやってるんだけど……」
「カーペットにポテトチップスの食べカスが落ちてたわ。それとあなた、かなりの間、テレビのコンセント付けっ放しにしてるでしょう。埃まみれになってたわよ。出火の原因にもなるから今後気をつけなさい。それと水回りは小まめに拭くことね。洗面台、水垢がついてたわ。本当はカーテンも洗いたかったけれど、あなたタバコは吸わないみたいだし、それはいいわ。けど――」
「あー、はい。今後気をつけます。今からパスタ作るから、ちょっと待ってて」

 説教が続きそうだったので、台所に逃げ込んだ。
 それ程時間を空けてないが、佳奈多は一体どこまで掃除したのだろうと清掃能力の高さに理樹は畏怖した。カーテンを洗う? そんなこと理樹同様、鈴も想像しないことだ。佳奈多が元風紀委員長であることをつくづく思い知る理樹だった。あまり行儀のよろしくない鈴も彼女に攻められて、困った顔をすることが多かった。変わってないかと思えば、風鈴のことを風流と評したり、ジェンガで遊んだりと変わったと思う所もある。雑念混じりで作ったシーフードパスタは「食べられるわね」と佳奈多に評された。一応、気を遣ったのだと最大限、好意的に解釈した。
 やがて、部屋に電気を点ける頃になったが、佳奈多はまだ帰る素振りを見せない。子供ではないのだから、帰り時ぐらい自分で分かるだろうと理樹は特に何も言わなかった。別段、一緒にいるのは不快ではなかった。遊びに来たと言ってるのだから退屈させてはなるまいと、シーフードパスタを食べ終わった後は、話題探しにテレビのチャンネルを回したが、それも尽きた。内心、雑巾を絞り切るような心境で別の話題を探したが、やがて、そうして一人で四苦八苦してる自分が馬鹿らしくなった。そもそも、理樹が招いたわけでもない。今はただ佳奈多と同じテレビを無言で眺めていた。

「暇ね」
「まぁね」

 退屈なら帰れば、というニュアンスを含めて、テーブルに頬杖を突いたまま、理樹は言った。

「ジェンガでもしましょうか?」
「え?」

 テーブルの向こうに座る佳奈多の手には、木製の小さな直方体があった。

「いいよ。でも、ただやっても詰まらないだろうし、何か罰ゲームでもつけない?」
「なら、負けた方が勝った方の言うことを一つ聞くっていうのはどう?」
「それって勿論できる範囲でだよね?」
「当然でしょう。出来もしないことを言うなんて、馬鹿のすることよ」
「オッケー。じゃ、罰ゲームはそれで。時間もあるし、三回勝負でやろう」

 二人はパーツを組み立て、スタートの状態を作り上げ、ゲームを開始した。成人した人間が今更ジェンガなんて、という考えが過ぎらないでもなかったが、理樹は経験している。どんな遊びでも真剣になれば、面白いのだ。特に罰ゲームなどというマイナス要素を付け加えると俄然真剣にならざるを得ない。
 理樹と佳奈多が思い思いの場所をキツツキのように突いて、パーツを少し出すとそれを丁重に抜き取っていく。テレビを見ていた時と同様にお互い無言だが、そこにある空気は張り詰めている。
 理樹が下段のパーツを突く。固い。簡単には取れない感触だった。むしろ、突いた衝撃で全体が揺れ、思わず声を上げそうだった。揺れが治まると溜め息が漏れた。既に取り易い上段は最低限、木柱は穴だらけで、勝負は終盤に差し掛かっている。ここからは更に集中力が求められるだろう。深呼吸を一つする。僅かに出た所を爪先で摘まんで、慎重さ以外を忘れたような牛歩の速度で抜いていく。

「私、実はレズなのよね」
「はぁっ!?」

 驚いた時にはもう遅かった。バランスを崩したジェンガはもう立ち直る気配もなく、横倒しになった。

「ちょっ、そんな妨害ありなの!?」
「私はただ喋っただけよ。言論の自由は尊重されるべきでしょう?」
「いやいやいや、今のは自由過ぎるでしょ!」
「勿論、嘘よ。むしろ、動揺される程、信憑性があったことがショックだわ」
「いや、まぁ、その……ごめん」

 悔しかったが、理樹は同時にやられたとも思った。上を行かれたという感じ。理樹は丁重に抜き取ることしか考えてなかったが、佳奈多はそうではなかった。もしも、リトルバスターズ内での遊びなら、今の判定は間接的な妨害は想定して然るべきだったということでアリだっただろう。
 そこから先は集中力に加えて、何を言われても動じない精神力が求められた。そう言えば、昔、同じような方法で動揺を誘うキャッチャーがいたっけと理樹は漫然と思ったが、すぐに切り替える。油断して勝てる相手ではない。佳奈多が動揺しそうな発言とは何なのだろうか。

「僕、実はゲイなんだよね」
「そう、せめてバイなら鈴も救われたでしょうにね」

 二番煎じの上、切り返された。肉を切らせて、骨まで断たれたといった所だった。もしかすると負けるかも知れない。嘆息して、時計を見上げた。時刻は既に午後十時を射していた。

「鈴、遅いなぁ。ちゃんと帰ってくるのかなぁ」

 ガシャという音を耳にして、理樹が首を前に戻す。ジェンガが崩落していた。

「……あなた、鈴は温泉旅行に行っていると言ったわよね? 当分帰ってこないんじゃないの?」
「そうだけどさ。面倒だから言わなかったけど、ちょっと事情があって……」

 鈴が温泉旅行に行った経緯を話すと、佳奈多はそう、とだけ呟き、苦々しく表情を歪めた。

「何で倒したの?」
「電車の音に驚いただけよ」

 確かにカタンカタンと部屋に響いている。が、それは何時間も前からそうなっているものだ。電灯で虫が入ってこないかとも思ったが、網戸があるし、暑さの方が不快だったので、そうしていたのだが、電車の音が驚く原因になるものだろうか。理樹は少し考えたが、勝つには勝ったので数秒後には気にしなくなっていた。
 ラストゲームの終盤、再び佳奈多の妨害が始まる。

「ねぇ、直枝理樹。あなた、電車は好きかしら?」
「まぁ、人並にはね」
「私は嫌いだわ。自由が無いもの。結局、あれは線路を進むか戻るかしか、選べないでしょう?」
「他にもあるよ。何所でも降りていいし、乗る電車を選ぶ権利もある」
「そうね。私はその権利を行使して、あなたのいる町まで来たんですものね」

 パーツは半分近くまで抜けた。後、もう少しで安堵が得られる。

「でも、それが乗りたくもない新快速だったらどうする? 」
「え、何、どういうこと?」
「そうね、発車ギリギリで誰かに背中を押されて乗ってしまったとしましょうか」
「それ、恐いね。うーん、でも、電車の下敷きになったわけじゃないし。諦めるかなぁ」
「そこが満員状態で、痴漢だらけの最悪の電車で有名だとしても?」
「いや、僕、男だし。あんまり関係ないね」
「あなた、女顔だから、間違えて狙われるかも。逆に痴漢に間違われたりしてね」
「うわ、それはちょっとごめん被りたい」

 途中で引っかかる。ジェンガのパーツは微妙にそれぞれ凹凸があるのだ。

「ねぇ、直枝理樹。あなたなら、どうする? もしも、そんな電車に乗ってしまったら」
「他の車両に移るかな」
「ダメよ。壊れて開かない。もしくは、満員状態であなたは動けないわ」
「何それ。滅茶苦茶、理不尽じゃないか」
「そうね。でも、私はそんな理不尽な電車に乗って来た。そして、これからも……」

 訳の分からない物言いに理樹は一瞬だけ、視線を佳奈多に向けた。集中力が途切れ、ジェンガがぐらつく。ギョッとしてパーツから指を放す。持ち直せる範囲内のブレだった。もしや、遠回しの罠だったのかなと理樹は疑い、彼女に会話の主導権を持たせると危ないと判断した。再びパーツを抜き出しながら、声をかける。

「所でさ、こんな夜遅くまでいていいの?」
「よくはないでしょうね。私、明日結婚式だもの」
「っ!」

 強烈なカウンターに心の波風が立つが何とか受け流す。そういう攻め方もあるのかと理樹は舌を巻いた。

「ふぅーん。そっか、結婚か。それはめでたいね。おめでとう」
「別にめでたくなんかないわ。そこに私の意思があるわけでもないし。私の家が血に拘ってるのは知ってるでしょう? 成人するまでって言って逃げて来たけど、もう駄目。いよいよ、子を産む道具として扱われる時が来たわけだけど、それが嫌で嫌で堪らなかった私は、とうとう逃げ出した。それだけのことよ。今頃、叔父たちは血眼になって探し回ってるでしょうね」
「なるほど。つまり、今の僕は佳奈多さんを匿ってることになるのか」
「えぇ、本当に感謝してるわ。直情的に行動したから、他にアテもなかったし」
「あぁ、そっか。外食するの嫌だって言ったのも、そういう事情があったんだ」
「そうよ。ここ、地元から大分離れてるけど、万が一ってことがあるもの」
「ハハ、もしも、ここにいるのがバレたら、僕、凄い目にあわされそうだなー」
「血筋に関してカルト宗教染みた執念抱いてるものね。鈴がいなくて好都合だと思ってたのに……」

 まさか今日にも帰ってくるだなんて、と佳奈多は爪を噛んだ。卓越した演技だった。ブラフにもリアリティがある。あり過ぎると言ってもいいぐらいだ。現に理樹はこれが佳奈多の作戦だと分かっていても、息が乱れ、冷汗が吹き出し、手が震えだしている。ぐらり、ぐらり。ジェンガの揺れが中々治まらない。理樹の精神そのままを映したかのようだ。チラリと上目遣いに佳奈多を窺いながら、理樹は訊いた。

「あのさ、嘘には真実を混ぜると良いって言うじゃない。……今の、どこまでが本当?」
「全部よ」

 ガシャンと、ジェンガが倒れた。

「私の勝ちね」
「いやいやいや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 何で最初に言ってくれなかったのさ!」

 理樹はバンとテーブルを叩いて、勢い良く立ち上がった。

「言ったら、どうしてくれた?」
「そ、それは……どうにかしたさ」
「今のあなたの取り乱しようを見てると、どうにかしたというより、やらかしたって感じになりそうだけど」

 言葉が詰まる。そうかもしれない、と自分でも少し思ってしまったからだ。何故だか分からないが、頭の中心がズキリと痛み、顔を顰める。急に立ったので、立ち眩みを覚えたのだと理樹は思い、もう一度座り込んだ。暢気に胡坐をかくのも気が引けて、正座になってしまった。

「でも、どうするのさ、これから……」
「そうね。鈴が当分いないなら、もうちょっと匿って貰おうかと思ったけれど、万が一見つかった時のこと考えるとそうもいかないだろうし、出て行くわ」
「いや、鈴なら話せば分かってくれると思うけど……って、僕はどうでもいいのか」
「仮にも男でしょう。顔は女みたいだけど」

 最初と最後が余計過ぎる、と言おうとしたが、佳奈多は既に立ち上がりつつあった。せめて、駅までは送ろうと思い、理樹も立ち上がる。玄関に向かう途中、佳奈多がふと立ち止まって、振り返る。

「そう言えば、罰ゲームどうしましょうか」
「何なら、それを『私を匿いなさい』にすればいいんじゃない?」

 冗談のように言ったが、本当にそう言われれば、そうするつもりだった。無いとは思うが、鈴がもし反対するなら、全身全霊で拝み倒して首を振らせてやっても良いとさえ、理樹は思っていた。拝み倒す以外方法がないの少し情けないと我ながら思ったが。

「それもいいけれど……そうね。『私と一緒に逃げて』って言ったら、どうする?」

 再び言葉が詰まった。やはり手強い。理樹の常に上を行く。だと言うのに何だか頼もしくて嬉しかった。佳奈多なら本当に血の呪縛から、逃げきってしまいそうな気がした。

「出来もしないことを言うのは、馬鹿のすることなんじゃないの?」
「そうだったわね。馬鹿ね、馬鹿だわ。きっと、本当はあの子以上の大馬鹿なんだわ」

 クッと佳奈多は口角を上げた。彼女は他人を卑下するが、それ以上に自分を卑下する。そういう悲しさを持つ女性だと、理樹も薄々気付いていた。おそらくは、ずっと前から。

「ねぇ、直枝理樹。あなたへの罰ゲームの内容、決めたわ」
「あんまり無茶なの言わないでね。それと、痛いのとか」
「痛いのはむしろ、私の方じゃないかしらね」

 それってどういう意味、と理樹が訊ねるより前に佳奈多は言った。


「『私を抱きなさい』っていうのは、どうかしら?」


 時間が一瞬、凍り付いた。

「いや、そういう冗談を真顔で言うの、やめて欲しいんだけど、色々焦るから」
「さっきのは冗談だけど、今度のは本気よ。あなたには鈴がいるもの、私と一緒に逃げるなんてことできるわけがない。でも、抱くだけならできるでしょう?」

 佳奈多が歩みだすのに合わせて、理樹が退いた。そこから奇妙な行進でもするように、移動していく。

「だ、抱くって、ほら、何!? 抱き締めるって意味!? そ、それなら何とか努力してみるけど!」
「二十歳になる女がそんな意味で、同世代の男に使うわけがないでしょう?」
「いやいやいや、これはもう、できる範囲を超えてるって!」
「不能ってわけじゃないんでしょう? コンドームもあったし」
「僕が買い出しに行ってる間に、何を見つけてるんだよ!?」

 しばらくそうしていたが、人間は本来後ろに歩くようにできてはいないため、理樹は蹴躓いて尻もちをついた。それでも後退りしていくが、やがて追い込み漁のように壁際に追い詰められた。佳奈多の影が理樹を覆う。理樹の頭の両脇に佳奈多が手をつき、逃げ道を塞ぐ。
 顔が、近かった。顎を上げれば、唇が触れ合いそうな程に。ミントの薫りが鼻腔をくすぐった。半開きになった唇から覗く白い歯や、首筋を伝い落ちる汗を見ていると気が変になりそうで、思わず目を逸らした。ぽたりとジーパンの上に黒ずんだ染みが出来て、理樹はハッと見上げた。
 佳奈多が泣いていた。あの二木佳奈多が。彼女の涙に理樹は完全に動転してしまった。

「別にあなたと鈴の仲を裂きたいわけじゃないのよ。鈴は私にとっても、大切な友人だもの。ただ……怖いのよ。怖くて怖くて仕方がないのよ。よく知りもしない男と結婚させられて、家の下らない執念のためだけに子供を孕まされて、産んで、用済みになるのが。これじゃ、私……本当にそのためだけに生まれてきたみたいじゃない。そんなの……嫌よ。絶対に、嫌! 私は、二木佳奈多は! そんなことのために生まれてきたんじゃない! 私にだってあるはずでしょう! 普通に恋をして、普通に結婚して、普通に家庭を成していく! そんな権利が!」

 理樹を逃さぬためについていた両手は、ガリガリと壁を掻くと力無く垂れ下がり、最後は佳奈多の顔を覆った。肩を震わせる彼女を見て、理樹は目を瞑り、これまでにないほど眉根を寄せて葛藤した。
 何が一番、彼女のためになるのだろうか。望み通りにすることだろうか、それともそうではないのか。あるいは、第三の答えが存在するだろうか。そうであれば、誰でも良い。今すぐ教えてほしかった。
 時間は、時計の針の音と共にただ過ぎて行って、それでも佳奈多の嗚咽は止まらない。両手だけでは到底受け止めきれず、肘から幾度となく雫が滴り落ち、フローリングの床が濡れていく。見るに見兼ねて、理樹は彼女の腰に手を回そうとした。――リリンと風鈴が鳴った。それはとてもよく似ていた。鈴がいつも髪につけている鈴の音に。嗚呼、やっぱり無理だなと理樹は感じた。

「僕に鈴は裏切れないよ。誓ったんだ、自分に。言ったんだ、鈴に。あの夕暮れの病室で。一緒に生きようって……だから、ごめんね。佳奈多さん」

 長い沈黙の後、佳奈多はそう、と鼻声混じりに呟いた。
 しばらくの間、泣き続け、ティッシュ箱を一箱空けた後、「行くわ」とただ一言だけ告げた。駅まで送ると理樹は言ったが、曰く、泣かされた男に送られたくないときっぱり断られた。理樹の記憶では自分で泣きだしたような気がするのだが、こういう時、男が何を言っても無駄だった。女の涙は男にとってはあらゆる理屈を引っくり返す強力無比な兵器だからだ。
 パンプスに履き替えた佳奈多が、玄関先で振り返った。

「ねぇ、直枝理樹。最後に一つ聞かせてくれないかしら?」
「何を?」
「あなたと鈴は、どうして付き合ってるの?」

 素朴な質問だった。しかし、それ故の難解さを秘めている問いでもあった。幼い子供がどうして、人は死んでしまうのかと問うてきたような、そんな質問。

「あなたと鈴は幼馴染で、二人だけがあの事故で生き残った。でも、あなたは棗恭介への義理や、周囲の目から、自分は『鈴と二人で共に生きなければならない』と。そんな風に心のどこかで、義務のように思ってるのではないの? あなたにも、別の女性と結ばれる権利があるはずなのに」

 理樹はしばし俯いて考え、そして、言った。

「僕は棗鈴という電車が好きなんだ。伸びていく線路は単調で、走る速度も歩くような速度で、見える景色も変わり映えしなくて、退屈で……時には寝てしまうかもしれないけど、でも、そんな風になることさえも好きなんだ。だから、僕はこれでいいんだ」

   その答えに佳奈多は眩しいものでも見るように目を細めた。その癖、口端はいつものように吊り上げていた。

「好きだと言う割には時間がかかったわね。それは本心なのかしら?」
「本心だよ。時間がかかったのはなるべく洒落た言い様を考えてたからさ。下手するとこれが最後になるかも知れないでしょ?」
「そうね。そうかも知れないわね」

 佳奈多は何所か遠くを見つめていた。

「後さ、僕からも最後に一つ聞いて良い?」
「何?」
「どうして……その、僕だったの?」

 多くは言わなかった。言う必要もないだろう。

「他に同年代の男の知り合いなんていなかったもの」
「あ、そうなんだ」

 安心したのか、残念だったのか、理樹にはよく分からなかった。

「フフッ、嘘よ。好きだったわよ、あなたのこと」
「えっ……」
「ただし、自分がどの程度、愛情を抱いてたのかよく分からないのよね。初恋だったし、何よりあなたにはもう鈴がいて、それであっさり諦められたぐらいだもの。大して好きじゃなかったのかもしれない。かと思えば、あなたになら抱かれてもいいとも本気で思っていたし。度し難いわね、我ながら」
「そ、そうなんだ。へぇー……」

 理樹は何とも言えない引き攣った笑みを浮かべていた。それを見て、佳奈多がクスリと笑った。

「感情に任せて色々口走ったけれど、良く考えてみれば、親友の恋人と肉体関係持とうとしてる時点で、異常よね。私には一生、普通の人生なんてあり得ないのかしら」
「そんな事ないよ! 佳奈多さんなら、良い人に会えるよ。きっと!」
「そうだといいわね。今日は会えて、良かったわ。……さようなら」

 そうして、佳奈多は去っていった。あまりに普通の別れ方なので、その時、理樹は根拠もなく、またいつか会える気がした。




 鈴が帰宅したのは午前零時半だった。
 随分と遅い帰宅に理樹は何度先に寝てしまおうか悩んだが、コーヒーを飲みつつ待っていた。途中、レポートのことを思い出し、慌てて再開し始めた。佳奈多の来訪という予想外の事態により、予定の半分も進んでいない。日曜日にやろうと思った時には既に日曜日だった。
 カッ……チャンと鍵を開ける音からして、既に日を跨いでしまったことを謝ってるようだった。外から電気が点いているのが見えたのだろう。キィと蝶つがいを囁かせながら、鈴が八の字にした眉で顔を覗かせる。

「理樹ー、起きてるのかー。何なら寝ててもいいぞー」
「何、その欠席した奴、手を上げろーみたいな確かめ方」
「何だ理樹! 何で起きてるんだ! ギンギンなのか!」
「ちゃんと目がって入れてね。卑猥に聞こえかねないから」

 コポコポとポットから湯を注いで、コーヒーを作りつつ、理樹は答えた。

「で、何でこんなに遅れたの? 中々帰してくれなかったの?」
「いや、それがある意味あたしのせいでもあるよーな。けど、良く考えたら、あたしのせいじゃないんだ」
「まぁ、言ってみなよ」

 鈴が自分に非がある時はグレーカラーにしたがるのはいつものことだった。


「電車が遅れたんだ。――何でも、人身事故が起きたらしい」


 コーヒーを落としそうになった。まさか、と一瞬、空想じみた予想を思い浮かべた。

「それって何時!?」
「えぇっと何時だったかな。十一時過ぎぐらいだったよーな?」

 確か、佳奈多はその頃、既に出ていた。
 性質の悪い空想だと思った。コーヒーを呷る。苦い。砂糖を入れ忘れていた。慌てて入れる。スプーンニ杯半ぐらいが好きなのに、加減を間違えて三杯分ぐらい入れてしまう。動じている己が腹立たしかった。佳奈多はそんな柔な精神をしていない。だが、だからこそというのもあり得るのではないだろうか。現に理樹は佳奈多が泣き崩れるまでそこまで追い詰められてるとは気付かなかったではないか。
 佳奈多は言っていた。線路は進むか戻るしかない、と。理樹は言った。いつでも降りる権利と乗る電車を選ぶ権利がある、と。佳奈多はここで降りて、生きた人間が乗ってはならない電車に乗って何処か遠くへ行ったのではないだろうか。血の呪縛から永遠に逃れるために。妹に会いに行くために。あるいは死を選ぶことが、逃避であると同時に家への復讐なのではないか。三枝葉留佳が逝去し、二木佳奈多も同じく後を追えば、直系の血筋は絶える。自害するだけで復讐は成るということにならないだろうか。
 何故、悪い方にばかり整合していくのだろう。理樹は膝が笑い出すのを止められなかった。

「――! ――か!? ――!」

 鈴が呼んでいるが、理樹には遠い声に聞こえていた。頭が万力で締められるように痛い。この症状も久しぶりだった。自分は闇に落ちても、また元に戻る。だが、佳奈多はどうなのだろう。何か他にできたんじゃないだろうか。せめて、泊まっていくように言っていれば、こんな心配はせずに済んだのに。僕ハ、マタ、友達ヲ、見捨テタンジャナイダロウカ。アノ時ノヨウニ……?




 理樹はこれまで鈴と様々なことを語り合ってきたが、この暗く重い空想だけは理樹の胸の内にずしりと横たわり、吐きだすことさえ叶わなかった。確かめるのも恐ろしかった。それが今、舌の上に乗せられるまで軽くなったのは、一通の絵葉書が舞い込んできたからだった。それを枕頭台の引き出しから取り出し、眺める。

 結婚記念日、おめでとう。

 それが油性マジックで書き加えられた文。絵葉書は、電車の中で撮られたもののようであった。二人の女性が窓側に座り、流れる風景が真ん中に収まっている。片やモデルのように取り澄まして、片や照れくさそうに目だけこちらに向けて。二人の女性は、佐々美と佳奈多だった。
 おそらく、この家の住所を教えたであろう佐々美と何故一緒にいるのか。そもそも、この時期に何故『世界の車窓から』のような電車の写真なのか。そして――今、乗っている電車の乗り心地はどうなのか。
 今度会ったなら、色々と聞いてみよう。そう思いながら、理樹はベッドに入った。早く朝にならないだろうか。このことを早く鈴に話したかった。

END



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 ぴえろの後書き

 第13回リトバス草SS大会、テーマ『線路』にて出展させて頂きました。
 文字:白、背景:黒は若干、見にくいですかね? いつもと逆にしただけなんですが、雰囲気的にはこっちの方が合ってる気がするので。いやー、久しぶりに真面目な奴、書いたなー。おかげで長くなった。チャットですげぇ言われたけどw(草ssは目安15kb。これは30kb)最後の部分は蛇足だとは分かってますが、基本的に自分はハッピーエンド主義なので、やっぱり要ると結論致しました。ハッピーというよりノーマルですが。(==; バッド→ノーマル→バッド→ノーマルという流れが作者の迷走っぷりを表しているかと。つか、『佳奈多と浮気(?)』エピソードはsffでするつもりだったのに、使っちゃったよ。lllorzlll ま、別Verでやればいいよね!( ゚∀゚ )
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