らばーず・えんじぇる

written by ぴえろ




 昼休み。四十五分間の休息は、生徒たちにとって安らぎのひと時である。
 四時間目のチャイムと同時に食堂へ急ぐ生徒たちを眺めつつ、小毬は机の脇から小ぶりなお弁当と紙袋に入ったお菓子セットを手に教室を出る。

 鼻歌交じりに階段を登っていくと、四階で赤のコーンと電車の踏切にあるような黄色と黒の棒で通せんぼされた。棒の中程には立ち入り禁止の札がぶら下がっている。英語で言う所の『keep out』。しかしながら、小毬はいつものように常習犯として、これを無視していく。跨いで通れれば良いのだが、如何せんドジな小毬が、両手が塞がったままそうすると、足を引っ掛けて転びかねない。目の前には階段の角の数々。額から激突したら非常に痛そうだ。というか、死にかねない。お菓子を手に持っている姿から、『死因:おか死(←アホの子)』とされるのはごめん被りたいので、棒をコーンから一度抜いて通ってから元に戻す。片づけられた机と椅子が並ぶ踊り場を抜け、鉄の扉を前にする。筋骨隆々な井ノ原真人ではあるまいし、こじ開けられるわけもないので、すぐ傍の窓からドライバーを使って、屋上へ出た。

「ん〜、今日もいいお天気ですね〜」

 お弁当箱と紙袋のお菓子セットを置いて、ぐーっと背伸びをした。

「はなまるたいよう、らんらら〜♪ ふかふかたまご焼きとおそろいカラ〜♪」

 調子っぱずれな即興詩を歌いながら、紙袋の中からお菓子と一緒に入れていたナイロン製のレジャーシートを投げ出すようにバッと広げ、風に泳がせた後、ゆっくりと軟着陸させるように床に敷く。誰に言われるでもなく、この屋上の使用スペースを掃除している小毬だったが、ある時、理樹に「ここでレジャーシートを広げたら、まるでピクニックみたいになるんじゃない?」と言われて以来、そうしている。
 上履きを脱いでレジャーシートに上がり、四隅のしわを払うように伸ばした後、出入り口の壁に身を預けながら、ぺったりと尻もちをついた。フンフンとハミングを口ずさんでいると段々楽しくなってきて、体ごとメトロノームのように揺らしていた。この動き、何か覚えがあるなーと自問してみたら、名曲『人間っていいな』のサビの部分だった。ハミングも段々似かよってくる、というか、名曲そのものになって歌っていた。

「僕もかえーろ、おうちにかえろ――」
「え? 小毬さん、何処か調子悪いの?」
「ほわぁっ!?」

 急に声をかけられ、小毬はビクンと身を竦ませた。

「何だぁ、理樹くんかー。びっくりしちゃった」
「いや、いつも一緒にお昼食べてるんだから、予想つくんじゃないかと」
「あ、それもそだね」

 えへへ、と笑って小毬は誤魔化した。口元に苦微笑を浮かべた理樹は、上履きを脱いでレジャーシートに上がると、小毬と同じく壁に背を預けて座った。

「今日はいい天気ですねー」
「うん、そうだねー」

 二人して青空を見上げる。他愛無い言葉を交わして、少しばかりぼうっとする。幾ら昼休みが長いからと言って、そうぼんやりともしていられないはずなのだが、のんびり屋の小毬と付き合っていると多少時間にルーズな方が心にゆとりが持てるんじゃないか、と理樹は薫陶を受けていた。

「空を眺めるのもいいけれど、ご飯食べよっか」
「そーですね。うーんと、ちょっと待ってくださいねー」

 小毬が体育座りの膝の上に弁当箱を据えて包みを解いていく。幼稚園児が持っていそうな、ウサギの柄が入ったピンク色の包みから出てきたのは、これまた、幼稚園児が持っていそうなピンク色のプラスチックの弁当箱だった。更にその下には幾分か大き目のオレンジ色の弁当箱、理樹の分だ。ある日、小毬は自分が弁当であるのに対し、理樹は食堂で買ってくるパンであるという事実に気づいた。そこで、一人作るのも二人作るのも大して手間は変わらないという建前の下、愛しい恋人のために弁当を作るという、有り触れているが当人たちにとっては至極真面目なやり取りの結果、小毬が理樹の弁当を作ることになった。

「もうすっかり春だね」

 夜や早朝には、まだ油断ならない寒さが時折あるが、日中は概ね過ごし易い気候に移り変わりつつある。

「暖かくなって手足が冷えなくなったのはいいんだけど……」
「いいけど?」
「うん、大したことじゃないんだけどね。またセーター着てたら、かなちゃんに怒られちゃったりするのかなーって」
「むしろ、かなちゃんの方に反応しそうだけどね」

 かなちゃんとは言うまでもなく、二木佳奈多のことである。かの先輩がつけたものと全く同名のあだ名であるのは偶然以外の何物でもなかったが、耳にした佳奈多が動揺してか、「私って、そんなにかなちゃん体質なのかしら」などと意味不明なことを口走っていた。

「どうして嫌っちゃうんだろうねぇ? すごく可愛いのに」
「いやいや、中には可愛いのが似合わないと思ってる女の子だっているんだよ」
「うーん? でも、可愛いのに?」
「いや、だから……あー、いや、やっぱりいいや。小毬さんが可愛いと思う呼び方で呼んであげればいいと思うよ」

 説得することを諦め、理樹はそぼろご飯を口に運んだ。別段、小毬に似合わない愛称を呼ばれまくろうが、当人が豹にウサ耳がついてしまったような違和感を覚えるだけだ。

「というか、セーターの心配はしなくていいんじゃないかな? ――僕たち、今年で卒業するわけだし」

 衣替えは六月から。その頃には新たな生活に馴染んでいることだろう。
 人の別れというものは、大体が『時間切れ』で説明がつく。そう言ったのは、美魚か来ヶ谷だったと理樹は曖昧に思い出す。成程、確かに日本にいる限り、幼稚園、小中高と子供は人間関係を強制的にリセットされる宿命にある。一年毎のクラス替えなどのミクロなものを含めると毎年リセットされると言ってもいい。これも一種の時間切れと言えるだろう。彼らを導いてきた恭介も、そんな時間切れによって別れた。全く会わなくなったわけではないし、連絡だって着くが、共に学校へ通っていた程、頻繁に顔を見ることはなくなった。卒業とは、そういうことだ。そして、自分たちの番になると、理樹と小毬はお互い話さなければならない重大事が一つあった。
 卒業したら、どうやって付き合っていくか、ということである。
 不思議と卒業と同時に別れるという選択肢はなく、結局は同棲することになった。離れたくないから一緒に住む。理由は子供染みているが、さりとて、人が別れる時期だから素直に流されて別れるというのも違う気がした。お互いの進路のことや家賃のことなどを考えつつ、二人が一緒に過ごせる居場所というものを探し、すでに当たりをつけていた。唯一、気がかりがあるとすれば、独り身の理樹はともかく、小毬の両親に同棲するとは言い出し辛いので、「進路先の大学が近い人がいるので、その人とルームシェアすることになった」としか言っていないことだ。嘘ではないが、さも女友達とシェアするかのような口ぶりで言ってしまったのは、小毬も気が咎めている。小毬の両親は兄のことがあって以来、過保護気味で、連れが男だと知ったら、反対されそうな気がするのだった。

「そういえば、もう三月になるんだねぇ。何だかあっという間だった気がするよ」
「うん、僕もそんな気がする。何だか毎日お祭りしてたみたいだ」
「後はもう卒業するだけって感じだねー」
「え?」

 理樹の戸惑いに小毬が疑問符を浮かべる。

「あれ? まだ何かあったかなぁ? 去年の三月は卒業式以外、何もなかったよねぇ?」
「いや、まぁ、確かに去年は恭介が卒業しちゃうから、色々やったけど……」

 就職も無事決まり、来年からは社会人ということで、無茶苦茶した。卒業式のラストで、卒業生を校門まで見送る時に教師たちの隙を見て、ドでかい花火を上げたのは流石に真昼間からやり過ぎだった。

「まだイベントあるんだけど……小毬さん、ホントに分からない?」

 しばらく、小毬は箸をくわえたまま視線を上げて思い出そうとするが、検討がつかず、小首を傾げた。「えー」と声にこそ出さなかったが、理樹は呆れた表情を表した。仕切り直すように、コホンと咳払いをして言う。

「そ、そう言えば、小毬さん。今日もお菓子持ってきてる?」
「ふぇ? うん、持ってきてるけど」
「ちょっと見せて貰ってもいいかな?」
「うん、どーぞ。好きなのあったら、理樹くん持ってっていいですよー」

 朗らかに笑うと小毬は脇に置いていた茶けた紙袋を差し出す。理樹は小さく礼を言うと、紙袋の中を覗き込んだ。一通り、中をかき回して、全容を確かめると、再び「えー」という顔をした。

「えっと、ホントに今日、何の日か気づかない? 僕に気を使ってるとか無しで?」
「むー、理樹くん。あんまり勿体ぶるのはよくないと思います」
「いや、勿体ぶる気はないんだけど……じゃあ、教えてあげる」

 理樹がゴソゴソと学生服のポケットを探り出す。その時になって、小毬は理樹のポケットに何か四角い電卓ぐらいの大きさの物体の膨らみがあることに気がついた。取り出されたそれはリボンなどで綺麗に包装が施されていた。

「ほわぁっ! りり、理樹くん、そ、それってプレゼント!?」
「うん、そうだよ」
「えー! で、でも、私、別に今日誕生日じゃないし結婚記念日はまだだし!?」
「小毬さん、まず落ち着こうね。calm down。calm down。深呼吸しよう。吸ってー吐いてー」

 スーハースーハーと言われるがままに深呼吸をこなす小毬。落ち着いた頃を見計らって、理樹は件のアイテムを渡して告げた。

「今日、ホワイトデーだよ? ホントに知らなかった?」
「…………はっ!」
「その様子だとホントに知らなかったみたいだね。何で紙袋の中がこれで気付かないかな」

 紙袋を真っ逆さまにしてレジャーシートの上に落とす。中からこぼれてくるのはキャンデー、マシュマロ、ホワイトチョコレート、その他色々。全て、食堂に付設されている駄菓子屋で売っているわけだが、当然この学校にも、いや、むしろ、思春期をターゲットにした市場として、大々的に目玉商品として売られている。

「道理で、今日は男の子がすごく多いなと思いました!」
「いやいや、その時点で気付こうね」

 何となく将来が心配になった。そのうち、標識見ずに高速道路に自転車で行ったりしそうだ。

「ねぇ、理樹くん。これって、中は何が入ってるんですか?」
「マシュマロだよ。でもね、小毬さん。これはただのマシュマロじゃないんだ」

 理樹はくちびるを一度、内側に仕舞って湿らせた。

「これはね、魔法のマシュマロなんだ。きっと小毬さんを幸せな気分にしてくれるよ」


  ◆    ◆    ◆


 小毬は基本的に優等生であるので、予習復習を欠かさない。その日もいつもと同じように机に教科書とノートを広げていたが、全く進んでいない。電話をする時の手遊びにメモ帳に書いた落書きのような絵が小毬の真っ白なノートを埋めつくさんと侵略を進めている。

「あら、小毬さん。まだ起きてらしたの?」
「あっ、もうこんな時間かぁ〜。予習、全然できなかったなぁ」

 とは言っても、受験も既に終わっているので、あまり頑張る必要性もない。小毬はあっさりと片づけに入った。終わって、椅子から立ち上がり、振り向くと佐々美がベッドの上でいつもの日課である就寝前の筋力トレーニングを行っていた。

「さーちゃん、手伝おっか〜?」
「えぇ、お願いしますの」

 いつも手伝っているので、補佐のやり方は分かっていた。体育座りをした脚の間に佐々美の両足を入れ、足の甲にお尻を乗せ、その膝を軽く抱きかかえる。足が固定されたおかげで、よりスムーズに、且つ、腹筋だけに負荷がかかるようになった。思えば、こうして三年間、手伝ってきたんだなぁと感慨深くなる。佐々美がトレーニングをする前に小毬が寝てしまっている時もあったので、実際には二年ちょっとぐらいかもしれないが、それでも凄いことのように思えた。これだけ寝食を共にしている人がいる、ということがだ。
 腕立て、腹筋、背筋をこなした佐々美は、特に汗をかいている様子もなかった。鍛えるというよりも整理運動の一環くらいの強度らしい。佐々美がいつものようにお礼に午後ティーを買ってくる。小毬はそれを受け取りながら、これのお茶うけにしようと、自分の机から理樹のマシュマロを取り、ベッドに座る。

「あら、それはもしや、直枝さんからのお返し?」
「うん、そーだよ。さーちゃんもどーぞ。運動の後は甘いものがいいんだよー」
「……恋人からの贈り物を、他の人にあげてもよろしいのかしら?」
「あれ、ダメなの?」
「ダメ……ではないのでしょうけれど、まぁ、せっかくのご好意ですし。頂いておきますわ」

 小毬のことだ。「美味しいお菓子は皆で食べた方がもっと美味しいんですよー」と云うようなことを言うに違いない。長年付き合ってきているのだから、今さら、分かり切った返事を訊くのも馬鹿らしかった。佐々美が財布を手に立ち上がる。

「ほぇ? さーちゃん、どっか行くの?」
「自販機に。流石にスポーツドリンクで洋菓子を食べられる程、わたくし、剛の者ではありませんから」
「あー、そっかぁ。ごめんね、気がつかなくて。コップ持ってくるから、私の午後ティー半分あげるね」

 小毬がコップを持って帰ってくるとミニ茶会が開かれる。就寝前におやつを食べる等と、体重計を余程舐めてかかっている行為としか言いようがなかったが、理樹が買ってきたマシュマロは六個入りだったので、カロリーの程度は知れている。

「あら、ホワイトチョコが入ってるのね」
「あ、ホントだ。美味しいねぇ」
「……カロリー摂取が上方修正されたのが、ちょっと気になりますけどね」

 味はお嬢様である佐々美も満足できる具合だった。伊達に五百円のちょっと割高な高級菓子ではなかった。

「しかし、直枝さんもお菓子だなんてケチ臭いこと言わずに、アクセサリーの一つでもプレゼントすればよろしいのに。小毬さんもそちらの方が良かったんじゃありませんの?」
「んー、どうだろ。貰えたら、勿論、嬉しいけど、あんまりお返しが凄いとそのためにバレンタインチョコ送っちゃったみたいに思えてくるから、お菓子の方が私はいいかなぁ」
「まぁ、確かに一理ございますわね」
「それにこのマシュマロも捨てたものじゃありません! 何と、これは魔法のマシュマロなのです!」

 唖然とした表情のまま、佐々美は固まった。そんな佐々美を余所に小毬はマシュマロの箱の中に入っていたカードを取り出し、佐々美に渡す。

「これが魔法の源なんだって」
「何ですの、このカードは?」

 トランプかと一瞬疑った。サイズ的には丁度そのくらいだった。何やら凝った絵が描かれている。まず目についたのは、真ん中で花飾りとローブを纏った天使が両手を広げている姿。上部には放射線状に光を放つ太陽が描かれており、中にローマ数字でYとある。下方の両端辺りには、二人の男女が描かれている。どちらも全裸ではあったが、芸術的な側面が強いのでいやらしさは感じなかった。一見すると、二人の男女を天使が祝福しているように見える。おそらくは、吉兆を意味するものであろうことは伺えた。ホワイトデーという吉日のために仕込んでいるのだから、そういうものに違いないことぐらいは佐々美も察していた。

「昔からあるタロットカードで、ラヴァーズって言うんだって」

 やけに発音の良いラヴァーズを耳に入れながら、佐々美は容器の裏に書かれている文言を読む。

「『ある道を男が歩いていた。別の道を女が歩いていた。それぞれ別々の道を歩いていた。ある時この二人は出会った。彼等の道は一つになった。彼等はその出会いを喜んだ。ふと道の先を見ると、そこで道は二つに分かれていた。さあ、君達はどっちの道を選ぶ? どっちの道も遠く続きそうだ。ただ一つ、どっちの道を選ぶにしても、前を向いて歩くことを忘れては行けないよ』」

 その他、このタロットカード、大アルカナがどう言ったものか。このカードに描かれている寓意画ぐういがが示す意味などが書かれていた。ラヴァーズ、恋人たちの言葉通り、愛を示すカードだが、同時に決断、岐路、新たなプロセスの始まりという意味もあるらしい。成程、ホワイトデーが終わってしまえば、次は卒業式だ。学生恋愛をしているものにとっては、色々思うところのあるカードだろう。

「そう言えば、聞きそびれてましたけれど、魔法ってどんな魔法ですの?」
「えっとねぇ、さっきのマシュマロを食べて、このカードを枕の下に入れて寝ると、好きな人の夢が見れるんだって」
「……本を枕の下に入れるとその話の夢を見るというおまじないがありますけど、それとごっちゃになってません?」
「うん、私もちょっとそれっぽいなーって思ったよ」

 あはは、とちょっと困ったように笑う小毬。

「あ、良かったら、さーちゃん使う?」
「いいえ、結構ですわ。友人の恋人から貰ったもので、そんな夢を見ても、意味はないでしょうし。そもそも、このおまじないは、恋人同士専用じゃありませんこと? 義理チョコあげて、これが帰ってきたら、正直わたくしなら引きますわよ」

 その時はカードだけ捨ててしまえば、いいのだろう。それを差し引いても、思春期の女子には占い好きが多いので、お返し目当ての先行投資めいた義理チョコでもなければ、意外と喜ばれる可能性はある。しかし、効果から察するに本来、遠距離恋愛をするカップルを応援するアイテムではなかろうか、などと佐々美は考えた。

「――尤も、わたくしなら現実でも会えるものではなく、もはや夢でしか会えないもののために使いますけれど」

 佐々美はそう言って、目を伏せ、人さし指をくるくると回していた。何かをじゃれつかせるような仕草だった。もはや夢でしか会えないもの、そう言われて思い浮かんだ人は微笑みを浮かべていた。パジャマ姿で……。


  ◆    ◆    ◆


 まるで、浮遊霊のように小毬はそれを眺めていた。夢だなとすぐに分かった。
 ガリガリと時折アスファルトと補助輪が擦れる音を立てながら、小学校に上がりたての小毬が自転車を漕いでいた。うんしょ、うんしょっと声を漏らし、上体を右へ左へと揺らしながら立ち漕ぎで坂を上っていく。一刻も早く、兄に会いたくて。一刻も早く、籠の中にあるチョコレートを渡したくて。

 バレンタインは、好きな男の人にチョコレートを上げる日。そう聞いて、真っ先に思い浮かべたのは、兄だった。

 ――お兄ちゃんにあげたら、喜ぶかなぁ?

 バレンタインが近付き、頻繁に流れるようになったチョコレートのコマーシャルを見て、なんとなく両親にそう尋ねた。

 ――あぁ、きっと拓也も喜ぶよ。ほら、これで好きなだけ買ってきなさい。

 チョコレートの代金として千円札をくれたのは、父だったか、母だったか。ついこないだまで幼稚園児だった自分には、とんでもない大金だった。チロルチョコが何個買えるか分からず、物凄く興奮した。たくさん小毬のオススメ教えてあげよっと!なんてことも言った。両親はそんな小毬の頭を優しく撫でていたが、何処か悲しげだった。その時の小毬は、すっかり舞い上がってしまって全く気付くこともなかったが、その理由が今なら分かる。
 厳しい闘病生活中の兄が、チョコなんてたくさん食べられるわけがなかった。
 幼い日の小毬は子供ながらの浅慮と言うべきか。バレンタインは好きな男の人にチョコレートをあげる日。だから、あげれば兄が喜ぶ、という三段論法にもなってないことを本気で信じていた。

 ――チョコ食べないの? お兄ちゃん?

 病室に着き、ビニール袋いっぱいのチョコレートをプレゼントしたが、結局、食べきれないから半分以上が小毬に返ってきた。小毬は無邪気にそれを食べた。拓也はそんな小毬の黒くなった指や口元をティッシュで優しく拭っていた。

 ――勿論、食べるさ。でも、食べちゃったらそれで終わりだろ? だから、まず頭の中で目の前のチョコがどんな味が想像するんだ。

 方便だった。幼い小毬が傷つかないための優しい嘘。ふーんと言って、小毬はチロルチョコを口の中に放り込み、幸せそうに顔を綻ばせた。かつての自分をその背後から見ている今の小毬は段々辛くなってきた。子供なのだから、そんな大人たちの優しさに気づかなくて当たり前だったが、今もって、それを直視すると何て馬鹿だったんだろうと慙愧に堪えない。

 ――小毬にはお返ししなくっちゃね。ホワイトデーに。
 ――ほわいとでーって、なぁに?
 ――バレンタインにチョコを貰った男の子が、女の子にお返しする日のことだよ。

 クッキーとか、マシュマロとか、キャンデーとかをね、拓也がそう言うとお菓子好きな小毬は純粋に喜んだ。
 だが、ホワイトデーのお返しはなかった。単純に拓也が忘れていただけだったが、小毬は責めることはなかった。小毬自身も忘れていたからというのもあるが、後々になっても思うのは、記憶に残っている兄の悲しそうな姿を何か慰める手段があったのではないかということだった。
 三月――小毬が初めてバレンタインを知った年に、兄は中学を卒業した。
 十二歳の時から入院している拓也は、普通の中学校と云うものを知らなかった。病院施設内にある分教室に通っていたが、拓也と同い年の子は片手指もいなかった。ある子は手術で完治し、ある子はもっと大きな病院に移り、ある子は――この世を去った。ひとりぼっちの病室で、何も分からず無邪気笑う妹から手渡される卒業証書。卒業とは名ばかりで、高校生になっても何一つ変わらない分教室に通うことになる……その虚しさ。拓也が一体、どんな思いでそれを受け取ったのか、それを想像することすら小毬にはおもんばかれた。

 ――小毬もそのうち、男の子からお返しを貰うようになるんだろうなぁ。
 ――ふぇ? お兄ちゃんくれないの? 嘘ついちゃダメなんだよ!
 ――違う違う。そうじゃなくて……何て言ったらいいのかな。

 拓也が頭をかき、眉を軽く八の字にする。

 ――小毬がもうちょっと大人になったら分かるよ。
 ――ウソばっかり!
 ――嘘じゃないさ。どうしてそう思うんだい?
 ――むー、パパとママもそう言って、教えてくれなかったもん。
 ――何を?
 ――赤ちゃんがどうやってできるか、教えてくれなかった……。

 ああ、そう言えば、そんなこともあったかなと小毬は感慨深く思った。咄嗟に両親が機転を利かなかっただけだろうが、伝統的なコウノトリ云々で諭しておいて欲しかった気もする。小毬はそういうお話が大好きだったから。

 ――うーん、じゃあ、しょうがない。小毬、ちょっと目を瞑ってごらん。
 ――なにするの?
 ――小毬がほんのちょっぴり大人になるおまじないだよ。

 と、そこで小毬はあれ?と疑問が湧いた。かつて兄はそんなおまじないをかけたことがあっただろうか。何分、十年近く前の記憶だから、相当あやふやな所がある。しかし、バレンタインデーの思い出なら、それはきっと特別で……覚えているはずだとも思う。しかし、ない。拓也はこんなことはしなかったはずだ。小毬の疑問など無視して、夢はただ進んでいく。
 拓也がベッドから上体を起こし、ベッド脇の椅子に座る幼い小毬へと片手を伸ばす。それはそのまま、幼い小毬の目をすっぽり隠してしまった。

 ――お兄ちゃん、見えないよー。
 ――見えない? 本当に? 目を瞑ってる?
 ――目開けてても、お兄ちゃんの手で見えないもん。
 ――それじゃあ、ダメなんだ。小毬がちゃんと目を瞑ってないと……ね。

 そう言って、一瞬、幼い小毬の背後に立つ、今の小毬に視線をやった気がした。目が合った瞬間、自分が覗きをしているようで罪悪感が芽生えた。が、よく考えたら、これは自分の夢で、記憶で、つまり、自分の物だから、自分の体を見ても変態さんなことにならないのと同じで、これも覗きではないのですー、とか一人で慌てふためいた挙句、今の小毬も目を閉じることにした。

「ほら、もう開けていいよ」

 おまじないと言っても、特に呪文らしきものはなかった。目を開けると、そこはもう病室ではなかった。急な変化についていけず、ぼうっとしていた。
 何となしに上を見上げると、一面に広がる青空が見えた。天気の良い日に屋上で寝転がって見る光景にとてもよく似ていた。視線を自分の太もも辺りに下ろすと、何かに腰かけているらしく、膝から先が見えない。羊の毛皮のような、もこもこした白いものに腰かけているようだった。膝から向こうの景色に焦点を当てると、テレビの砂嵐のような粒の集まりが見えた。それは街並みのように見えた。眼下に広がる緑がかったものが、全て森や山々だとして――。

「ほわぁあ!?」

 高い、なんてものじゃなく、小毬は慌てふためいた。

「大丈夫大丈夫、落ちるわけないから」

 ぽんと肩に手を置かれることで、隣に拓也がいることに気がついた。 

「お、お兄ちゃん! ここ、どこ!?」
「どこって、小毬の夢の中に決まってるじゃないか」
「あ、そっかー。夢かー」
「そうそう、夢なんだから、雲の上で死んだ兄と話してたって、不思議じゃないだろ?」

 周りを見渡すと、もこもこした雲の上で洗濯ものであるシーツの数々がひらひらとなびいていた。それを干しているのは小毬の腰ほどもなさそうな三角帽を被った小人さんで、中には筋肉筋肉ーなんて言って、腕を振って遊んでいる小人さんもいる。ああ、夢だなと思った。むしろ、夢じゃないと何かヤダなと思った。

「じゃあ、さっきの続きだけど。いいかい、小毬? 今の小毬ならもう分かるかもしれないけど、赤ちゃんっていうのは雌しべと雄しべが――」
「あぁー! それはもういいの知ってるの恥ずかしいから言わないでー!」
「え、そう? じゃあ、聞かなかったことにしよう。小毬も言わなかったことにしよう。それでいいよね?」

 ウンウンと小毬は羞恥の涙を流しながら頷いた。

「ホワイトデーについても、わざわざ教えるまでもないか」

 と云うよりも、そんな前置きした後、拓也は表情を緩めた。

「――多分もう、小毬の方が僕より多くのことを知ってるんだろうね……」

 嬉しそうであり、悲しそうであり、切なそうな笑みだった。二人が永遠に別れた時、小毬は八歳で拓也は十六歳だった。八年、それだけの長い年月が横たわっていたはずだったのに、いつしか小毬は拓也を追い抜かしていた。それは単純に年齢だけのことではなく、拓也との最後の思い出にも言えることだ。

「だからさ、今度は小毬が僕に教えてくれないか。色んなこと」

 立場が逆転したことを悔しがるどころか喜ぶように、拓也は微笑んだ。ああ、気づいてみれば、小さい頃は大きく見えた拓也も、今の自分と比べてみるとほんの数センチばかり身長が高いだけだった。

「色んなことって、例えば?」
「そうだなぁ。修学旅行って楽しいものなのかな? 僕は行ったことがないし」
「うぅ、高校の修学旅行は事故で中止になっちゃったから……あ、でも、その後、仲良しさんだけの修学旅行に行きました!」
「え、生徒だけで修学旅行って行けるものなの?」
「うん、行けちゃったんだ。恭介さんっていう一つ学年が上の凄い人がお車の免許を取って、それでお出かけしました! 温泉旅行!」
「え? 修学旅行じゃないの? 遊びに行っただけ?」
「はっ! あうぅー、そ、それはーだからー、皆と旅行に行くということが、どれだけ楽しいものであるかということを学ぶための旅行のことを、修学旅行と言うんじゃないかなぁ?」
「へー、修学旅行って、そういうものなんだ」
「う、うん? た、多分」

 知らない兄をまるで騙してしまったような後味の悪さが残るが、小毬自身、修学旅行などと云うものは、一学年が丸ごと遠くへ遊びに行くような印象しかなかった。他にも、寮生活はどんなものか、ルームメイトはどんな人だったか、七不思議の類はあるのか、高校ではジュースが買えるのか、学内食堂のご飯は病院食と同じぐらい不味いというのは本当か。様々なことを聞かれたが、学校のことが中心だった。

「お兄ちゃんは、やっぱり行きたかった? 学校」
「……そうだね。本音を言えば、そうなる。誰もが持っているもの、知っているものが自分にないのは悲しいことだからね」

 拓也は微笑みを浮かべ、頬をポリポリとかいた。辛い時や悲しい時に表に出さず、何とか微笑んで誤魔化す。小毬のそんな所はこういう兄を見てきたからかもしれなかった。

「なぁ、小毬。お前は僕のことを恨んでないかい?」

 突然、何を言い出すのか。きょとんとした面持ちで拓也を見る。

「たまごとにわとりのお話のことだよ」

 すまなそうに拓也が目を伏せた。

「僕は僕なりに考えて、あの物語をお前に吹き込んだ。小毬には悲しんで欲しくなかったから。でも、それこそがお前のトラウマになってしまった。まさか、何年も引きずってしまうだなんて……結局は、十六歳の子供の浅知恵だったんだな」
「そんなことない!」

 小毬は咄嗟に叫んだ。

「お兄ちゃんがいたから、今の私がいるんだよ! お兄ちゃんが読んでくれる絵本が好きだった! 私が悲しいお話や人が死んじゃうお話が嫌いだって言ったら、皆が幸せになるような素敵なお話をたくさん考えてくれた! 私にとって、お兄ちゃんは最高のお兄ちゃんだった!」
「小毬……」
「あの時、作って貰った絵本、今はもう失くしちゃったけど、私は今も覚えてる! お兄ちゃんが作ってくれたお話は全部、覚えてるから! ――だから、そんな悲しいこと言わないで……」

 小毬を優しく見つめていた拓也の瞳がにわかに潤みだした。拓也はただ静かに目を閉じた。春の木漏れ日で溶けだす雪のような自然さで、拓也の頬を涙が伝っていく。ゆっくりと顔を空に向ける。

「ああ、僕は卑怯だな。僕は、お前からその言葉が聞きたくて、しょうがなかったんだ。僕の人生は、“お兄ちゃん”でしかなかったから。でも……うん、そうだね。小毬にそんな風に思ってもらえるなら……僕みたいな人生にも、きっと価値はあったんだ」

 涙をパジャマの袖で拭い、微笑む。小毬がそれを見た時、ああ、もうすぐこの夢は覚めるのだと分かった。何故なら、別れは笑顔であるべきだから。

「ありがとう、小毬。月並みだけど、幸せにね」

 拓也が両腕を伸ばし、小毬をそっと抱きしめた。体温は感じなくても、温かかった。肩越しに見える拓也の背から白い翼が、今まで折りたたまれていたかのように現れる。それはゆっくり大きく広がると、嵐から親鳥が小鳥を守るかのように小毬を優しく包み込んだ。

 ――嗚呼、お兄ちゃんが私の守護天使なんだ。

 そんなことを思いながら、舞い散る和毛にこげに意識を溶かしていった。

END



別のを見る。   トップに戻る。

・感想を伝える。
掲示板    一言掲示板    メール





 ぴえろの後書き

 うっはー、すげぇ難産でした。そうなるとは思ってたけど、ホワイトデーを小毬で書こうってだけで、何もノープランだったからなぁ。自作内で見たことあるようなマンネリな終わり方してしまった。ホワイトデーだけで一本書くには、自分には、ほのぼのSS系を書く力が無さすぎた! なので、同じく三月のビックイベントである卒業を足し、さらに小毬SSということで、兄、拓也の学校生活における無念さみたいなのをブレンドしました。その結果が、小毬SSの皮を被った拓也SSだよ! 一体、誰得なんだこれ……? いや、ホント、ホワイトデーだけじゃ5KBも書けなくて。それはさておき、Keyの兄たちは立派な兄たちが多い気がする。まぁ、相手が妹だからだろうけど。
 お菓子並みに甘いSSは満足ゆくまであるでしょうから、こういうシリアス系が隅っこにあってもいいと思うんだ。(´・ω・`) しかし、天使うんぬんは小毬SSだから出せたなぁ。普段なら思いついても、小っ恥ずかしくて却下してるw
inserted by FC2 system