物音がしたような気がして、男――藤林正樹は瞼を開いた。
 しばし、睡魔を追い出すことができず、呆然と天井を見ていた。ピン呆けした視界のまま、頭を横に向け、枕頭台の上にある時計を見る。暗闇の中、時計は黄緑の蛍光色で午前3時を示していた。

「(丑三つ時か……)」

 嫌な時間に起きてしまったものだ。一人ごちる。
 時計の傍にある電気スタンドの紐を引っ張り、明かりを付ける。数回瞬きをして、何故、自分が起きてしまったのかを思い出す。そうだ。物音がしたのだ。こんな夜分に物音? 奇妙だ。家鳴りか? いや、違う。そういった一瞬の破裂音のような類の物音ではなく、こう……断続的に続く、明らかに人為的な物音だった。

「(杏ちゃんか、椋ちゃんか……?)」

 愛娘である二人の内、どちらかが夜更かしをしているか。それとも、二人して夜更かししているのか。そう、考えるのが一般的な考え方だろう。だが、万が一の可能性に過ぎないが、この家に忍び込んだ不届き者の仕業ではないとも言い切れない。

 何せよ、確認しておこう。
 愛娘たちならば、軽く注意してやればいい。
 何も無いなら、そのままトイレで用を足して、再び寝床に付けばいい。
 だが、もし不届き者などが侵入していたならば……。

「(――血を見ることになるだろう。暗闇に散る鮮やかな紅をな……)」

 ニタリと、むしろ、そうなることを望んでいるかのような凶悪な笑みが口元に浮かぶ。隣に寝静まる妻――藤林蝶が起きないように気を配りながら、ベッドから抜け出し、足元に置いてあるスリッパの中に足を忍び込ませる。

 そして、藤林正樹はゆっくりとベッドルームのドアノブを回した。




本命チョコなんて、お父さん許しませんよっ!

written by ぴえろ




 藤林夫妻のベッドルームはこの家の二階にある。
 必然として、正樹は太極拳の如きスローモーションで階下まで降りていった。
 世界は以前として、暗闇に支配されているが、階段には手摺が備え付けられていたので、それを頼りにしていけば、転がり落ちる危険は無い。もし、手摺が無かったとしても、転がり落ちる程、自分は老いていない。年齢は四十も半ば近くまで差し掛かったものの、幼い頃から武道を嗜んできたので、体力には自信がある。
 藤林正樹は、空手四段、柔道三段、剣道三段、計十段持ちという警察官さながらの武道歴を持っている。尤も、それはあくまで己を精進させる過程で得た結果に過ぎず、今では、武道はただ健康維持のための運動となっていた。建築士となり、“己の家を自分でデザインする”というのが、藤林正樹の幼い頃からの夢だった。その夢のため、海外へ留学もしたし、一級建築士の国家試験もクリアした。だが、今やその夢も現金収入を得る手段へと成り下がっている。

 ――今となっては、二人の愛娘を守ることこそが、藤林正樹の夢である。

 気配を殺しながら、物音の正体を探っていた正樹は、リビングに明かりが灯っているのを目にした。

「(ふむ、やはり杏ちゃんか……)」

 藤林家のリビングはダイニングキッチンと接している。
 云わば、リビングに明かりが付いているということはダイニングキッチンの明かりが付いているというのと同義だ。愛娘、藤林杏が料理を趣味としていることは、もはや、家族の中でも周知の事実である。おそらく、料理に集中するあまり、夜更かしになってしまったか、あるいは、明日の弁当の仕込みでもしているのだろう。

「(それにしても、杏ちゃんのエプロン姿も段々、母さんに似てきたものだ)」

 フローリングの床を無音で歩きながら、正樹は思う。
 ついこないだまで、ランドセルを背負っていたような気がするが、光陰矢のごとし。現実の姿はもはや大人と変わらない。時々、杏の後ろ姿を見ていると妻、藤林蝶が若返った(そんなことを目の前にして言ったら、100%ぶっ飛ばされるが)ような錯覚をしてしまい、ふと自分も二十代の頃にタイムスリップしてしまったかのような感覚に囚われるものだ。

「(ふっ……しかし、杏ちゃんのエプロン姿もいつか、他の男のモノになってしまうのだなぁ)」

 そう思うとどうしようもなく、淋しい気分になる。
 ぽっかりと空いた心の空洞に隙間風がひゅうひゅうと吹き荒ぶようだ。
 杏と椋。この二人を何処の馬の骨とも知れない野郎にやるのは、正樹は嫌だった。
 はっきり言って、嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で、仕方ないのである。
 後、千回ほど“嫌”と言っても言い足りない程嫌なのだった。
 だが、同時に女にとって、行かず後家がどれほど惨めであるかも理解している。
 なので、杏にしろ、椋にしろ、自分が認めた男ならば……まぁ、百歩譲って承諾するつもりである。

 藤林正樹の、父としてのスタンスは兎も角として、いずれは見れなくなる杏のエプロン姿である。
 ドアの隙間からたっぷり観賞し、目の裏に焼き付けるつもりだった。

「あうぅー、上手くいかないなぁー」

 ドア一枚隔てたキッチンで杏が呻く。
 正樹は「ほぅ、今の杏ちゃんでも料理を失敗することがあるのか」と心の中で呟いたが……




「最後なんだし……朋也の記憶に残る物にしたいわよね」




 ――凍りついた。世界が? いや、一人の父が。
 あまりにショッキングな一言に藤林正樹は一瞬、頭の中が真っ白になった。杏の言った言葉の意味を噛み砕いて飲み込んだが、どうにも腑に落ちず、五、六回反芻を繰り返して、どう間違っても、聞き覚えの無い“男性の固有名詞”があることを理解する。

「(“トモヤ”って何処のどいつなんだいっ!?)」

 焦燥感にも似た衝動に突き動かされ、正樹はドアノブを握ろうと手を伸ばしていた。

「(はっ! 待て……!)」

 一瞬、我を忘れたが、愚行を犯す前に思考が走る。
 追求しても、杏はそう簡単に“トモヤ”なる人物が何者であるかを明かさないだろう。あの年代の女の子というものは、まるで口にしたら効力がなくなる魔法の言葉のように、好きな男の名前を他者に……特に父親になど漏らさないものである。ならば、いっそのこと、このまま様子を見て、自分で推測していった方が良いのではないか?
 正樹は瞬時に己を諌め、まず、頭の中を整理するため、基本である5W1Hを埋めていく。

 Who? 誰が? ――杏ちゃんが。
 When? いつ? ――いつか?(いつだろうと、そいつを殺す)
 Where? どこで? ――学校で?(野郎の部屋だったら、そいつを殺す)
 Why? 何のため? ――トモヤなる野郎の好意を得るため?(もしそうなら、そいつを殺す)
 What? 何を? ――調理物を?(食ったら、そいつを殺す)
 How? どのようにして? ――どうにかする?(アーンとかしてたら、そいつを殺す)。

「(ふむ。今の段階で分かることは、相手の男が死亡する可能性が極めて高いということだけか……)」

 凶暴な殺意を隠しもしない、正樹だった。

「(しかし、一体何を作っているのだ……?)」

 正樹の知る限り、杏の調理の腕は中々大したものである。もはや、妻、藤林蝶に迫る勢いだ。一般家庭の料理なら苦もなく作れるはず。ということは、普段作り慣れていない物を作っているということだ。一体それは何なのか? 正樹は、どうにかして探ろうとドアを前に無駄な動作を繰り返していた。そして、気づく。

「(むっ、そう言えば、ドアの下は僅かに隙間があるではないか!)」

 天井に吊るされたバナナを棒で取れることを悟った猿のような閃きだった。実際は大した発見ではないということである。しかし、娘への愛に溢れている(親馬鹿になっていると言い換えてもいい)正樹には、もはや体面などあって無きが如しである。
 まるで、女王様の靴を舐める卑しい卑しい奴隷のように平伏し、ドアの下にある隙間に鼻を近づける。視覚が無理なら、まずは嗅覚から“何を”作っているかを探るつもりだった。

「(――っ! こ、この香り! この独特の香りは……!)」

 ――戦慄が背を駆け抜けた。

 まどろっこしく5W1Hを一つ一つ埋めていく必要などなかった。数学の方程式でも解くかのようだった。aの答えが分かれば、bの答えが分かり、bの答えが分かれば、cの答えが分かる。そんな風に取っ掛かりを見つけると、後は芋づる式に答えが埋まっていった。
 正樹は真実へ導かれていった。……その甘い香りに。――チョコの香りに!

 ああ、よくよく考えてみれば、最初、起きた時! 時計の日付はどうだった! そうだ! 確か……ああ、そうだった! お、おぞましい! おぞましい『2月14日』を示していたではないかっ! 何と言うことだ! しかも、こんな夜更けになるまで、何度も作り直しているということは……つまりはそういうことなのかっ!? 杏ちゃん程の美少女なら、適当にチョコ溶かして手作りっぽくした義理チョコを配れば、それだけでホワイトデーのお返しがウハウハになるはずなのにも関わらず、デコレーションに凝って何度も作り直しているということは、つまりはそういうことなのかっ!? ああ、何と言うことだ! もうこの世なんか滅びちまえ! 何で、娘は他の男を好きになるんだ!? いいじゃん、もういっそのこと、パパと結婚したらさぁ! パパよかいい男なんて、この世に存在しないよっ!?

 驚愕と混乱と憤怒に支配されながら、正樹の冷静な部分が先ほどの5W1Hを埋めていく。

杏ちゃんがWho! バレンタインデーにWHEN! 学校でWhere! トモヤとか言うクソのためWhy! 本命チョコをWhat! 渡すぅぅHow!』

 埋め終わると、正樹は幽鬼のようにふらつきながら、ベッドルームへと退散していった。
 しかし、階段を静かに上がる度、決意も同時に踏み固めていく。正樹の表情筋は修羅を形作っていった。

「(さて、今日は有給休暇を使って、見敵必殺サーチアンドデストロイでもしようか)」

 まるで、趣味のゴルフクラブへ顔を出す日曜パパのように、心の中呟いた。

 ――“トモヤ、死すべし”

 2月14日、午前3時11分、藤林家階段にて、藤林正樹(43歳)の誓いだった。





 早朝、藤林正樹は妻の作る朝食もそぞろに済まし、家を出た。無論、正樹の目的は杏の本命チョコの相手を探ることである。そして、自分の目から見て、不相応と判断した場合、その相手に鉄拳制裁……もとい、教育的指導を賜ることである。あわよくば、二度と杏に近づかぬようにコンクリート詰めして、ヘドロまみれの東京湾か浅間山脈の火山にでも、捨ててしまいたい。
 妻に言えば、大人気ないと反対されるのが目に見えているため、何も言っては無い。そのせいか、いつもと変わりなく、いってらっしゃいと一声かけくれる妻に夥しい罪悪感を覚えた。ああ、実はリストラされたが、後ろめたさから真実を告げられぬサラリーマンとは、かくも胸が締め付けられるものなのか、と密かに嘆じたのだった。……いや、あくまで喩えであり、類似したような気持ちになったというだけだが。しかし、半眼で虚ろな眼をした杏(はっはっは、相変わらず、杏ちゃんは朝が弱いなぁ)を目にして、父としての使命を思い出し、妻への罪悪感を押し殺した。

 学校という所は、案外無用心な所である。
 昨今では変質者への対応が求められており、小学校では集団登下校や地域住民による付き添いなどがあるが、高校ともなるとそんなものはない。とある坂の上の進学校でも、社会の風潮を考慮して、何らかの対応をすべきではないかという意見が出たが、結局、生徒の登校時に体育教員が門前を見張るといった程度の一時対応的な処置に留まっていた。

 ――だが、その程度の警備など、その気になれば、幾らでも破りようがある。

 さて、まず正樹は、教師よりも早く来て、校門を乗り越え(閉まっているため、それしかなかった)、手短な所で身を隠していた。そして、教師が来た後、校舎の玄関口の鍵が開いたのを確認すると、今度は校舎内へ侵入する。気分はすっかり秘密工作員だ。

「(ふっ、今日から私のことはジェームス藤林と呼ぶがいい)」

 あまりにも幸先が良いので、ほんの一瞬、自分に酔う。しかし、ここからは一瞬の気の緩みが死(社会的)に繋がるので己を諌める。
 玄関口、生徒の下駄箱があるここで、調べ物があるのだが……じきに早朝グループの生徒が登校してくる。調べ物途中で、己が身を発見されるのは些か不味い事態を招く。俗に登校時間と呼ばれる時間帯で調べるのは愚か者のすることだ。万が一にも、杏や椋に発見されないという事態が起こらないとも言い切れない。
 藤林正樹はしばし、男子トイレに身を隠した。人目には付かず、且つ、人が入っていると分かっても、中の人物を確かめにくい。気が引けないでもないが、洋式であるため、便座という休憩箇所もある。また生徒が来れば外の様子も分かるし、噂話などしていれば状況把握にもなる。これほど部外者に好都合な空間はない。正樹はこの男子トイレを橋頭堡きょうとうほとするつもりだった。

 腕時計に目を降ろすと、時刻は9時15分。
 社会に出でて早幾年。もう高校の授業、一時間目が何時に始まるかなど思い出せるわけもなかったが、今なら、生徒にも教師にも出くわすことは無いだろう。

「(必ず見つけ出してやる。待っているがいい……“トモヤ”とか言う奴っ!)」

 娘への愛を滾らせた男が、行動を再開しようとしていた。



 そして、再び、下駄箱。勿論、人影は無い。
 まずはここで“トモヤ”という名を持つ男子生徒をピックアップすること。それが藤林正樹の第一目的である。もしかすると、こっそり登校の終わりに杏が下校時に見つかるようにこっそり下駄箱に忍ばせるという可能性も無くは無いが、椋ならば兎も角、杏の性格からして、それはないだろう。
 ざっと下駄箱の数を見渡す。
 女子を省いたとしても、全男子生徒の数たるや膨大なものだが、正樹は漏れなく調べ上げるつもりだった。そのためにわざわざトイレなどで人気の無くなる時間帯を待ち続けたのである。一人、また一人と調べ上げていく。名前のシールを貼り忘れた者、剥がれてしまった者に対しては、実際に開けて確認。下駄箱は二段構成となっており、上には体育などで使う運動靴を収め、下には革靴が収められている。その内、運動靴の方の名前を確かめる。苗字だけで名前まで書いていないことが大半だった。後、足臭い。
 そんなわけで、統計から除籍された者の下駄箱は、グーパンチで若干目立たない程度に凹ませた。以後、その者は靴を取り出す度に開きにくさにムカっ腹が立つことだろう。一人の父の手を煩わせた罰(+足の臭さへの罰)としては些か穏便過ぎるかと己の慈悲深さを自画自賛してしまいそうだった。
 一年から三年の全クラスの男子生徒を調べた結果、“トモヤ”という読みに該当する生徒は以下の通りだった。

 1−A組 山下 智也
 1−C組 森田 朋冶
 1−E組 数野 友陽
 2−A組 小中 知也
 2−C組 戸川 伴冶
 2−C組 三宅 幹命
 2−D組 立花 双八
 3−B組 千田 友矢
 3−B組 穂坂 智弥
 3−C組 亀井 智哉
 3−D組 岡崎 朋也

「(十一人か……。ちっ、多いな。サッカーが出来るではないか。トモヤのみで構成された“トモヤイレブンズ”とでも名乗ってしまえ。キャプテンは……そうだな。3年の岡崎朋也、貴様がやれ)」

 キャプテンを適当に決めるが、それで事態が改善されるわけもなし。
 “トモヤ”という読みはごく一般的だとは思っていたが、せいぜい、四、五人と高をくくっていた。だが、存外多かった。

「(えぇい、まどろっこしい。いっそのこと、全員始末してやろうか!)」

 “滅菌”という言葉がある。
 一般的に行われる消毒は、言わば、人間に害がありそうな雑菌を減らすことを指す。滅菌はそれの極端な例で、有害無害関係なく、芽胞(細菌の種のようなもの)一つ残さず、完全に消滅させる。人間社会に例えれば、“何ぃ? こん中にテロリストがいるだって? しかし、誰か分からんな。そうだ。全員ぶっ殺しゃあ、その中にテロリストもいんだろ。一族郎党も殺しときゃあ、尚完璧だな”という極めて乱暴な手段だが、非常に合理的な手段である。

 藤林正樹もそれに習って、滅菌してしまおうかと思い悩んだが、滅菌には手間も時間も掛かる。リストアップした十一人を証拠も残さずともなると更に時間が掛かる。おそらく、杏の人となりから、“置く”という消極的手法は無いだろう。となれば、可能性は直接渡すことのみだが、杏がブツを渡すとしたら、授業の合間の休み時間では短過ぎる。昼休みか放課後が妥当だろう。
 もし、杏が昼休みに動けば、全員始末している最中に……ということも有り得る。それでは全てが水泡に帰してしまう。

 順当から行けば、ここにから更に標的を絞っていき、“チョコを貰うトモヤ”のみを排除すべきだ。

 そのために最も有力な手段は、聞き込みだろう。それも三年生に対する。今はどうか正樹には分からないが、おそらく、今も一学年でも違えば、まるで別社会のような所は変わっていないだろう。この学校の生徒は、胸にある盾のような校章のワッペンの色で判別がつく。緑は一年、赤は二年、紺は三年。つまり、紺色の校章のワッペンをした生徒に聞き込めば、いずれは杏の交友関係を知る者に会うことになる。

 ――しかし、それは非常にリスキィな手段だ。

 まず、第一にこちらに対する信用だ。一応、仕事へ出かける形で家を出たので、正樹の姿はスーツ姿である。普通、スーツ姿の者が校舎内をうろついていたら、生徒は何だと思うだろう。おそらく、教師と勘違いするに違いない。それに関してはOKだ。しかし、三年生に通用するだろうか。三年間も通えば、どんな教師がいるかぐらい把握していてもおかしくはない。正樹が教師ではないと見破られれば、その瞬間、昼間に校内をうろつく変質者扱いである。
 第二に……こちらがより不味い要因だが、杏も椋も普通の女の子だ。正樹が家にいる時に、友人を連れてきたことも大いにある。しかも、正樹は「これからも友達でいてやってくれ」という類の挨拶までしている。つまり、杏や椋の友人も、完全に正樹の顔を知っているということだ。杏や椋に見つかれば完全にゲームオーバーだが、杏の友人か椋の友人に見つかってもゲームオーバーだった。
 詰まる所、聞き込みにあたり重要なのは“杏の交友関係知っており、尚且つ、こちらの顔を知らない人物”を狙わねばならないことだ。
 だが、そんな微妙な距離にいる人間を、初見だけで見破ることなど正樹には不可能だった。

「(果てさて、どうしたものか……)」

 校舎の玄関口で、腕を組み眉間に皺を寄せる正樹。
 どうにか、この十一人のトモヤの中から、“チョコを渡されるトモヤ”だけを見つけ出し、尚且つ、密かにこの世から一分子も残さず消滅させる魔法のような方法はないだろうか、と頭を悩ませていた所――

「いやぁ、今日の僕は早起きだよねぇ〜」
「――っ!?」

 人が来た。咄嗟に入り口から死角となっている下駄箱の影に隠れる。

「(馬鹿な、こんな時間に? 一体何者だ。教師? 用務員? いや、違う。そんな年を取った声ではなかった)」

 気になって、影から僅かに顔を覗かせる。

「(あれは……生徒だ。しかし、何だあの頭は。キンキンではないか。こんな進学校であのような頭髪、真っ当な生徒ではないな。名前は……下駄箱には春原はるはら陽平と書いてあるな。むっ、あの胸のワッペンの色は――紺! 三年生か! クク、どうやら、天は私に味方してくれているらしいな)」

 ニタリとどう考えても正義の味方ではない笑みを浮かべると、正樹はゆっくりと身を起こし……。

「くぉらっ、春原はるはらぁっ! 今、何時だと思っとるんだっ!」

 叫んだ。恫喝に等しい叫びだった。かつて武道を嗜んでいた経験が妙な所で活きた結果だった。
 金髪の生徒――春原はビクっと身を竦ませ、

「ひぃっ! す、すみません! 実は朝から下痢がコーヒー飲んで、遅刻でトイレだったんですぅっ!」

 意味不明な言い訳を述べた。

「全く、お前という奴は相変わらずのようだな! 今日と云う今日は許さんぞ!」

 普段など知っているわけがないが、白々しくも知ってる風を装い、姿を見せる正樹。スーツ姿であるため、教師に見えるはずだった。

「また生徒指導室のお世話になりたいようだな?」
「あ、いや、ちょっと勘弁してくださいよ。ほら、先生にも分かるでしょ? 来た早々、生徒指導室に行くやるせなさっていうんですか? 切なさっていうんですか? いきなり、あんなトコに連れてかれちゃうと僕、卒業を間際に不登校になっちゃうかも!」
「いいや、私はそんなに甘くはない! 今日はみっちり生徒指導室の先生にしごいてもらうことにしよう!」

 良し良し、予想通りの展開だと正樹はほくそ笑む。
 このまま教師に成り済まし、この生徒から情報を引き出し、それが良好なモノならそれで良し。もう用はない。だが、もし、そうでないのなら、意のままに操って、情報を得るつもりだった。さしずめ、使い魔のように。

「だがまぁ、私も忙しいからな。ちょっとした質問に答えて貰えるなら、この場は見逃そうと思う」
「マジ!? しますします! あ、でも、その前に一つ、逆に聞いてもいいっすか?」
「何だ? 春原はるはら?」
「あ、また」
「また?」

 何のことであるか、全く頓着の付かない正樹だったが、



「いや、大したことじゃないんすけど……――何で僕の名前“はるはら”って言い間違えてんすか?」



 その言葉に一瞬、硬直した。
 そして、次に硬直してしまったことに後悔した。それは……証明のような、諌めるべき挙動だった。

「おかしいなぁ。僕って自分で言うのも何だけど、春原って言えば、この学校じゃ不良で有名なのに、何で間違えるんっすか?」
「…………」
「教師なら普通間違えないでしょ? 問題児だから記憶に残ってるのが当然だと思うんだけどねぇ?」
「…………」
「アンタ、怪しいよねぇ。ホントに教師なの? 新任が来たなんてこと、噂でも僕聞いてないけど、今日朝礼か何かあったっけ?」

 訝しげな視線を正樹に送る春原。
 ああ、全く……。余計なことを知ってしまったなぁ、君は……。
 そうか、“すのはら”と言うのか、“はるはら”でも漢字変換できるから、うっかり間違えてしまったよ。

「フフ、フハハ、ハァーハッハッハッハ! いやぁ、失敗失敗! なるべく“らしく”振舞おうとしたら、かえって墓穴を掘ってしまったようだ。全く人間というのはどれだけ細心の注意を払っているつもりでも、どこか間の抜けたことしてしまう生き物だねぇ。確かに君の言う通り、私は校内関係者ではない。全くの部外者だ。で? それが分かって、どうする? 本当の教師に真実を告げるか? それとも、これをネタに私を脅迫でもするのかね?」

 哄笑と共に開き直り、むしろ、逆に威圧するように問いかける。
 その間、正樹は気付かれない程度に間合いを詰めていた。既に一足飛びで届く距離である。

「(フン、青っちい正義感なんぞ振りかざしてみろ。その瞬間、鳩尾にキツイのを叩き込んでくれるわ)」

 ギュっと拳を握り締めながら、こっそり周りに目をやる。人気は相変わらず無い。
 ――今なら、ヤれる。
 その後はトイレの用具箱の中にでも、ふん縛って、放置しておけばいいだろう。

 そうだ。人間は失敗する。どれだけ偉人だろうが、天才だろうが、それは変わらない。重要なのは、失敗した後、一体どれだけリカバリーできるかということだ。確かに正体がバレてしまった。アホそうな顔とアホそうな言動とアホそうな金髪に油断してしまったとはいえ、失態は失態。それは認めよう。だが、まだ正樹はリカバリーまで諦めたわけではない。バレようが、要は他の者にまで伝わる前に処置すればいいのだ。

「あ、いや、別に。そ、そこから先は特に考えてなかったね……」

 しかし、春原の答えは意外なものだった。
 告発でもなければ、脅迫でもない。言うなれば、無策だった。これには正樹も興が削がれた。

「(こいつ、アホか? いや、これならまだ……)」

 正樹の考えが多少変わる。
 春原は、自分がバットエンドを回避したことに未だ気付いておらず、「いや、参ったね。アハハー」などと笑顔で汗をかいていた。

「ところで、春原くん。君は藤林杏という女生徒を知っているかね? おそらく、校内で一、二を争う美少女なんだが……」

 親の贔屓目全開の問いかけだった。
 勿論、正樹の中では杏と椋がその他大勢を断トツに引き離して、ワンツーフィニッシュである。

「え、杏? あぁ、知ってるけど? 何、オッサン、アンタもしかしてストーカー? やめときなよ、あんな凶暴女。確かに顔はいいけどさぁ、性格がジャイアンだよ?」
「何だと貴様ぁっ! もう一辺、娘の悪口言ってみろ! 目と鼻と耳と唇を削いで、ミキサーにかけて公衆便所の下水に流し込んでくれるわぁぁぁっ!」
「ひぃぃっ! 杏様のお父様だったんっすかぁぁぁー!? そう言えば、殺意に満ちた表情がそっくりでいらっしゃるぅぅ〜っ!」

 予定外にも身元までバレてしまった。
 いや、正樹自身からバラしたのだが、どうにも娘のことになると上手くセーブが効かない。
 何にせよ、信じられないことにこの男と杏とは交友関係があるらしい。正樹は、いっそのこと全て話すことにした。

「いや、実はな。杏ちゃんがバレンタインデーのチョコを作っていてな」
「え? 今日ってバレンタインデーだったっけ?」
「…………」

 正樹は即座に話の腰を折られた怒りよりも、目の前にいる少年の不幸さに切なさが溢れ出そうになった。私はこんな不幸な少年を鉄拳一撃によって気絶させ、トイレの用具箱の中に隠そうとしていたのか……な、なんてことをしてしまう所だったんだ。正樹はおもむろにズボンから財布を取り出し、中から千円札を抜き取る。そして、

「これで好きなだけチョコを買いなさい。そして、虫歯になるほど食べればいい」

 そっと手渡した。

「アンタ、人の神経逆撫でし過ぎでしょ!? この父親あって、あの娘ありだよっ! むしろ、逆!?」

 そう言いながらも、春原はちゃっかり、千円をズボンのポケットに仕舞う。

「見事なくらい話の腰を折られてしまったが、続けよう。私の杏ちゃんがバレンタインデーのチョコを作っていてな。どうやら、それは本命チョコのようでな。父親としては、それが相手に渡る前に何とかその相手をこの世から消してしまいたいんだ」
「あれ? 何か今、物凄いことをサラッと言われたような気がするんだけど? 僕の聞き間違い?」
「そうだ。で、だ。“トモヤ”なる人物に渡すつもりらしいんだが、春原君。君は“トモヤ”とは誰か分かるだろうか?」
「はぁ? んなの岡崎の奴以外にありえないでしょ?」
「キャプテンだったのかぁぁぁぁーっ!」
「えぇ、何言ってんすか!? ワケ分んないよ、アンタ!?」
「……いや、こっちの話だ」

 まさか、ついさっき、トモヤのみで構成されたサッカーチーム、“トモヤイレブンズ”のキャプテンとして任命した男が、例のトモヤ……いや、朋也だったとは。

「ちなみに春原くん。君は朋也くんとお友達のようだが、どの程度のお友達なのかな?」
「うーん、かなり良いと思うよ、つか、ぶっちゃけ、親友? 金的の交わりって奴さ!」
「ふむ、そうか」

 とりあえず、確実なのは目の前の金髪少年、春原が“金石の交わり”を間違える程馬鹿であるということだ。

「唐突な申し出で恐縮なのだが、朋也くんの親友である君に是非とも頼みたいことがあるのだ」
「まさか、僕にアンタの手引きでもしろっての?」
「ふむ、察しがいいじゃないか。その通りだ」
「ヤだねっ!」
「ほぅ、何故だね?」

 正樹が問いかけると、春原はビシィと己を親指で指差して、

「僕は親友を売るような下衆野郎じゃないからさっ!」

 言った。正樹は、馬鹿の癖に中々覇気があるじゃないかとちょっとだけ感心する。

「何、無論タダでとは言わない。引き受けてくれるなら、夏目くんをもう一人プレゼントしようじゃないか」

 財布の中からチラと姿を見せる。
 社会人の社会人たる由縁は、その学生を遥かに超越した経済力にある。ましてや、正樹は一家の大黒柱である。そりゃ最近、娘二人の大学入試があったので、妻、藤林蝶の巾着袋の緒がキツイが、それでも学生などお話にならない程、財力があるのだった。

「夏目が!? ……い、いや、僕は夏目なんかに説得されて、親友を売るような下衆野郎じゃないぞ!」

 効いてる。確実に効いている。正樹は勝利を確信した。

「……ちなみにこの夏目くんには秘密があってな」
「え? 秘密? まさか、折り目入れると笑ったり、泣いたりする奴?」
「そんなチャチなもんじゃない。この夏目はな。――後、二回変身を残しているんだ」
「何だってぇぇぇーっ!? そ、そんな、夏目でもうまい棒が百本買えるのに、二回も変身したら……嗚呼、うまい棒何本買えるんだ!? すぐに計算できないくらい凄いことになっちゃうよっ!」

 それは貴様の計算能力が著しく弱いだけだ。正樹は思ったが、口にはしなかった。

「どうかね? もし、私の頼みを聞いてくれるのであれば、この夏目くんは残された変身を全て見せてくれることだろう」
「うぅ……あぅぅ……うぐあああぁぁ……」

 春原が頭を抱えて悩みだす。ちっ、早く堕ちろ堕ちてしまえと心の中で正樹は念じる。

「やっぱり駄目だ! 岡崎を……僕の親友を金で売ること何てできねーっ! うまい棒は店で買えるけど、親友は店で買えないんだ! 僕は今日そのことに気付いたぞっ!」

 しかし、春原は拒否した。何だか、今日だけ凄く成長した気分だった。

「いやぁ、実にいいことを言うね、春原くん。その通り、親友は店で売ってなんかいない! 大切にしなければね。だが、春原くん。君は少し思い違いをしていないか?」
「お、思い違い?」

 怪訝そうな春原に正樹はまくしたてる。

「そう、思い違いだ。君は“親友を売る”と言っていたが、それは違う。いいかね? 君はただ悩んでいる人がいるのを発見し、その悩みを聞き、清く正しい心を持った君は思わず、その人の頼みを引き受けてしまったんだ。損得無しでね。なんと素晴らしい心がけだ! だが、それでは頼んだ人の気がすまない。感謝の気持ちにとお札を君に差し出した。勿論、高邁且つ公正な心を持った君はそれを断った! 断固たる姿勢でね! なんたる清貧ぶり! マザーテレサもびっくりだ! 残念そうにその人はお札を財布の中に戻そうとするのだが、手が滑って落としてしまう。勿論、その人は探すのだが、見つからない。『しょうがない。諦めるか』と呟いて、その人は去っていく。しかし、実はその人の足の裏にお札があった。自分で踏んづけていたのだから、見つかるわけがなかったんだな。心の清い君はそれを拾って、当然、今度会ったら返そうと思ったが……残念ながら、その人と会うことは二度となかったので、そのお金は春原くんの物になったとゆーことさ」

 言い終えると、春原は笑顔に汗を張り付かせたまま硬直していた。

「え、えと、あの〜、すいません。もちっと分かりやすく言ってもらっていいっすか?」

 残念なことに春原が一度で解釈できる文章量をオーバーしていた。

「つまり、簡単に言うと、春原くんは偉人に匹敵する徳を持った傑物であり、このお金を貰っても何ら疚しいことはない、ということだ」
「そっかぁっ! 僕イズグレートってことなんだ! いや、勿論、最初から分かってましたよ。何てったって偉大ですから、アハハー! まぁ、僕にできることなら、何でも任してくれ給えよ、チミ。何てたって偉大だもんね!」

 フッ、なんと御しやすい奴だ。正樹はほくそ笑んだ。
 こうして、正樹は心強い、かどうかは不明だが、春原という協力者(実質、使い魔)を得た。
 幾つかある正樹の頼みごとを春原が引き受けた時、丁度、一時間目のチャイムが鳴った。





「はぁ……」

 憂鬱そうな溜息が、教室の一角で漏れた。朋也は、机に寝そべり、窓の方に顔を向ける。
 朋也はここ数日どころか、ここ数ヶ月間、この調子である。何もかもが億劫で仕方が無い。生気が溜息とともにだだ漏れしてしまっているようだ。彼自身、己が憂鬱である理由は分かっていた。

 それはそう、最愛の恋人――古河渚がこの学校にいないからだ。

 漸く、彼女と何一つ変哲の無い、しかし、穏やかで心温まる日々が始まるはずだったのに。結局、自分ひとりだけ、ここにいる。朋也の体は学校にあっても、心はあの老舗なパン屋に置いてきぼりだった。

「イヤッホ〜ゥっ! 元気してるかい、岡崎ぃっ!」

 教室に鬱陶しい馬鹿が入ってくる。
 遅刻常習犯らしく、二時限目前の休み時間に姿を見せた。

「どうでもいいけど、お前朝っぱらからヤケにハイテンションな」
「ちょっと玄関口でいいことがあったもんでねぇ。何があったか、お前に分かるかな?」
「そうか、お前の下駄箱に猫のバラバラ死体が入ってたのか。そいつは良かったな」
「そんな悪質な嫌がらせで喜ぶ僕って何ですかねぇっ!?」
「だってお前、人に構ってもらえない寂しさから、嫌がらせでさえも嬉しがるようになったんだろ?」
「僕にそんな妙な設定、付け加えないでよっ! つか、どんだけ僕寂しい人なんだよっ!?」

 テキトーに相手をしてやるが、あまりの億劫さに一言二言が限界だった。

「そう言えば、知ってたか? 今日って、バレンタインデーなんだって」
「あぁ、そうだな」
「まぁ、僕たちにチョコ渡す女なんていないだろうからさ。関係ないよねぇ」
「あぁ、そうだな」
「あったとして、考えられるのは杏ぐらいだよねぇ。ま、貰っても所詮義理チョコさ。貰う価値無いよね!」
「あぁ、そうだな」
「おい、岡崎。僕の話ちゃんと聞いてんのか? 何かテキトーに相槌打たれてる気がするんだけど?」
「あぁ、そうだな」
「……あ、あのさ、岡崎。僕たちって、親友だよね!」
「いや、それは違うだろ」
「何でそこだけ、ちゃんと聞いてるんですかねぇっ!?」

 春原が涙ながらに叫ぶ。

「(どうでもいいな……)」

 朋也には興味が無い。どんな日だろうが、渚のいない学校生活に価値は無かった。渚はどうなんだろう? 自分が思うのと同じぐらい寂しいと思ってくれているだろうか? 学校にいて思うことは、せいぜい、それだけだった。

 ただ時間だけが過ぎていく。
 怠惰だった頃以上に、今、学校で過ごす時間が無為に思えてしまう朋也だった。





 午後12時45分。
 おそらく、生徒たちは昼休みに入っているであろう。迂闊に動くことができない時間帯である。しかし、それほど、急ぐことはない。標的も“岡崎朋也”なる野郎と知れたし、後は人気が無くなる放課後(あるいは下校途中に)でも、速やかに始末してしまえばいいだろう。気持ちとしては、昼休みにでも実行したいが、生徒に見つかる危険が非常に高いので、やはり、実行は放課後にしたのだった。

 杏が昼休みに告白する確率は極めて低い。
 何故なら、春原に“昼休み中の岡崎に張り付け”と命じたからだ。これで岡崎朋也と杏が二人っきりになることはない。つまり、本命チョコを渡せるシチュエーションはないということだ。

「(やはり、足りんな……)」

 正樹は手で腹を摩った。昼飯は自販機で売っているカロリーメイトとコーヒーで済ました。侘しい限りだが、これも“朋也、死すべし”という誓いのために我慢した。武士は食わねど高楊枝と言う奴である。使い所が正確では無いが、似たようなものだ。

 スーツの内ポケットに仕舞っていた新渡戸稲造の“武士道”などを嗜んで、時間を潰していた所、やや足早な靴音が一つ、トイレに入ってくる。正樹の前を横切り、隣のドアが閉まり、鍵が掛かる。続いて、カチャカチャとベルトを触る金属音。そこまで聞くと、正樹は耳を塞いだ。誰も好き好んで、他者の排泄音など聞きたくも無い。音消しに水を流すだろうが、念のためである。
 大まかなタイミングを見計らって、指の耳栓を取ると、手洗いの蛇口を捻る音が聞こえた。

「(……ヤケに多くないだろうか?)」

 正樹はふと訝しげむ。
 先ほどの彼でもう三人目だ。決して多い数ではないが、音楽室や美術室がある旧校舎の一階のトイレとしてはヤケに生徒の往来が多い気がしてならない。

「(何か良からぬことの前触れでなければ、良いのだが……)」

 今日は妙に運が悪いような気がする。そして、そんな正樹の危機感を煽る情報が耳に入る。それは二人の男子生徒が入ってきた時のことだった。

「なぁ、知ってるか? ――何か校内に不審者がいるんだってさ」

 正樹は瞠目した。

「(よもや、私のことか!? しかし、何故だ。一体何故……まさか、春原か!? 私を裏切って、教師に密告したのか!? 約束を反故にして、金だけせしめる気なのか、あの金髪がぁぁーっ!)」

 自分でそそのかしておいて何だが、正樹からすると所詮、金で友を売るような男である。本心からの信頼など全くしていないのだった。正樹はより集中して生徒の噂話を聞くため、ドアに耳を当てる。

「ああ、そういや、さっき廊下で教師が何か騒いでたな。アレか?」
「そうそう、何か私服の男がウロついてたんだってよ」

 妙だった。正樹は玄関口以来、トイレに隠れて、一向に動いてはいない。あの時は春原と接触があったものの、他は人目につかなかったはず。ウロついて見つかるなどありえるわけがないし、第一、正樹はスーツ姿であって、私服ではない。

「(ということは、“私以外の誰か”が侵入しているということか……)」

 その誰かが何者であるのか、何の目的なのか。そんなことは正樹にとってはどうでもよいことだ。問題なのは、“正樹がその不審者と勘違いされかねない”ということだ。

「(不味いな。場所を移した方がいいのかもしれん)」

 二人の男子生徒が出て行く。正樹はそれに気付かぬほど考え込んでいた。

 大腸反射という生理反応がある。
 物を食べて、異様にトイレに行きたくなったことはないだろうか。胃に食物が入るとそれが信号となって、脳に伝わり、その反応として腸ぜん動を引き起こす。それが大腸反射である。これは主に朝食を食べた時に起こる現象だが、例外がある。
 朝食を抜くと、昼食で起こることがあるのだ。
 二月頃といえば、受験シーズン真っ只中だ。夜な夜な遅くまで最後の詰め込みを行い、朝起きるのが遅くなり、結果、朝食を抜いてくる高校三年生もいるだろう。いや、三年生だけの問題ではない。ただでさえ、最近の学生は夜型の生活に陥りがちなものである。

 情報元は定かでないが、そんなことを聞いた覚えのある正樹は焦った。

 学校での大便というのは、何故か恥ずかしいものである。他の者の目がある分、自宅のように気安く行けるものではない。教室のある新校舎のトイレを使えば、誰かに自分がトイレに行ったという事実が知れる危険が常に伴う。ならば、どうするか。そう、誰も行かないであろうトイレへ向かう可能性が非常に高い。
 つまりは、正樹の隠れているトイレへ、生徒が頻繁に来る可能性もないわけではないということだ。
 当然、正樹は出るわけにはいかない。バレることはないだろうが、いつまでも閉まっているトイレに不審なものを感じる生徒が出てきてもおかしくはない。それは訪れる生徒の数が多ければ多いほど、そう思う人間が出てくる可能性は高まる。しかも、不審者が校内にいるという情報まで出回っている。

 下手をすれば、気づいた時にはトイレの外は取り囲まれ、袋小路に陥っていることも……。

「(ちぃっ、どこのどいつか分からんが、余計なことをしてくれる!)」

 出ることで発見される危険もあるが、いつの間にか袋小路なる方が屈辱的だったので、正樹はトイレを出ることにした。用具箱に“清掃中”の立て札でもないかと思ったが、そんなものはなかった。トイレの窓から外に出て、木に姿を隠す。

「(どこか、別に身を隠せる所を探さなければな……)」





 高校三年、二月の教室と言えば、天国に住まう者と地獄に住まう者が一所に同居している。
 天王山となる全国センター入試を見事制した者は「ひゃっほうっ! 後は卒業すりゃいいだけみたいなもんだぜ! 先生、後輩、そして愛しの我が母校よ、ありがとぅっ! えぇ? バレンタインデーのお返しだってぇ? その頃、ボクチンいないから、これあげる! はい、第二ボタン! これが僕のホワイトデーのお返しさ、ウヒャヒャヒャ♪」とまるで覚せい剤を使用したかのような絶頂ぶりを発揮しているだろう。逆に敗退した者は「くそがぁぁっ! この恨み末代まで忘れんぞぉぉっ! センター入試なんて考えた野郎はどこのどいつだ!? 文部大臣かっ! そうなんだな! ちくしょう、俺がそいつん家に火ぃ放ってやる! んで、捕まって母校の名を地に堕としてやるぅ! そしたら、センターをクリアした連中も面接で拒否られるかも! これって名案じゃね!?」と犯罪者予備軍もかくやな心理状態となり、心の中で血涙を流しているものである。

 無論、本命チョコなどを製作している杏が後者なわけはない。
 彼女は既に10月中旬に行われた推薦入試をパスし、保育系の短大の合格通知を頂いている。言わば、ブルジョアジー三年生だった。だが、その表情は暗い。休み時間も机に赤本を広げる面々同様、陰鬱な溜息を吐く。人の悩みは寄せては返す波のようなもの、一つ片付けても次から次へやってくるのだった。それ即ち、――“恋の悩み”。

「はぁ……どうしよっかなコレ」

 杏は手の中で包装済みのチョコを弄ぶ。というより、持て余している。
 作ったはいい。出来は完璧。後は渡すだけ。しかし、どのように渡すべきなのだろうか。メッセージカードなど書いて、こっそり机の中に入れようか……としおらしいことも考えてみたが、文章を書いてる内に「こっ恥ずかしくてしょうがないわよっ!」と破り捨ててしまった。後、確か朋也に「字が下手」と言われたことを思い出し、意気消沈。よくよく考えてみれば、この作戦は後で反応(感想とか)を確かめねばならない。一度で済ませられる恥ずかしいことをわざわざ二度に分けることはないだろう。よって、この作戦は却下した。

 かといって、直接渡すのは……多大な精神力を必要とする。
 相手の前に立つ勇気。台詞を噛まない平静さ。――そして、フラれるかも知れない覚悟。
 これまで告白できなかった時間が、重石となって、杏に圧し掛かる。

 だが、どうにかして、渡さねば去年の二の舞となるだろう。
 去年、高校二年のバレンタンデーは散々なものだった。朋也にチョコはあげられたものの、照れ隠しに“義理”と体表面積の9割を埋め尽くすようにデカデカとデコレーションした物をプレゼントしたので、結局、告白はできなかった。後、傍にいた春原とかいう生命体が「ねぇねぇ、僕には無いの?」とか言ったので、雰囲気もブチ壊しだった。勿論、春原にも一応五円チョコ(「チロルチョコ以下っすか!?」とか言われた)をプレゼントした。

 杏は延々とどのように渡すかだけを考え続けた。
 短大合格後の授業など無意味、右から左へ通り抜けフープだった。
 そして、昼休み。一瞬、椅子から腰を浮かせたが……逡巡して、座り直した。
 机の中にあるチョコを入れたり出したり、意味も無く続けていた。

「何してるの、お姉ちゃん?」
「えっ!?」

 撥ねるように顔を上げると、そこに椋がいた。
 小さな弁当箱を胸に抱えている姿を見て、今さらながら、今日の昼休み一緒にご飯を食べる口約束をしていたのを思い出す。

「あ……それ、チョコです」
「えっ! い、いやぁね〜、チョコなんかじゃないわよ」

 サッと机の中に仕舞い込む……が、時すでに遅し。

「チョコじゃないなら、何ですか?」
「矢じり」
「嘘です」

 即答。ゼロコンマで見破られた。

「いや、ホント矢じりなんだってば。ほら、一見ハートマークのように見えるけど、実はこの尖がった所が殺傷能力バツグンなのよ。しかも、この大きさなら、ゾウだって仕留められるわ」
「あ、ピンクと赤のツートーンカラーの包装にリボンまで付けてます。物凄く丁寧……。お姉ちゃん、それ、もしかして、本命チョコなんじゃあ……」

 しまった。嘘のために見せたのに、全然無視されて、しかもそんな細かい所まで見られるなんて。
 杏は一瞬、あたし何やってんだろー、とブルーになった。

「誰にあげるんですか? やっぱり、岡崎くんですか?」
「え、ああ、うん……まぁ、ね」

 椋には既に柊勝平という恋人がいる。(細身女顔の軟派系に近い彼のことが知られたら、きっと正樹にエライ目に遭わされるため、秘密にしているが)つまり、朋也への想いはすっぱり断ち切ったということだ。今日、このチョコと共に告白するつもりだが、それまでは椋のせいで告白できなかったと言っているような気がして、何だか罰が悪いのだ。

「あ、そうです。岡崎くんが、お姉ちゃんのチョコを受け取ってくれるか、私が占ってあげます」
「え……!? あ、いやぁ……」

 いいわよ、と言う時には既に遅く、シュッシュッシュッと危なっかしい手つきでトランプを切っていた。そして、例の如く、床にばら撒いてしまう。すぐに拾い上げ、杏から見てカードを裏側に、扇状に広げた。

「(うわっ、プレッシャーかかる……)」

 椋の占いは、相手が引いた三枚のトランプで運勢を占うスタイルである。

「(悪く言って悪く言って悪く言って悪く言ってぇぇぇ〜……)」

 強く念じながら、三枚引く。
 一枚目はダイヤの3、二枚目はクローバーのキング、三枚目はスペードのエース。
 中々悪くないように思えるが、実際はどうなのだろう。椋の占いは出た結果とは正反対となることで、的中率100%を誇るという本末転倒な占いなので、悪く言われれば良い結果が、良く言われれば悪い結果が出るのだった。


「――あ、岡崎くん。今日、お父さんに殺されます」


「ええぇぇぇーっ!?」

 あまりの衝撃的な発言に、性質を忘れて、本気で叫んだ。

「ちょ、ちょっと、椋! どういうことなのよ!?」
「あ、その……まず、お姉ちゃんが引いた一枚目、ダイヤの3は岡崎君を意味しています」
「え、何で?」

 ちんぷんかんぷんの杏。

「ダイヤは財産や土地と言った富を象徴してます。岡崎くんの“岡”も“崎”も、それぞれ、“小山”、“岬”等を意味していて、とても大地に縁深い苗字です。それに3というのはつまり、高校三年生を意味しますから、ダイヤの3は岡崎くんを暗示していることになります」
「へ、へぇ〜、そうなんだ」

 こじつけのように思えるが、そういうことらしい。

「そして、二枚目のクローバーのキングはお父さんです。クローバーは健康や森を象徴してます。“藤林”というのはとても森っぽい苗字です。そして、キングは王、最上のものという意味合いがあるので、藤林家の家長ということ意味していて、つまりはお父さんを暗示しています」
「ふ〜ん、クローバーのキングがお父さんねぇ……」

 何となく法則性があるような無いような……そんな説明だった。

「そして、最後の三枚目のスペードのエース。スペードは力や剣の象徴です。また攻撃を意味しますので、岡崎くんがお父さんに攻撃されることになります。しかも、エースは最強の数字ですから、何が何でもやっつけてやるっていう、お父さんの意思みたいなものを感じました」
「でも、それだと逆に朋也がお父さんをやっつけてやるとも取れるんじゃない?」

 ダメ出しを出す杏。こういう所はたとえ、姉妹でも手厳しい。

「あ……ぅ、そ、それはその……お、乙女のインスピレーションですから」

 最終的に、椋の占いの論理はそこに行き着くのだった。
 あまりに不吉な内容に慌てふためいたものの、“椋の占いは必ず外れる”のだ。
 つまり、朋也が父に殺されることは絶対ない、ということだ。

 安堵したものの、結局、杏は昼休みにチョコを渡しに行くことはできなかった。椋の占いはあくまで最悪の事態が起こらないというだけで、フラれないとは言っていないのだ。もう少し、心の準備をする時間が欲しかった。杏は、放課後に全てをかけることにした。





 藤林正樹は迷っていた。
 校内を、という意味ではなく、何処に潜伏するかという意味で迷っていた。
 しかし、そんな折、体育館倉庫の窓が僅かに開いているのを目にする。

「(体育倉庫、か……)」

 悪くない。人目には付かないだろうし、トイレよりも広い。道具を仕舞う生徒が訪れるだろうが、物が置かれている分、死角も多い。幾らでも隠れられるだろう。
 正樹は、僅かに開いている窓をスライドさせ、身を乗り出す。人一人がようやく入れる程度の窓だったが、然したる苦も無く入れた。足を下ろし、窓を閉めて、鍵を掛ける。

 ――と、その時。

「おぅ、悪ぃな。ここはもう満員だ。他当たんな」
「――っ!?」

 すぐ背後で声。
 正樹は振り向き様、目の端に見えた赤茶けた髪へ裏拳。空を切る。何かカシャンと鳴ったが気にも留めず、ただしゃがんで躱されたことに驚嘆。しかし、武道で培ってきた戦闘本能が、意思と無関係に攻撃を続行。捻転による遠心力を殺さず、再び赤茶けた髪に向かって、中段回し蹴り。赤茶けた髪が瞬時に遠ざかる。ザッと云う音からバックステップで下がったと知る。

「貴様……何者だ?」

 怪しい男だった。
 先ほどの身のこなし……ただものではない。加えて、私服姿というのが更に怪しさに輪をかけている。おそらく、目の前の男がウロついていたという不審者なのだろう。

「何、ただの通りすがりのパン屋さんだ」
「只のパン屋風情が、私の攻撃を躱せる訳が無い」
「かっ、こちとら人の三倍、勘が鋭くてな」



 ――それが藤林正樹と古河秋生、二人の父の出会いだった。



後編も見ておく。



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